ジェミラ遺跡Djemila

このジェミラ遺跡編では,2018年11月9日朝セティフの街を出た後,ジュミラへと東に進み,ジュミラに到着すると先ず同博物館を観て,次いでジュミラ遺跡を見物,終えてランチを頂きバスでここを去ったときの写真を載せました.

ジェミラ遺跡付近のGoogleマップ(静止マップ)map around Djemila

ジェミラ遺跡付近のマップ(Googleマップのスクリーンショット)

セティフ7から街道を東に進み,北へ折れ,暫く走りジュミラ8に到着した.

ジュミラを離れるときは一旦元走った南北道をそのまま戻り,東西道に交わると東に進んだ.

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ジェミラへgo to Djemila

ジェミラに向かい小麦畑は続く

小麦畑は続く

セティフを出てから高原の道は続き,広大な小麦畑が続いた.今年の収穫はすっかり終えて,次の作付を待っている状況であろうか.


ジェミラへ起伏ある高原は続く

起伏ある高原は続く

起伏ある高原は続いた.さすが急斜面こそ畑は無理だが,緩斜面には畑が展開されている.

また向こう側(北側)には本高原を囲むが如く,テルアトラスが並行して走っているようだ.


ジェミラの村に来た

ジェミラの村に来た

テルアトラス支脈であろう峰の山麓の窪地に建物が集中して見える.白いミナレットも見える.どうやら現代のジェミラの村のようである.

周囲は木立が多く,テルアトラス支脈も岩だけでなく低木で覆われ,それが朝の斜光線でとても美しい.

ジェミラとはアラビア語で美しいところの意だそうだが,特に南のベルベル族など砂漠の民から見ると実感であったのであろう.


ジェミラ遺跡ゲートに到着

ジェミラ遺跡ゲートに到着

そしてジェミラ遺跡ゲートに到着した.ゲートにはユネスコ世界遺産のロゴが付いている.1982年文化遺産として登録されたようだ.

ジェミラは西暦98年に建てられた標高900mに位置する古代ローマの植民都市で,クイクルム(Cuiculum)の名だったそうだ.当初南から襲来する遊牧民の防御する兵の居住地として建設され,そこに市場が付加されるなどを機に,人口が増え,大通り(カルド),住宅街,浴場,劇場,フォーラム,寺院,アーチ,キリスト教バシリカ....など順次加わり,発展していったようで,3世紀前半最盛期には人口15,0000人に達したそうである.街の経済は主に周辺で産する小麦などの穀物,オリーブなどの農作物だったそうだ.

しかし5世紀頃になると南方から攻め入るトゥアレグ族(Tuareg:ベルベル人系遊牧民)等の攻撃を受け,衰退していったようだ.ただ攻めてきた連中は遊牧民であるためか,ここに定住することはなかったようだ.なおトゥアレグ族は元来好戦的というか,反政府的というか,近年では例えば仏による北アフリカ地域の植民地化に頑強に抵抗した歴史があるそうだ.

ところでこのベルベル人系遊牧民によるジェミラの消滅は,前日訪れたベニハマッド要塞が,アラブ系遊牧民(ベドウィン)バヌーヒラル族の襲撃で衰退したのと少し似ておりますね.


ジェミラ博物館Djemila Museum

ジェミラ博物館入り口

ジェミラ博物館入り口

博物館入り口外壁には早速モザイク画が貼られ,彫刻が掲げられている.こうした作品は遺跡あちこちで発掘されたもので,劣化防止のため運び込まれたものであろう.この点ロンドンの大英博物館のように他国から運んで展示しているのと大いに異なる.

なお本ジェミラ博物館は撮影可だったのでありがたく写させてもらいました.


ジェミラ博物館ユリアドムナのレリーフ

ユリアドムナのレリーフ

入り口壁(上写真中ほど)に掲げてあったユリアドムナ(Julia Domna:170AD~217AD)のレリーフだ.祭祀王の家系の出で,180年代後半,後にローマ帝国皇帝となるセウェルスと結婚(彼は再婚)した.そしてその息子は必ずしも評判が芳しくないカラカラ帝(在位188年~217年)と弟ゲタだ.


