このティパサ遺跡編では,2018年11月7日午後,シェルシェルからティパサへ移動し,ここでランチ,そしてティパサ遺跡を見物し,アルジェへ戻ったときの写真を載せました.
ティパサ遺跡はマーカー5の辺りに位置している.
別窓で大きなGoogleマップを開くシェルシェルの後,(別の)パトカーに先導されティパサの街に来た.赤い屋根白い壁の建物が目立つ.
ティパサ はアラビア語で荒廃した都市の意だそうだ.元々ティパサはフェニキア人によって建てられ,クラウディウス帝のときに古代ローマの軍港を備える軍事拠点に変わってきて,さらに聖堂や道路,住宅が整備されていったという.
明るく燦々と陽が射し込むが結構気温は低く,スカーフ姿の女性もコートを羽織っている.
お店の看板は当然アラビア語がメインで,仏語併記がそれに続くようだ.
並木を備えた歩道の商店街を歩いた.ずいぶん枝分かれの多い木だがはて何であろうか.遮光性はかなり高く,陽射しの強いところ向き街路樹にぴったりだ.
車と同じくらい太い幹,大きなコブのある不思議な木も植えられている.シェルシェル博物館前のオンブーの木かな~と思ったが,こちらは枝を切り落としておらず,よく茂ったままだ.訊いておけばよかったな~
ティパサ遺跡手前になった.写真左側が私たちの入るレストラン.右が大浴場跡が見えるオープンカフェ.
レストラン入り口には氷箱の上に食材が現物展示されていた.よく知らない魚もあるが,突拍子もない魚と云うほどではない.
これが入ったレストラン.でも肝腎の出してもらった料理を撮るのを忘れていた.
思い起こすと野菜サラダに,4種の魚にエビなどのソテーではなかったか.とにかく大量で食べきれなかったのは確かだ.
レストランの壁に小さな絵や砂漠のバラ(写真左下)などちょっとしたお土産品を並べていた.
砂漠のバラはお隣のチュニジアやモロッコでもよく売られているが,石膏(硫酸カルシウムCaSO4)や重晶石(硫酸バリウムBaSO4)で,本来透明だが砂が付着し茶色でザラつきあまり美しくはない.またこうした石は水に溶けた成分が結晶に成長してできるため,全く水分のない場所ではないようだ.
さてレストランから先は1980年文化遺産登録ティパサ(Tipasa)のエリアになる.
ランチを頂いたレストランから続くデクマヌス通り(東西通り)を行くと程なく直径80mもあるという闘技場に出合う.ここでは奴隷のグラディエーター同士,若しくは猛獣などとの命を掛けた闘いが行われたのであろう.まあ残酷極まりないものだ.
グラディエーターの入場ゲートは東西にあり,対戦相手同士その双方から入場したのであろう.
闘技場西ゲートには馬に跨る人のレリーフが刻まれた石材が横たわっていた.添乗Nさんの説明によればフェニキア時代の墓石だということだ.墓石まで建材として利用したわけだが,元のレリーフはなかなか興味深い.
闘技場を過ぎて進むとフォーラムがあり,さらに行くと道を挟んで新旧2つの神殿跡がある.これについて記したサイトを参照すると,ユピテル(ジュピター),ユノ(ジュノー),ミネルヴァ3神を祀る神殿だそうだ.
ユピテル(Juppiter)は日本でGPS製品メーカーがあるが,ギリシア神話のゼウスと同一視された古代ローマの最高神だそうだ.
またユノ(Juno)はユピテル(ジュピター)のお妃で,ギリシア神話のヘラと同一視された古代イタリアの女神,ミネルヴァ(Minerva)はゼウスの娘で,知恵の女神,ということだ.
この写真は新しい神殿の方であるが,上部の石積みは生贄を捧げる台ということだ.
デクマヌス通り(Decumanus Maximus)は東西基幹道路だけあってかなり広い.なお南北基幹道路はカルド通り(cardo maximus)と称され,東西道路より一層主要であるそうだ.cardoがcardinal(枢機卿)などの元になっているようで,まあ基軸と捉えやすい.
古代ローマ都市はここに限らず,どこも南北基幹道路とそれに直行する東西基幹道路をベースに街作りされているそうだ.
ところで真ん中の石枠は何だったか....井戸,水汲み場だったかな~
やがて地中海へと連なる南北基幹道路カルド通り(cardo maximus)に出て,北に進んだ.この通りは実に立派で現代風に言えば何とかかんとか街大通りに相当するであろう.
つまり当時は人と多分馬車も通っていたであろう写真でガイドSさんの立つ大通りの両側に石柱で区切られた歩道があり,その脇にこれまた石柱で区分された商店街が並んでいたという.
ガイドSさんの前の石材で囲われたのは下水道マンホールだそうで,2,000年前の自治体が既に下水道事業を実施していたことには驚く他なかろう.現在でも下水道はおろか上水道もままならない自治体もあるのだから.
さて両側の商店街であるが,現代同様青果店などあったそうであるが,石の境界線で区切られているのは解るとして,その石にちゃんとシャッター(これは多分木製で一欠片も残ってないが)のガイド溝が刻まれていることにこれまた感心する.昔も今同様ドロボーとか盗人とか油断ならなかったのであろう.
カルド通りの右側はお金持ちの居住区だったそうだ.お金持ちは広い家に住み,どうやら奴隷や使用人を多く抱えていたようだ.ここで私が思い浮かべるのはベンハー(奴隷時の)だが,それでいいのだろうか.
