このムザブの谷編では,2018年11月12日ガルダイアで昼食後の午後,エルアティフ村を訪れ見物,バスでブーヌーラ展望点に立ち寄り同村を眺め,次いでベニイスゲンに至り歩き回る,そして見終えるとエルジャヌーブホテルへと向かい,夕食を頂いたときの写真を載せました.
ガルダイア13を中心にムザブの谷各村が分布している.でもこのマップではよく解らないな~
これが昔から続くエルアティフ村の正門だそうだ.つまり城門だったのであろう.
エルアティフはムザブの谷最古1013年創設,つまり今からミレニアム昔に始まったようだ.当時は少なかったであろう人口は現在13,000人ほどだそうで,いまも増加しつつあるそうだ.
正門をくぐると村の広場になる.石が敷き詰められ,周りをアーチ形列柱が支える回廊がある.
入り口からは年配のパリジャンと呼ばれているというエルアティフ専任ガイドが先導する.当ガイド氏が張り切り大声でアラビア語若しくは仏語でしゃべり,それをガイドSさんが英語にし,添乗Nさんが日本語にしてくれるので些かまどろっこしい.
回廊のある建物はレンガを漆喰で固めた構造でしょうか.レンガのみでは梁や床は作れないので,ここではナツメヤシの幹を梁に,そして床のベースにナツメヤシの枝を敷き詰めているそうだ.
ナツメヤシはデーツを産するのみならず,こうして全部が役立てられているわけだ.
デーツを食べて残った種をこの窪みに入れ,上から杵で叩き,潰したものをロバや羊など家畜の餌にするという.種まで利用は素晴らしい.
エルアティフの坂道は結構急で,仮に普通の階段に段数が多過ぎ,或いは段のない坂道のみにすると勾配が急過ぎて,ロバやロバ車が登れないそうだ.そこでこのような緩やかな傾斜面を持つ階段とし,ロバやロバ車の通行を可能にしているそうだ.
ここは生活用水を供給する泉のある場所だ.その際こぼれ水が出るが,それを有効に活用するため,一本のナツメヤシが植えてあるそうだ.この地方の水とナツメヤシ双方の大切さを改めて知る.
なお近くの壁の布地はこの近所のお店のディスプレイのようだ.
道脇の建物を見ると窓は小さいもの以外殆ど見えず,どちらかと言うと監視窓のように思える.多分実際そうした歴史を引き継いでいるかと私は思った.
地形上やむを得ない面と,山城的集落の形成を目指した面があろうが,道は混み入り,勾配やカーブだらけの道が多い.タクシーもバスも入れないし,部外者的見方では高齢者には厳しい村ということになろう.でも長い歴史の下で,継続的に安らかな生活が保たれるという気持ちで実際に生活を送っている人が大半なのだと思う,多分.
傾斜する通りに面する民家の一例で,鋼鉄製のドアが付いている.鉄枠に鉄格子を基本に,メッシュ板,その上にデコレーションオブジェが溶接で貼り付けてある.ドアは左側の狭いドア,右の広いドアに2分割されている.前者がお勝手口,右がお客様用であろうか.
なお,メッシュ板が用いられているのは,窓が極端に少ない分,せめて換気性を向上させるためかな~と想像してみる.
ここは比較的最近備えられた給水所であろうか.蛇口の上のフックに南京錠が下げられているが,これでは何ら機能しない....ように思えるのだが....
それと故障のためか一部蛇口からは流れ出したままであるが,せめて上記ナツメヤシのようなものがあれば,もったいない感を減じることができよう.でもこの脇には無かったような...
通り脇にあったファティマの手(ハムサとも)だ.その上の突き出たジョイスティック状のものは呼び鈴ボタンであろうか.
下はアルジェリア国章であるが,中央茶色上向き3本,横向き2本がファティマの手だそうで,アルジェリアでは特に大切に考えられているようだ.なおファティマの手以外に,月と星,日の出,植物,産業構造物,アトラス山脈など描かれ,アラビア文字はアルジェリア民主人民共和国,ということだ.
ファティマは開祖,最後の預言者ムハンマドの娘の一人の名前で,ベルベル人には信仰篤い人物だ.ファティマの手は,日本で言えばお守りのような感覚で扱われているケースを見かけるし,アクセサリーなどでよく販売されている.
坂の道を上りきるとエルアティフの主モスクがあった.かなり高いミナレットだが,狭い道からは見上げる構図以外ない.エルアティフ創建時,ミナレットは本来の目的,つまり礼拝の呼びかけ以外に,敵の襲来を監視する監視塔の役目も負っていたそうだ.
それは解ります.村自体が城塞の役を担っていたのと同じでしょう.
村の外れに墓地があった.前ページメリカの墓と同様に墓石は,砕いた石の尖った先を上に向けた大層簡素な形式で,ムザブ人の考え方の現れようであろうかと認識する.
白い角の出た構造物,それに脇の凹んだ空間のある広場に出た.お祈りの場所ということだ.凹みの先がメッカなのであろう.訪れたときはお祈りしている人の姿は見かけなかった.
