シェルシェルCherchell

このシェルシェル編では,2018年11月7日アルジェのホテルで朝を迎え,地中海沿いを西に進みマウレタニア王家の墓を見て,ローマ水道橋を眺め,シェルシェル博物館を見物し,シェルシェルの街を歩いたときの写真を載せました.

シェルシェル付近のGoogleマップ(静止マップ)map around Cherchell

シェルシェル付近のマップ(Googleマップのスクリーンショット)

11月7日は朝アルジェ3を出発し,西のシェルシェル4に行った.

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アルジェの朝in the morning in Algiers

アルジェの朝ハニホテルのイスラム朝食

ハニホテルのイスラム朝食

11月7日ハニホテルで朝になった.5:52AM最初のアザーンが聞こえた.多分もっと早い時間にもあったのかも知れないが,目覚めてはなかった.

そして起き,欧式1階,つまり2階のレストランに降り朝食を頂く.ハラール準拠であろう,ハムはバカに赤っぽく,ポークではない.でも何の肉か判らないな~ピザにもベーコンは含まれてない.他は野菜やヨーグルトなので,まあ大まかには非イスラム圏と大差なかろう.


アルジェの朝建設中高いミナレット通過

建設中高いミナレット通過

ハニホテルに,先導してくれる警察車両が到着すると,それに続いて私たちのバスも西に向けて出発した.実にいい天気で気持ちのいい朝だ.

暫くして前日も眺めた建設中の高いミナレット脇を通過した.クレーンが頂きにあり,横のモスク主ドームも完成しているように見えるので,間もなく竣工であろう.


アルジェの朝集合住宅街を通過

集合住宅街を通過

この辺りは集合住宅が多い.新市街なのであろう.


アルジェの朝中国風門が見える

中国風門が見える

右から1/3に中国風門が見える.中華街があるのかな~

さらに横には円筒状ガラス張り構造物もあり,目立つが,これは別に中華風でも何でもない.


マウレタニア王家の墓The tomb of Mauretania

郊外田園地帯に入る

郊外田園地帯に入る

アルジェ市街地は終わり,田園地帯に入った.畑はアトラス山脈の裾野のためか,緩やかな起伏があり,眺める分には美しくていい.

左側はぶどう畑のようだ.イスラムなのでワインは要らない筈だが,実際はアルジェリアワインは生産され,また一定の評価があるようだ.何でもイスラム以前からワイン生産が始まり,イスラム改宗後下火になったが,仏支配で再び盛んになり,独立後もその伝統が引き続けられているらしい.その割に異教徒であってもアルコールなしのレストランが多かった(半数以上).実際生産されるアルジェリアワインの大半はフランスに輸出されているそうではあるが.

畑境界の木は色からするとオリーブであろうか.


小さな村のモスク

小さな村のモスク

そのうち小さな村を通過した.小さなモスクがあり,四角いミナレットを備えていた.どうやらアルジェリアのミナレットは四角形が多いようだ.

それとミナレットは四角でも丸でもほぼ閉じた筒状で,内部の階段が暗いことが多いが,ここは階段横壁がなく,開放され明るい.上り下りは楽であろう.


マウレタニア王家の墓

マウレタニア王家の墓

やがて大きなマウレタニア王家の墓に到着した.直径60.9m,高さ32.4mあるそうだ.下部円筒部分はイオニア式円柱が積まれているが60本あるそうだ.

マウレタニア(Mauretania)は,この辺り古代北アフリカ地中海沿岸に独立したベルベル人(マウリ部族)の王国で,ここ西アルジェリアから北モロッコ,ジブラルタルを含む広大な地域を支配していたそうだ.ただ後はローマ帝国に下り,王国の歴史は閉じたということだ.

さてこのお墓はそうした王家の中で,終盤となるユバⅡ世(Juba Ⅱ:25BC~AD24)とクレオパトラセレネ(Cleopatre Selene)夫妻の墓ではないかと推測されているそうだ.


マウレタニア王家家系図(シェルシェル博物館収蔵品)

マウレタニア王家家系図(シェルシェル博物館収蔵品)

そんなユバⅡ世とクレオパトラセレネの系図が,この後訪れるシェルシェル博物館にあったので見てみよう.

マウレタニア王家家系図の一番上にはマシニッサ(Massinissa:220BC~148BC),その後継がマスタナバル(Mastanabal:148BC~140BC)だ.

マシニッサ(Massinissa)の後継者は二人記されているが,それ以降も続く系を見ると,ガウダ(Gauda:105BC~88),ヒエムパサルⅡ世(HiempsaL Ⅱ:88BC~50BC),ユバⅠ世(Juba Ⅰ:60BC~46BC),ユバⅡ世(Juba Ⅱ:25BC~AD24)と続いている.