ジェミラ博物館庭に転がる石の建造物

ジェミラ博物館庭に転がる石の建造物

ジェミラ博物館はさして大きくはなく,入り切らない発掘物が庭にゴロゴロ転がっている(一応立ててるが)

あまりに多いのでいちいち説明書きなど用意できないようで,何が何であるか......はともかくとして,学芸員の人々も,そのうちそれらがどこから出土したか判らなくなるのでは,と他人事ながらちょっと心配だ.


ジェミラ博物館モザイク画と石像,石柱

モザイク画と石像,石柱

入って直ぐの部屋には,壁にモザイク画,床に石像や石柱が並べてあった.

中央の,立派な髭を蓄えた頭像は前記セプティミウス・セウェルス帝(Lucius Septimius Severus:在位193年~211年)だったと思う.彼はアフリカ出身で元老院議員,財務官,護民官など経験し,前記ユリアドムナと結婚.

その後コンモドゥス帝が暗殺され,セウェルス帝の時代を作る.帝は所謂軍事独裁政権化を進め,兵の給料を引き上げ,軍の規模を拡大し,シリア周辺国,さらに東のパルティア王国など征服した.こうした政策は所得向上,雇用拡大,軍の士気UPなどで,市民の支持もかなり大きかったそうである.


ジェミラ博物館狩りと剣闘士の闘いモザイク画

狩りと剣闘士の闘いモザイク画

上半分位は鹿,イノシシ,オオアリクイ,狼,槍を投げたハンター,うさぎとアルマジロ(?)を持った従者だ.

そして下側にはライオンと豹に対峙するグラディエーターが二人描かれている.

ただライオンの顔がバカに人間くさいのが引っかる.ゆるキャラ大会に出場してきたような.....


ジェミラ博物館バッカスとそのストーリー

バッカスとそのストーリー

像の下にバッカス(Bacchus)と記されている.背面はそのストーリーがモザイク画で描かれていたように思う.ローマ神話のバッカスはワインの神で,ギリシア神話のディオニューソスに対応するのだそうだ.


ジェミラ博物館牛に変身したゼウスとユーロペ(Europa)

牛に変身したゼウスとユーロペ

夏ごろベイルート博物館で同じモチーフの牛に変身したゼウスとユーロペを見て間もないので気付いた.

ユーロペ(Europa)はフェニキア王アゲノルの娘で,際立って美しかったそうだ.ゼウスは一目惚れし,白い牛に変身し,ユーロペ姫を背に乗せて誘拐し,エーゲ海を渡るとクレタ島に辿り着き,一緒になったという.まあ誘拐婚の一種であるが,神様なので何でもありなわけだ.

ただこの絵で,3本分かれの尾を持ち,頭でっかち,3本のベロを口から出す魚は何でしょう?


ジェミラ博物館発掘された鉄製品

発掘された鉄製品

モザイク画や彫像の他に青銅や鉄,骨製品,ガラスなどの実用品,装飾品などが展示されていた.


ジェミラ遺跡Djemila Ruins

ジェミラ遺跡全景

ジェミラ遺跡全景

博物館を出て,緩やかな傾斜地をジェミラ遺跡に下った.徐々に大きな遺跡が迫ってきたが上手く表現できてないな~

ジェミラ遺跡は2つのワディに挟まれた標高900mの山がちで岩の多い場所に上手く築かれたのが特徴だそうだ.そして,ローマ都市計画は一般にカルド通り(南北基幹道路)と,それに直交するデクマヌス通り(東西基幹道路)とを基本として実施されるが,ここジェミラはカルド通りだけでデクマヌス通りがない(もちろん普通の直行路は多くあり)珍しい街だそうだ.

こうして遺跡に向かい歩いて方向がデクマヌス通り方向に相当する筈であるが,この方向は斜度が大きく基幹路を設けるには急過ぎると判断されたのであろうか.


ジェミラ遺跡キリスト教洗礼堂

キリスト教洗礼堂

4世紀に作られたという洗礼堂だ.ローマ帝国コンスタンティヌス帝が出したミラノ勅令によってキリスト教が公認されたのが313年ということなので,それからいくらも経ってないということかな.

それまで神は皇帝や神話で引き継がれてきた神々であろうから,かなり思い切った転換だったであろう.


ジェミラ遺跡洗礼堂入り口

洗礼堂入り口

洗礼堂の入口付近はとても綺麗なまま残されている.床の敷石も一部残されている.

