セティフSetif

このセティフ編では,2018年11月8日午後,ベニハマッド遺跡見物後セティフに向かい,セティフに着いたとき,そしてあくる日朝セティフを離れるときの写真を載せました.

セティフ付近のGoogleマップ(静止マップ)map around Setif

セティフ付近のマップ(Googleマップのスクリーンショット)

ベニハマッド遺跡6からは,東のセティフ7に進む.

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セティフに向かうgo to Setif

セティフに向かう途中ムシーラ辺り通過

ムシーラ辺り通過

私たちはベニハマッド遺跡見物の後,一旦元来た道を辿り,ボルジュブーアリエージュ(Bordj Bou Arreridj)辺りで高速道路に戻り,以降ひたすら東に走り,この日の宿泊地セティフに向かう.

さて写真はお昼を食べたムシーラ辺りである.ムシーラの街は大きく,トレースログを見ると往きとは違う東側ルートを通ったようである.


セティフに向かう途中再び山の湖通過

再び山の湖通過

そして再び山の湖を通過した.今度は順光で一層鮮明な感じだ.


アトラス高原の麦畑など

アトラス高原の麦畑など

アトラス高原のうねる台地に,麦畑であろう畑,そして荒れ地,さらに柑橘類か何かの低木樹が延々と続いている.家畜もいる.顔が小さいのでアルパカとかの仲間かな....いや,やはり羊でしょうね.


セティフに向かう途中羊の放牧

羊の放牧

ここにも家畜が,羊にしては首が長く,全体が大きい.こうした体型の羊なのかな.....


ボルジュブーアリエージュ(Bordj Bou Arreridj)辺りになる

ボルジュブーアリエージュ辺りになる

高速道路と交わるボルジュブーアリエージュ(Bordj Bou Arreridj)辺りになった.ここでは同市市街地を少し通過し,高速に入った.


セティフに向かう途中お手洗い休憩

途中お手洗い休憩

途中SAでお手洗い休憩をとった.アラビア語の案内標識は仏語を添えているが,たまにParkingのように英語も混在させている.日本語のパーキング同様,アラビア語の外来語として一般化されたのでしょうか.


セティフに着くget to Setif

夕闇迫りセティフに着く

夕闇迫りセティフに着く

午後6時になった.すっかり陽は落ちて,夕闇が迫ってきた.そしてバスはセティフの街に入ってきた.


セティフ市街地は既に夜の顔

市街地は既に夜の顔

バスは市街地を通った.既にかなりのお店はシャッターを下ろし閉店している.そして街灯も少なめで,多分この地方では標準的な営業時間なのであろう.


セティフのタージエルマダホテルに到着

タージエルマダホテルに到着

バスは市の中心部に入り,狭く混み合った通りに停車した.宿泊のタージエルマダホテル(Tadj El Mouada hotel)前である.

この狭い通りを挟んで反対側は遊園地で,観覧車やメリーゴーランドが煌々と明かりを灯し,まだ営業していた.


タージエルマダホテルにチェックイン

タージエルマダホテルにチェックイン

バスから荷物を下ろし,ホテルに入り,そしてチェックイン.私の部屋は5階だった.


セティフタージエルマダホテルの部屋

タージエルマダホテルの部屋

部屋に入る.ごく普通のきれいな部屋だった.ただ少し暑くてコントロールパネルを見ると,点滅し,コントロールを離れているようだ.

そしてその旨電話すると,担当者が来てくれて,現在暖房はこちら(コントロールパネル)の制御下になく,カーテン裏の湯循環式ラジエーター(のバルブ)を示してくれた.了解しました.

そしてその後1階のレストランに降り,ローストラムの夕食を頂いた.多分普通に美味しかったと思う.


セティフの朝in the morning in Setif

セティフで11月9日朝が来た

セティフで11月9日朝が来た

さてタージエルマダホテルで11月9日朝が来た.最初5:23AMに最初のアザーンを聞き,以降次々に複数回聞こえてきた.モスクの数がそれだけあり,それなりの大きな街なのであろう.

窓を開けてみると,左手朝もやの中に2つミナレットの大きなモスクが.背後から照らし出されていた.

今改めてググってみると,セティフは標高1,096mに位置し,人口約23.5万人.標高が高いためかアルジェリアで尤も寒い都市の一つだそうで,冬には40cmくらいの降雪は稀ではないそうだ.そうか,昨晩部屋が暑かったのは予め夜間冷えることへの対策だったのか.

セティフは紀元前数世紀にヌミディア人(アルジェリア北東部のベルベル系半遊牧民)が造り,一時は一昨日訪れたマウレタニア王家の墓の主,その王家の首都であったこともあるそうだ.ただ同墓に埋葬されたとされるユバⅡ世の父ユバⅠ世がローマに敗北し,街の地位は失われたようだ.

ローマ以降幾つかの民族の支配下になり,1838年にフランス軍の駐屯地がセティフに作られ,この支配に対してアルジェリア人がセティフと近隣で蜂起し,仏入植者とアルジェリア人双方に多くの戦死者が出たそうだ(セティフの虐殺事件).


セティフの朝タージエルマダホテルで朝食

タージエルマダホテルで朝食

タージエルマダホテルでバフェの朝食を頂いた.特段印象に残っているわけではないので普通に美味しかったのだと思われる.


セティフを出発

セティフを出発

朝食が終わるとバスに乗り,セティフを出発した.ホテル前の狭い通りを抜けると,建物の様子から官公庁街と思しきエリアになった.道幅は広く,まだ早い時間であるためか空いていた.

現代のセティフは地元の小麦や家畜など農産物の集散と,パスタ用粉,クスクスなどへの加工工業が盛んだという.また近くでは亜鉛が産出し,その関連事業もあるという.


セティフの小さなモスクはまだ日が射さず

小さなモスクはまだ陽が射さず

小さなモスクがあった.既にお祈りの時間はとっくに過ぎたがまだ陽が射さない.朝聞こえたあちこち複数のアザーンはこうした小規模モスクから発せられたのであろう.


セティフ郊外の集合住宅

セティフ郊外の集合住宅

やがて市街地は抜け郊外になった.相当大規模な集合住宅が見える.クレーンが見えるのでまだ建設工事は続いているようだ.


セティフを過ぎ広い小麦畑になる

広い小麦畑になる

やがて郊外住宅エリアを過ぎるととても広い小麦畑になった.今年の収穫は終わり次の種蒔きを待っている段階ではなかろうか.



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