ユバⅠ世はカエサルに対抗していたが,46BCタプススの戦いで敗れ,息子ユバⅡ世は捕虜となり,ローマに送られ,カエサルの甥,後にローマ帝国初代皇帝となるアウグストゥスに預けられる.

一方クレオパトラの系統を見ると,クレオパトラⅦ世(Cleopatre Ⅶ)と夫マークアントニー(Marc Antoine)は一人娘クレオパトラセレネ(Cleopatre Selene)をもうけた.そしてクレオパトラセレネが上述のユバⅡ世王と結婚し,両家が結びついたことになる.なおこのカップルの二人の子が家系図に描かれている.

なおこの結婚当時は,マウレタニア王国はローマ帝国の属州に下っており,ユバⅡ世は捕虜としてローマで養育されローマ市民権を与えられ,やはりローマ帝国血筋のクレオパトラセレネと政略結婚させられたのが実情,のようである.


マウレタニア王家墳墓玄室につながる入り口

墳墓玄室につながる入り口

墳墓は色合いや表面のざらつきからすると砂岩製であろうか.ガイドSさんに訊いたところ内部は土ではなく,全て岩石で作られているそうだ.

そしてその墳墓西側に開口部があり,1868年仏調査隊の手で,内部には玄室につながる回廊が見つかっているそうだ.ただ既に盗掘された後であったのか,何も残されていなかったそうだ.今ここから覗き込むと,直ぐに金属格子が張られ,ガードされている.

ではどうしてユバⅡ世王とクレオパトラセレネの墓と判ったのでしょうね?


マウレタニア王家の墓調査年の記録か

調査年の記録か

円柱に1888や何やら文字が刻まれている.確かナポレオンの調査記録だったか.

他に扉のようなものが数箇所見えるが,盗掘を欺くための偽扉ということだ.他に十字架も刻まれているが,後世キリスト教が広まってから加工されたということだ.


マウレタニア王家墳墓内部通路略図

墳墓内部通路略図

これが内部通路と玄室の平面図.棒の先が2つ上写真の入口.覗き込むと金属格子のある直進路の直ぐ先にこの絵のように左右通路に分岐する様子が見える.


マウレタニア王家墳墓は今も調査中

墳墓は今も調査中

普通の人は登るのは禁止されている.写真で高く登っている人が見えるが,調査関係者のようだ.何か見つかるといいですね.


マウレタニア王家の墓から地中海とアトラス山脈支脈を望む

地中海とアトラス山脈支脈を望む

マウレタニア王家の墓は少し小高い丘にあり,ここから眺めると地中海とアトラス山脈支脈の山がよく見える.墳墓の石材はチャヌア山(800m)から切り出されたそうだが,この山がそのチャヌア山なのだろうか?


この区間の先導パトカー

この区間の先導パトカー

アルジェリアは首都アルジェ(の一部)を除き,警察,場所によっては軍の護衛(と監視?)が私たち観光客に付いて回る.普通一台のパトカーに武装警官(または兵)3人乗務している.

この護衛(監視)区間は警察署の管轄で細かく区分され,結構頻繁にリレーされる.この交代時間であるが,上手くいけば予定時間通り,そうでないときはかなりの待ち時間を生じる.

なおこの写真のパトカーは朝ホテルを出発するときから先導してきた,一台目であったか.混み合っている区間ではVIP並みにサイレンを鳴らして突っ切ってくれる.平民のくせにこうした処遇を受けるとは何ともまた.....ありがとうございます.


ローマ水道橋Roman Aqueduct

再び田園地帯を西へ行く

再び田園地帯を西へ行く

マウレタニア王家の墓を見てから,再び田園地帯を西へと向かった.この辺りの田園地帯は固定観念のアフリカ,砂漠....のイメージから遠く,緑豊かで美しい.ただ道路脇にゴミは散乱している.


小さな村のカフェ

小さな村のカフェ

小さな村を通過した.オープンカフェでは退職者世代と思しき皆さんが茶を楽しんでいる.やはりあの甘いミントティーでしょうか.


イスラム国だが犬はOK

イスラム国だが犬はOK

イスラムでは一般に犬は豚同様好まれない国が多い.例えばイラン辺りでは豚同様徹底的に忌諱される対象だそうだ.

で,ガイドSさんに訊いてみたら,アルジェリアでは家の中に入れない限りペットとして飼うのは全然問題ないということだ.ちょっと驚きましたが,その方がいいと思う.ベトナム北辺のように怖い番犬は苦手だが.....でもここもリードなしだな....