お祈り場から少し下ったところにシディブラヒムモスク(Sidi Ibrahim Mosque)があり,そちらに下った.同モスクは現在使われていないが,歴史的に由緒あるそうだ.
下る途中ではエルアティフの新市街と思しきエリアを望むことができる.
この5角形白壁で囲まれた建物,一説には12世紀建立というシディブラヒムモスク(Sidi Ibrahim Mosque)だそうだ.一方シディブラヒム師は普通イバード派イマームとかが考えられるが,必ずしもそうではなく地元有力者とか,或いは当時の女王とか....諸説あるも定まってないとのことだ.
私はよく分かってないが近代建築の三大巨匠に位置付けられるというルコルビュジエ(Le Corbusier:1887年~1965年)氏に多大な影響を及ぼしたとか.もちろん生まれたスイスやフランスなど周辺国に多くの偉業を残すが,日本では上野の国立西洋美術館設計者としてよく知られるようだ.
氏は頻繁にアルジェリア,特にここムザブの谷を訪れ,この斜面からシディブラヒムモスクを眺めインスピレーションを得ていたとのことだ.
礼拝堂は表も内部も白い漆喰で覆われている.写真左側凹みがミフラーブであろう.この礼拝室は男性のみで,女性の礼拝室は右手奥の壁に掘ったステップを上った二階にあるという.半ばロッククライミング的で,ちょっと大変そうだ.
建築的には外も内も四角四面的な構造ではないことが大きな特徴となっているそうだ.そうと聞いて,やはりそういった建物を多く残したアントニガウディが思い起こさせられた.
モスクの塀には銃眼が開いていた.モスクと言えども城塞でもあったのだ.少なくともこの辺りは現在平和であるが,アルジェリアもサハラ南東あたりはそうでもない.平和は続いてほしいものだ.
こちらがエルアティフのパリジャン,専任ガイドさん.脚が悪くなり,杖を使いながら坂を上下し,大きな声で解説して下さった.メルシー!
私たちはエルアティフの見物を終えると再びバスに乗り,ここを離れた.
バスは途中ワディとナツメヤシ畑の見える地点を通過した.林の中には住宅も見えている.周囲は茶一色の中の緑は正に典型的オアシスの眺めで,癒やされる光景だ.中東諸国の国旗によく緑が見られるが,こうしたオアシスの象徴,願いであろう.
展望点に到着しブーヌーラ(Bounoura)の村を眺めた.やはり山の斜面に住居が貼り付き,天辺に四角錐のミナレットが見える.
ブーヌーラは10世紀~11世紀頃,周辺の村同様イバード派ベルベル人によって築かれ,現在の人口は3.5万人ほどで,増加傾向にあるそうだ.前に見えるワディはムザブ川であるが,枯川だけあって必ずしも連続しているとは限らない,いや今は完全に干上がった状態だ.
ブーヌーラの裾野はナツメヤシ畑まで伸びている.人口増加に伴って下まで展開されていったのであろう.
道路に接する部分を仔細に眺めると,完全に城壁の形態であり,レンガ若しくは石,或いは日干しレンガ(これは無理かな)4,5階建て建築の各階には,銃眼であろう縦長細いスリット状窓だけが設けられている.
私たちはブーヌーラでバスに乗り,ベニイスゲンに向かった.
バスでベニイスゲン(Beni Isguen)の街に入ってきた.着いたところは旧市街の公式ガイドオフィスの真ん前だった.ムザブ谷では専任ガイドと共に回るという掟があるのだ.中にはそれでも一般観光を認めていない村もあるそうだ.
ガイドオフィスの近くには学校があるようで,下校中の子が大勢出てきた.Sさんの言うように男の子はブルー系洋服が多い.
教育制度は5-4-3-4の年数で,日本と比べると小学校で1年少なく,その分中学校4年と多いようだ.高校と大学は日本と同じだ,
下校の女子生徒だ.高校生かな.これもSさんの言う通り,ピンクの上衣を羽織っている.
警護警察の交代か何かで,バスを降りてから大分立ちん坊して通りを眺めていた.上の下校中の子ら以外にももちいろいろな人が通るのでこれを観察.
片目だけ開放白装束女性や,白いキャップで青くない服装の子など通る.後者は小学校低学年の子で,とっくに下校済みで遊びの最中か,いや塾に向かうところか.
ここに立っていると当然旧市街の壁の様子も見える.3,4階程度の建物の壁はやはり城壁的で,細い縦長の銃眼(状窓)が設けられている.ベニイスゲン旧市街もまた城塞であったわけだ.
さて諸事整ったようで,私たちはベニイスゲンのガイドを紹介される.ガイドからは人を撮らないよう指示を受ける.この制約は甚だ残念なものだ.
ということで先ずは旧市街へのトンネル状入り口ゲートを潜ると広場があった.これは上記エルアティフの構造と同じだ.
広場では中古品のオークションが行われていた.人を撮らないよう言われたので後ろならいいだろうと写したのがこれだが,よく解らないな....