洗礼堂本体もそうであるが,建材は主にレンガで,漆喰(セメント)で固めた構造のようである.


ジェミラ遺跡洗礼槽跡

洗礼槽跡

これは洗礼槽の跡らしい.現代は身体の一部に水を付けることが多いのではないかと思われるが,当時はこうした大きな槽で全身を浸すことが多かったようだ.


ジェミラ遺跡バシリカ聖堂跡

バシリカ聖堂跡

やはり4世紀の建設で,コリント式柱頭を持つ柱の並び様式からバシリカ形式の聖堂と解るそうだ.

中央の崩れた石材群は祭壇跡でしょうか?


ジェミラ遺跡バシリカ聖堂キリスト教のアイコン石碑

キリスト教のアイコン石碑

上聖堂中央の石像の一つで,右は放射状パターンの付いたリング中央に十字が刻まれており,わかり易い.

もう一つ左側は若干ねじれた放射状パターンの付いたリングに十字があるのだが,十字の片端(右と下)がリング状になっている.当時はこちらもキリスト教のシンボルだったようだし,今見ても十字架の一種と容易に理解できる.


ジェミラ遺跡公衆大浴場跡

公衆大浴場跡

公衆浴場は複数箇所設けられ,これはその中の一つ.手前短い角柱エリアは,角柱の上に床板を敷き,下でスチーム(または熱湯)を循環し,サウナのような部屋だったらしい.

その後ろは水風呂,ぬるま湯,熱いお風呂,さらにスポーツジム,といろいろ並んでいたそうだ.

お風呂のボイラー焚きはローマ帝国の掟に従い専ら奴隷の役目だったそうだ.


ジェミラ遺跡邸宅街

邸宅街

こちらは邸宅街で,貴族クラスのお金持ちの住むエリアだったようだ.成城とか,それ以上の街に相当しようか.


ジェミラ遺跡セプティミウス・セウェルス帝の神殿

セプティミウス・セウェルス帝の神殿

上述のようにユリアドムナと再婚したセプティミウス・セウェルス帝(Lucius Septimius Severus:在位193年~211年)を祀った神殿だ.つまり皇帝は(多分没後)神になったわけだ.

この写真では一見切妻屋根がきれいに残っているように錯覚するが,実際屋根は残っていない.ただ開口部のない壁は全部残されており,入ってみると意外に広く,高さもあった.


ジェミラ遺跡セプティミウス・セウェルス帝の神殿前景

セプティミウス・セウェルス帝の神殿前景

神殿前側は円柱で支えられた前室があり,階段で登るようになっている.

6本ほどあるコリント式柱頭を持つ柱は,一部白いが,一部は茶色である.砂岩など芯材の上に,装飾の漆喰で白くコーティングし,その一部が剥がれ落ちたのであろうか.

なお現イタリアローマには,高さ20.88m,幅23.27m,奥行き11.20mという巨大で立派なセプティミウス・セウェルス帝の凱旋門が残されているそうだ.


ジェミラ遺跡裁判所跡

裁判所跡

これは裁判所跡だそうだ.かなり広い.ローマの裁判は判事,被告,原告,双方の証人など出廷して開かれたそうだが,この広さからすると傍聴人や,報道関係者も相当多く参加していたのではなかろうか.


ジェミラ遺跡円形劇場

円形劇場

山の斜面を観客席に利用した典型的ローマ劇場様式だ.観客席は3,000人収容可能で,最大人口時15,000人の1/5を収容できたようである.

客席からステージがよく見えるのは当然だが,ここは背後の山並みも望めるのがいいと思う.


ジェミラ遺跡円形劇場のステージ

円形劇場のステージ

短い角柱が今は無いステージの床を支えた基礎.その背後の大きな衝立は音響反射板で,演者控え,準備の間.手前石の凹凸衝立はオーケストラの場所.半円地面のこちら側数段がS席,その手前仕切り板を挟んだ上はA席,B席となっていたのであろう.


ジェミラ遺跡円形劇場からフォーラムに行く道

円形劇場からフォーラムに行く道

劇場からはフォーラムに行く道があった.アーチがあるが,単なる装飾か,或いはある種のゲート機能があったのか.