ローマ水道橋

ローマ水道橋

紀元2世紀頃,つまりユバⅡ世が既に世を去り,ローマ帝国の直接支配下に陥った頃に造られたというローマ式水道橋だそうだ.確か西の山岳地帯の水を,この午後訪れる予定のティパサの街に導くための水道橋であったか.

それにしてもこんな高いところに水路を築くとは改めてローマ帝国の土木技術には感心するばかりだ.


シェルシェル博物館Cherchell Museum

シェルシェルの街に入る

シェルシェルの街に入る

ローマ水道橋を過ぎて暫く走るとシェルシェルの街に入ってきた.長い歴史ある街故か道幅は狭目で,路上駐車がさらに狭めているようだ.


シェルシェル博物館に至る

シェルシェル博物館に至る

少し歩き薄いピンク外壁のシェルシェル博物館に到着した.少なくとも外観は世の大博物館と比べて威容は感ぜず,まあ気楽に見物できそうな雰囲気だ.

左の異様な植物に関しては後で述べたい.


シェルシェル博物館は石像とモザイク画が主だ

シェルシェル博物館は石像とモザイク画が主だ

館に入ると,展示室は回廊状で,中庭と横の庭にも展示物や余り物的品が置かれている.展示品は石像とモザイク画が殆どを占めている.

入ったとき,地元の人達らしい見学者が数人から10人程度で空いており,ゆっくり見て回れそうだ.


シェルシェル博物館トラを従えた勝利の女神像

トラを従えた勝利の女神像

かなり大きなモザイク画で『勝利の女神像』ということだ.トラは力の象徴で,これに女神を乗せた車(戦車)を引かせ,御者が虎を従えているのか.

トラが強いのは解るが,中東エリアではライオンが普通で,トラというのはあまり見たことがなく,驚いた.


シェルシェル博物館ユバⅡ世頭部像

ユバⅡ世頭部像

この方が上述のユバⅡ世(Juba Ⅱ:25BC~AD24)で,ローマ帝国の捕虜としてローマで養育され,ローマ帝国血筋のクレオパトラセレネと政略結婚させられたマウレタニア王だ.


クレオパトラセレーネ頭部像

クレオパトラセレーネ頭部像

そしてこちらがマウレタニア王ユバⅡ世に嫁いだクレオパトラⅦ世(Cleopatre Ⅶ)の一人娘クレオパトラセレネ(Cleopatre Selene)だ.

この像を見る限り,大きな目,高すぎて欠けた鼻など,諸美的要素備えるも,目が眩むほどの美女とまでは.....かも.まあ本人ではなく,あくまで娘だから違って当然だが.


シェルシェル博物館スフィンクス(Sphinx)のレリーフ

スフィンクス(Sphinx)のレリーフ

ライオン(ほらトラではないでしょう)の身体に人間の顔を持った神聖な架空動物のレリーフ.スフィンクス(Sphinx)と言えば,ギザのピラミッド前のそれくらいしか知らないが,それに比べて優しい感じだ.それにこのレリーフは大きな羽を付けており,その点も大きく異なる.

ギザのスフィンクスに比べて優しい感じと書いたが,それは特に顔が違うからであろう.ギザのそれはいかにも威厳ありそうだなファラオ(のような)顔と装束だ.一方こちらは女性の顔だ.そりゃ違う筈だ.


シェルシェル博物館医神アスクレピオス(Asclepius)像

医神アスクレピオス(Asclepius)像

ヘビの巻きついた杖を持っているので医学の(それと薬の)守護神アスクレピオス(Asclepius)なのであろう.でも見た感じ普通より若いときの姿ではないでしょうか.

なおヘビの巻きついた杖はアスクレピオスの杖と呼ばれるそうだが,杖ではなくワイングラスのような杯に巻き付いたのもあり,ヒュギエイアの杯と称されるそうだ.そしてそちらは薬学のシンボルとして用いられるケースが多いそうである.


シェルシェル博物館ヒエログリフの記された像

ヒエログリフの記された像

足元にヒエログリフで何やら記されている.脚しか写ってなかったが,この非現実的にまでスラリとさせた脚はいかにもエジプシャン様式である.マウレタニア王国初期或いはそれ以前はエジプト文化の影響があったのでしょうか.


シェルシェル博物館ゼウス像かな?

ゼウス像かな?

下に書いてあった筈の表題が欠けてしまった.長い髪に,立派な口ひげ,あごひげの男前はやはりゼウス神(Zeus)でしょうか.多分そうでしょう.


シェルシェル博物館ギリシャ神話のユリシーズとサイレーンの泉

オデュッセウスとサイレーンの泉

中庭に周囲と底にモザイクを敷き詰めた円筒プール,オデュッセウスとサイレーンの泉があった.もちろん他所から移設されたものであろう.