並んでいた品々は,正直言ってゴミ置き場の,陶器とか,金属30cm以下とか,小型電気器具30cm以下,にあるような類が多い.
なおオークション売り手には誰でも勝手になれるというのではなく,選任されたそれなりに信頼される人物だけが担当するという.なので一般の人は物品をその人に持ち込み,販売をお願いするのだそうだ.これで壊れたものを明らかにせず売りつけるなど詐欺的取引を未然に防止するということだ.
ベニイスゲン広場には井戸があった.プーリーに架かるロープは結ばれ,格子状蓋で覆われているが,ロープの新しさなど見ると,今も汲み上げることができるのではなかろうか.
ところでベニイスゲンは1300年代中頃に建設が始まり,街全体が城壁で囲われた構造になっているという.またその壁は傷んだため1860年に復元されたそうだ.現在の人口は9,000人程度で,ムザブ谷では最も戒律を厳しく適用して暮らしている街という.
ベニイスゲンもまた石畳の道で,それなりに勾配があったり,階段が設けられている.
また道を囲む住宅は多分レンガを漆喰で固め,表もまた漆喰で平らにし,ベージュ若しくは薄いピンク系で仕上げられている.またこれも上記エルアティフの街同様,お隣さん同士はくっつき,隙間なく建てられ,また建物の窓は少ない.
窓が少ないと夏は暑くて大変だ.そこでエアコン室外機が通りに面した壁に掛かっている.これもエルアティフ同様だ.
ここは壁や通りの階段が白く塗装されている.ここは街が建設された直後,まだ人口がそう多くない頃,城の範囲がまだ広くない時代の城門であったか?
何れにして元の地形がこの階段のあるトンネル構造を採らせたのであろうか,階段,低い屋根,カーブが,馬に乗った外敵の怒涛の如き進軍を抑制する効果があったであろう.
ここの水場でも,一滴の水でも使い切ろうと,一本ヤシの木が植えてあった.
ところでここら周辺は岩だらけで,井戸を掘り当てるのは大変だったことでしょうね.
ベニイスゲンの通りにも両側をつなぐアーチ型ブリッジが架かっている.やはり戦術的目的があったのであろう.
手前がベニイスゲンの専任ガイドさん.度々撮影不可の注意を発している.
今上ってきた細い通りを振り返って見た.いや~ほんとに細い通りですね.
両脇の建物には殆ど開口部が見当たらず,砦のよう,いやそのものだ.
坂を上りきると太い四角錐の下半分のような見張り塔に着いた.この塔がモスクのミナレットを兼ねているのかどうか.....確かめなかった.
塔はベニイスゲン創建の早い段階で造られ,高さ13mということだ.
当内部の薄暗い階段を上ると屋上に出た.ここの屋上はちゃんと囲いが付いていて安心できる(ベニハマッドのミナレットには無かったので)
ここは高い場所にあるので全方向眺めが利く.写真はその中の一方向だが,直下の駐車場から,一段下の街の具合,更に先の原野まで見渡せる.狙いの『見張り』が果たせることが判った.
見張り塔から下りにかかった.途中坂道に接する建物の壁が城壁のように聳える.壁には凹凸があった.表面積を増やし,熱交換性を幾らか向上させ,室内温度上昇を緩和するためだという.う~ん,効果あるかな~と思わないでもないが.....あるのでしょう.
ベニイスゲン旧市街の見物が終わり,城門を出た.そこには1963年制定アルジェリア国歌『誓い』を作詞したという詩人ムフディザカリア(Moufdi Zalaria)の肖像画が掲げられていた.
つい先日ティムガッド遺跡円形劇場で小学生が歌ってくれたあの国歌が,この詩人ムフディザカリアの作だったのだ.歌詞も内容も全く理解してないが,思い起こせば実に感慨深い.
ムフディザカリア肖像画の傍にはノートと羽根ペンのモニュメントがあった.
ムフディザカリアは独立戦争で仏軍に投獄された経験もあり,そうした体験が詞にも織り込められているそうだ.いやそれどころか,その投獄された牢の壁に自らの血を用い詩を記したとも言われるようで,それは正にアルジェリア独立戦争の英雄ですね.
この日の観光は全て終わり,バスでガルダイヤのホテルに向かった.既に陽は傾き,暗くなりかけている.
エルジャヌーブホテルが近づき,ちょっとした商店街に入った.このレストランでは軒先でケバブを焼き,回転オーブンでローストチキンを焼いている.美味しそうだな~
程なくエルジャヌーブホテル(hotel El Djanoub)に到着した.すっかり暗くなったようだ.
エルジャヌーブホテルにチェックイン手続きをしてもらっているが,手間取っているようだ.wifiを繋げてみたが,ちょっと不安定なようで,時々遮断される.
さてチェックインは終わり,写真の離れの部屋に向かう.
客室はこんなだった.まあ普通こんなものであろう.カシオを見ると,標高460mを指していた.やはり砂漠からそれなりに上っていたようだ.
そして後でレセプション横のレストランに行った.スープにチキンカツ,それにアップルパイのデザートだったようだ.