ジェミラ遺跡馬の手綱結わえ

馬の手綱結わえ

馬(やロバ)の手綱をここに結わえて停めたそうだ.まあずいぶんしっかりしたフックですね.往時の宅配業者はここに馬を停めて,荷物の集配を行ったのでしょう.


ジェミラ遺跡ビーナス神殿

ビーナス神殿

ローマ神話の愛と美の女神ビーナスを祀った神殿.ギリシア神話のアプロディーテーと同じようだ.そしてこうした神殿は幾つか存在するようだ.

建物はかなり壊れているが,意外と小型建築だったように見える.まあ愛と美の女神を祀る分には政治的には何ら差し障りなさそうだし,無難だったであろう.


ジェミラ遺跡旧フォーラム

旧フォーラム

きれいに床石が並べられた四角い場所があった.ここは古いフォーラム(forum:集会場,公共広場)だそうである.

周囲には文字(ローマ字)で内容不明ながら何か記した石柱,模様を刻んだ石柱など並んでいる.


ジェミラ遺跡ハドリアヌスの台

ハドリアヌスの台

旧フォーラム中程には大きな石の台があった.ハドリアヌスの台と称されるようだが,ローマ五賢帝の一人,第14代皇帝ハドリアヌス(Publius Aelius Traianus Hadrianus:在位117~138年)のことなのであろうが,なぜこの台がそうした名でよばれるのか不明だ.

台側面には一匹の羊が正に斧で首を断ち切らんとされているシーンがレリーフで刻まれ,これが生贄を捧げる台なのであろうと想像される.でも神殿でもあるまいし,フォーラムだ.生贄が要るのかな~....未だ腑に落ちてない.もっとちゃんと訊いておくべきだった.


ジェミラ遺跡南北大通り(カルド)

南北大通り(カルド)

これが唯一の大通りカルドを南から北方向を眺めた図だ.列柱は大理石ではなく,比較的耐久性の低い砂岩や石灰岩のように見える.ただ多分雨が少ないのであろう,保存状態はかなりいいように見える.

そしてよく見ると馬車が削ったのであろう,石舗装には轍が残っている.


ジェミラ遺跡ジュピター神殿入り口

ジュピター神殿入り口

このアーチを潜っていくとジュピター神殿になる.ジュピターは最高神なのでそれこそあっちにもこっちにも祀る神殿が在ると思われる.


ジェミラ遺跡ジュピター像

ジュピター像

頭が欠けているが大理石の巨大な像だった.でもこの写真ではサイズが見当付かない,周囲に人がいる場面で撮るべきだった.

頭部が無いのは偶像崇拝を禁じるイスラムの時代になって,これらの像やモザイクを見付けた信徒が破壊したのではないかと見られているようだ.


ジェミラ遺跡公衆トイレ

公衆トイレ

下部に下水溝が走る水洗式公衆トイレだったそうだ.なぜか当時は男女共用だったそうで,既にLGBT対応に配慮されていたようだ.

ただこの明けっぴろげ感は一昔前の所謂ニーハオトイレを遥かに凌ぎ,ちょっと躊躇しそうですな.


ジェミラ遺跡コシニウス市場(Cosinius market)

コシニウス市場

そのうちコシニウス市場(Cosinius market)に出た.コシニウスはこの市場創設に尽力した兄弟の名だとか.

市場は当時少なくとも一部は屋根が架けられ,雨天営業を可能ならしめ,また屋根の雨水は有効に活用されたそうである.

この市場で取引された商品は近郷の農産物や,多分衣類や日用品が多かったのではなかろうか.


ジェミラ遺跡コシニウス市場の商品陳列台

コシニウス市場の商品陳列台

市場周囲には商品陳列の石棚が幾つか並んでいる(既に多くは失われたであろうが).写真はその一つで台柱には何やら立像が刻まれている.このショップオーナー家の守り神であろうか.


ジェミラ遺跡コシニウス市場の計量容器

コシニウス市場の計量容器

この角錐状容器(凹み)の底には穴が設けられ,そこに栓を入れれば,一定量の計量容器として機能する.例えば左の大きいのは10リットル,中央は1リットル,右は5リットルといった具合だ.

売り方はここに例えば小麦粉を満たし,商取引がまとまったら,買い手は穴の下にポリ袋を広げて支え,売り手は栓を抜いて,小麦粉を下に落下させる.