左側女性がギリシャ神話のサイレーン(Seiren)で,人の上半身に鳥(魚バージョンもあるそうだ)の下半身を持つ.美しい歌声で船乗りたちを魅了し,引き寄せ座礁させる.

一方英雄オデュッセウス(Odysseus,またはユリシーズ(Ulysses))は左側たくさんのオールの出た船上に描かれている.オデュッセウスは一度評判の美声をぜひ聴いてみたいものだと思った.そして部下全員に耳栓をさせ,自身をマストにロープで強固に縛り付けさせ,いざサイレーン島に向かった.

サイレーン島に近づくと,オデュッセウスはサイレーンの下に寄ろうと暴れたが,予め船員はそうした際にはロープを一層強く縛るよう命令されていた通り従い,無事通過し,事なきを得た.

例えばAKB48や美空ひばりといった人は多くのファンを魅了するが,必ずしも全員ではない.一方サイレーンはその声を聞いた人は100%引き寄せられたというからすごいものだ.


シェルシェル博物館修復作業に当たる館員

修復作業に当たる館員

館内にはまだまだ未公開のものもを多いようで,学芸員の人々が調査したり,修復作業を行っているようだ.

個人的には現在展示中の物品についてもも少し詳しい説明書きがあればいいと思った.


シェルシェルの街town of Cherchell

オンブー(Ombu)の木

オンブーの木

シェルシェル博物館を出ると市民公園がある.そしてそこにはこの巨大なコブだらけ,枝の落とされた巨木が林立している.実に妙な形態で驚く.

この樹は通称オンブー(Ombu)と呼ばれ,ヤマゴボウ科の(木ではなく)草なのだそうだ.でも私にはとても草には見えない,大木だ.

オンブーはアルゼンチン原産で,年輪が無く,維管束の木部があまり発達せず茎に大量の水分が含まれ多肉で柔らかな草質で,木材としての価値が無いことから,草本に分類されるらしい.そのように幹は弱いので,枝の自重で裂け落ちてしまうため,秋の今頃になると全部の枝を切り落としてしまうそうだ.写真中央はまだ落とす前の一本で,両側は枝下ろし済みのものだ.完全に切り払っても翌春には新しい枝が出てくるそうだ.


シェルシェル市民公園の泉

シェルシェル市民公園の泉

シェルシェル市民公園には泉があり,古代風彫刻が据えられている.もちろん多くはレプリカだが,周囲の柱頭などは本物ではなかろうか.


シェルシェル港

シェルシェル港

シェルシェル市民公園は地中海に面しており,眼の前に港と灯台が見えている.停泊する船舶は小型で,多くは漁船であろう.今日のランチはシーフードの予定だが,この辺りで水揚げされるのであろう.

なおシェルシェルは,人口は5,000人程度の小さな街だが,紀元前4世紀にフェニキア人が築いたのが始まりで,後の一時期は上述のマウレタニア王国の首都『カエサリア(Caesarea)』だったことがあるようだ.つまり当時のローマ権力者アウグストゥスカエサルの名に因むものであることから,マウレタニアがローマ帝国の属州になった以降の時代ですね.


ラハマーンモスク(El Rahman Mosque)

ラハマーンモスク(El Rahman Mosque)

シェルシェル市民公園海と反対側にはギリシャ神殿風デザインのラハマーンモスク(El Rahman Mosque)が建てられていた.元はカエサルのフォーラムにローマ寺院として建てられた遺跡があった場所で,聖パウロ大聖堂として建設され,それがいつからか(独立後か?)モスクに転用されてきたそうだ.一般的なモスクに見えないところがおもしろい.


シェルシェルの通り

シェルシェルの通り

多分昔からの比較的狭いシェルシェルの通り.歩く人の服装からすると関東地方の気候に近いであろう.


シェルシェルの並木道

シェルシェルの並木道

こちらは立派な並木が茂っている.歩道には新たな木を育てる土面枠も設けられ,並木保存に注力されている様子が窺える.いい通りだ.


シェルシェルのローマ劇場跡

シェルシェルのローマ劇場跡

マウレタニアがローマ帝国の属州になったため,またその王ユバⅡ世が徹底的にローマ帝国で養育,教育されたためであろうが,半円形客席と四角い演台のあるローマ劇場があった.後に闘技場に変換されたのかも知れない.

まだ未発掘のこうした遺跡は多く残されているそうだが,なかなか楽しみですね.


シェルシェルの街の地方開発銀行のATM

地方開発銀行のATM

ローマ劇場遺跡前の通りを歩いていると地方開発銀行が見えた.そして入り口脇には道路に面してATMが設置してある.外国ではこうした道路に設置したATMはしばしば見かけるが,私は,心配ないのかな~とつい思ってしまう.



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