このエリアは地中海の眺めが利き,陽当たりが良さそう(これは日本人感覚かな)で,もちろん敷地が広い.現代で言えばビルゲイツ氏とか,グーグルのヘネシー会長とか.....のような人たちの住まいが集中していたようである.
またティパサ遺跡と接するこの辺りの湾は,ローマの軍港として活用されたようだ.現在海は青く美しいが岸辺にはゴミが散乱し,ひどくなっているのは残念だ.
お金持ちの居住エリアの住宅は当然立派で,パテオなどには立派なモザイク画が残されている.当時はまだ適当な顔料はなかった(現代でも屋外に晒すに耐えるのはあまりないであろうが)ので,石の欠片でモザイク画を描いたのが幸いしたのであろう,今もくっきり残されている.
モザイク画はこうした邸宅庭跡に限らず,前述のカルド通りなど通りのあちこちに残されているが,何分にも道路で,現在も(私を含めて)誰しもが踏み歩くので傷みが進んでいるのだ.
添乗Nさんに教わったがこのようにレンガを漆喰で固めた構造は先ず浴場と予想して間違いないそうだ.ローマ人はお風呂好きで知られ,必ずこうした浴場(Roman Bath)を建設したと思う.
お風呂はぬるい湯から,通常温度,熱い湯(それとサウナもか?)とかいろいろ用意されていたようだ.
ここでは魚醤を発酵させる工場があったという.なぜそんな昔のことが魚醤と判ったのか?瓶の底の沈殿物を,クロマトグラフィーなどでしょうか,現代の手法で分析した結果らしい.
現在大豆の醤油こそ世界的に普及しているが,魚醤はまだそれほどでもないと思うが,これから広まるかも知れないですね.
馬を連れた人も多く往来したそうで,ここで馬を繋ぎ餌を与えて休憩したそうだ.つまり石の容器が飼葉桶ということだが,以前イエスキリストが生後飼葉桶で....と云うストーリーを現物でみて大いに驚いたものだが,今度は飼葉桶が石製と聞いても何ら驚かない.
この飼葉や水を満たした石容器には孔が穿いてあり,そこに手綱を結わえて馬を休ませたということだ.
4世紀創建という古く大きな聖堂跡が残されている.縦に52m,横に42mの広さがあり,アルジェリア最大のバシリカということだ.
他の建造物に流用されたためか多くは残ってないが,アーチのある壁,頭柱や床の一部モザイクが見られる.4世紀というからローマ帝国がキリスト教を承認して間もないころであろうか.
丘に上り先程通った富裕層エリアを眺めた.確かに地中海を望む斜面に展開され,現代でも高級住宅地であろう.
写真林の上,右から1/5くらいに見える丸い突起状のものは午前見物してきたマウレタニア王家の墓だそうで,言われればそうかなと思った.
これは井戸の跡だそうだ.中央の穴から掘り下げた地下から湧き出る水を階段状同心段上で汲み上げたようである.
円筒状構造物縁に皆で上り,回ったのだが....これが何であったかどうしても思い出せない.
街の外れに共同墓地があった.直径18mと大きな円形囲いの中に石棺が今も所々に点在している.また横向きの凹み部屋があるが,お棺を収める部屋だったようだ.これを見るに基本的には土葬だったようだ.
なおこの墓地の外,現在は通路になっている辺りにも埋葬跡が見えた.これは庶民の墓で石棺ではなく,地面に穴を掘り,そこに直接埋葬し,2枚の石板をハの字状に被せた形式だ.ハの字の一部が露出しているのが何箇所かあった.
きれいに保存された夫婦用石棺があった.ローマ人の夫婦石棺は他でも見たことがあったが,宗教に拘わらず改めて夫婦のあり方に関する考え方が問われるような.....
私は著しく疎いのだがアルベールカミュの石碑だそうだ.ガイドSさんが仏語碑文を噛み砕いて説明して下さったが,すみませんわかりませんでした.
ただカミュはこの地を愛し,幾度となく訪れたのは理解でき,そして若くしてノーベル文学賞を受賞し,早くこの世を去ったそうである.
カルド通り,デクマヌス通り以上にお約束のローマン円形劇場がもちろんここでも存在した.
演台の手前にオーケストラ,その前に半円形すり鉢状観客席というレイアウトは定番通りである.
普通傾斜した観客席を設けるために傾斜地に建設するのが一般的だが,ここでは概ね平地に建設されているのが特徴だそうだ.収容人数は2,000人だったそうで,まあ小型の部類に属するのではなかろうか.
アルジェリアの人にとって東洋人は珍しいようで,一緒に写って,と頼まれる.ならついでに私も,とシャッターを押してもらったのがこれ.思い切り強く,力任せに押したようでブレどころではなく変形している.
イスラムの女性を写してはいけないとさんざん思っていたが,かなりお気軽な女性の多いことにホッとした.イランもこのように感じたものだが,似ていようか.
ティパサ遺跡見物を終えると陽は落ちかけてきた.私たちはバスに乗り,朝出てきたアルジェの街に戻るべく進んだ.そして陽は徐々に傾き,羊の群れが家に帰る様子が見えた.
私たちはハニホテルに戻る前に,夕食のためRahet El-Belレストランに寄った.
ランチに続きまた魚料理だった.でもこの後はお肉だけが続きますよ~とのことだ.
お昼と違って,魚は一種で,量的にも普通だ.焼いた魚は美味しかった.醤油があればもっと良かったと思う.
なおここもアルコール飲料はなかった.そして食後.ハニホテルに戻り,連泊した.