扱う商品は小麦粉に限らず,大豆とか,米とか粒状のもの,それにオリーブオイルなど液体だ.ただ同じ店で扱うとブツが汚れるので扱い商品は専門店毎に分けられていたであろう.


ジェミラ遺跡コシニウス市場の導水路

コシニウス市場の導水路

屋根の水は雨樋を伝わり,この導水路終端まで導かれたようだ.水の貴重なこの地方にあって水の扱いは重視され,こうしたオブジェの出口まで工夫されたようだ.ところでこの顔は何でしょう?イノシシ,ではないし,犬か狼でしょうか....


ジェミラ遺跡浴場に残るタイル床

浴場に残るタイル床

お風呂は多くあったが,これは小型タイプの一つ.小型と言えども温度別の部屋を備え,アスレチックルームも設備していたそうだ.

写真のように彩色タイルの床やレンガ壁がきれいに残されているのが印象的だ.


ジェミラ遺跡通りの下水溝マンホール

通りの下水溝マンホール

石工職人の個人的遊びか,それともジェミラ市水道局の指示か,マンホール(実際はそれより若干小さ目だが)蓋のフック入れ穴がきれいに開けられている.仮に東京都水道局ならイチョウの葉デザインを指示していたであろうところですな.


ジェミラ遺跡円錐給水泉

円錐給水泉

こちらもジェミラ市水道局の差し金で施工されたであろう円錐型タワーを有する給水泉だ.円錐の上から円錐急斜面を伝わり,下のドーナツポールに流れ込んだか.この流れの間に空気に触れる時間が長いので,例えば熱帯魚水槽のフィルターなどで酸素混入を多くするに適した仕組みだが,はて市民の使う水には何ら効果ないような....

解ります,もちろん,そういった実用価値のみで決して人が動くものでないことは.


ジェミラ遺跡カラカラ帝の凱旋門

カラカラ帝の凱旋門

カラカラ帝(Caracalla,本名 Lucius Septimius:在位209年~217年)の凱旋門だ.上述のセウェルス朝の初代君主セプティミウス・セウェルス帝の長男で,史上に残る暴君の一人とされるようだ.

全属州民にローマ帝国の市民権を与えるアントニヌス勅令(税収拡大が目的とも)を実施し,民族や人種による出自差別を撤廃したという革新的政策を実行したり,また銀貨の銀含有量を減らした(いいかどうか判らないが),大浴場(カラカラ浴場)建設など大きな事業を成したそうだ.

一方共同統治を親から申し付けられていた実弟ゲタの殺害,弟帝与党貴族や元老院議員2万人もの粛清など横暴ぶりは甚だしく,暴君の他呼びようがないようだ.最後はメソポタミア遠征時,部下に暗殺されたそうである.

ではなぜここに立派な凱旋門があるのでしょう.それは自らが建設したためのようである.


ジェミラ遺跡拡張された住宅地

拡張された住宅地

さてベルベル人系遊牧民の侵略があるまでジェミラの街は順調で,人口も増えていったので新興住宅街が形成され,住宅は増えていったようだ.しかし遊牧民の侵略以来徐々に衰退し,やがて放棄されるようになったわけだ.

現在の日本,特に中小地方都市はどんどん衰退しているのが実態であろうが,そのうち他国から攻め落とされることのないことを願うばかりだ.


ジェミラを去るleave Djemila

ジェミラ村でランチ

ジェミラ村でランチ

ジェミラ遺跡の見物を終え,私たちは近くのレストランでランチを頂戴した.スープだけ写っているが,はて挽肉のスープに,メインも挽肉のソテーだったかな....


金曜のお祈りでバス動けず

金曜のお祈りでバス動けず

ランチの後バスに乗り,元の街道方向に向かった.

ただこの日はイスラムにとって最も大切な金曜礼拝の日で,モスクに入り切らない人々がモスク外の道路に座りお祈りをしていた.ということで道路が塞がり,バスは終わるまで立ち往生した.まあ,これもイスラム圏だからこそ体験できるシーンであったと思う.


ジェミラを去ると再び広い麦畑

ジェミラを去ると再び広い麦畑

バスが動くと小さなジェミラの村はあっという間に抜け出て,また広大な畑地帯になった.春であれば一面緑に輝くであろう.

さてこの先はコンスタンティーヌの街に向かう.



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