アルジェ(前)Algiers 1

このアルジェ(前)編では,2018年11月5日成田空港へ行き,先ずドバイへ飛び翌6日着,次いでアルジェに飛び,着後バスでアルジェ湾通り,ノートルダムドアフリク大聖堂,中央郵便局界隈,独立の殉教者記念塔と巡り,ハニホテルに投宿したときの写真を載せました.

アルジェ市内のGoogleマップ(静止マップ)map around Algiers

アルジェのマップ(Googleマップのスクリーンショット)に加筆

かなりラフであるがアルジェで訪れた場所を記した.この中で旧市街カスバは後日11/14に見物した.

別窓でアルジェ辺りの大きなGoogleマップを開く

成田空港へgo to Narita

成田空港へ

成田空港に行く

実は3日前11/2(金)夜,旅行社に依頼してあるアルジェリアビザがまだ取得できてない,との電話連絡が来る.何でもアルジェリア本国と在日大使館との連絡が上手く行かなかったらしい.イスラムなので金,土は休みだが,日は稼働するのでそこで交渉するという.

そして出発の11月5日朝になった.旅行社より,ビザ取れました,の知らせあり,ホッとする.まあ,何とも際どいタイミングだった.

11月5日夕方になり,京成で成田空港第2ターミナルに到着した.ビザはきっと取得できる筈と読んで前日集荷してもらったJALABCのカウンタで荷物を受け取り,旅行社指定の場所に行く.

上述アルジェリアビザ入りパスポート,eチケットや参加者リストをもらう.今回のツアーはここ成田から13人,関空から2人,ドバイで合流し,合わせて15人(f7,m8),それに添乗Ms.Nさんということだ.よろしく願います.

そして直ぐさまエミレーツ航空エコノミーカウンタに並ぶ.非常に早く来たのに既に列を成していたので驚いた.成田/ドバイ間は12時間,ドバイ/アルジェ間は7.5時間のフライトなので,通路側が取れないと辛い.そして2便とも幸いに通路席が確保できた.


ドバイへfly to Dubai

ドバイへ向けエミレーツ航空EK319便(A380-800)に乗る

ドバイへ向けエミレーツ航空EK319便に乗る

66番ゲートで長く待った末,エミレーツ航空EK319便の搭乗が始まった.機材は総二階のA380-800で,エコノミークラス(マップは3-4-3)は下の階だ.私のシート74Dはスクリーン左上にも表示されている.

エミレーツ航空はA380-800導入から10周年となり,現在104機を保有し,なお発注残が50機あまりあるという.エアバス社はA380を全世界でこれまで331機受注しているが,その半分近くはエミレーツ航空が占めるという.やはりオイルマネーの威力なのでしょうか.

なおエミレーツのスクリーンはエコノミークラスでも大きく鮮明で,タッチパネルの操作性も良好だ.


EK319便17カ国からというCAが食事を配ってくれる

17カ国からというCAが食事を配ってくれる

当機には17カ国出身のCAが搭乗していますので,どうぞ何なりとお申し付け下さい,との案内放送があった.そしてそうしたCAの方が食事を配ってくれる.なおエミレーツの赤いキャップにそこから垂れるスカーフはこうしたアテンドには邪魔になるためであろうが取り払われてますね.


EK319便の夕食

EK319便の夕食

エミレーツ航空は仰々しいメニューを食事前に配ってくれる.無くてもまったく支障ないと思いながらも,ワインやビールの記載を見るとホッとできる.イスラムのエアライン故にだ.

でこの夕食は何だったか.ビーフ何じゃらかんじゃら....であったであろう,多分.

夕食が済むと,照明が落とされ,天井にエミレーツ特有の星空が輝く.砂漠の国らしい演出だ.


ドバイへのEK319便の朝食

EK319便の朝食

さて1980年代の歌謡曲を聴きながら寝ているうちに,EK319便はドバイに近づいてきた.そして今度は朝食を出してくれた.オムレツにマッシュポテトでしょうか.

写真を見ると,さすが朝からワインは止めておこうか,と思った様でオレンジジュースですね.


EK319便はドバイ国際空港に到着

EK319便はドバイ国際空港に到着

EK319便は定刻より若干早くドバイ国際空港に到着した.当エミレーツ航空の拠点である.国際線旅客数でヒースロー空港を抜き世界首位となっているそうだ.

そうした繁盛のせいか,ランディング後のタキシングやバスターミナル移動時間は長い気がする.

そしてトランジットゲートを過ぎ,幾らか遅く到着した関空組の皆さんと合流し,アルジェ便搭乗口に向かった.


アルジェへfly to Algiers

アルジェに向けエミレーツ航空EK319便(B777-300)に乗る

アルジェに向けエミレーツ航空EK319便に乗る

幸いアルジェ行きエミレーツ航空EK319便の待ち時間は長くなく,所定ゲートからCOBUSに乗り,B777-300に横付けされたタラップを上った.


アルジェ行きEK319便のシートは27H

アルジェ行きEK319便のシートは27H

EK319便B777-300のシートマップはA380-800同様3-4-3で,この席27Hは成田で確保した通路側だ.

ところで機材はB777-300とA380-800と異なっても,スクリーンのユーザーインターフェース(UI)は共通だ.なかなか素晴らしい.それとUSB充電ソケットも便利だ.


アルジェ行きEK319便早めのランチ

アルジェ行きEK319便早めのランチ

EK319便は早めのランチを出してくれた.チャーハンにチキンかな.....何れにしても,今度はランチなのでワインを添えてもらった.美味しかった.


アルジェ行きEK319便CNNは中間選挙一色

EK319便CNNは中間選挙一色

アルジェ行きEK319便は幾つかのTV放送も観られる.CNNは中間選挙報道一色だ.開票カウントダウンが,この時点の11時間56分後から始まると表示している.

後に知るところとなったが,上院は共和党,下院は民主党が過半数を占める結果になったようだ.所謂ねじれ国会となるわけで,トランプの強硬政策が若干抑制される,若しくは一層進む可能性あり,と現段階では予測は難しいらしい.


アルジェ行きEK319便はチュニジア沖に至る

アルジェ行きEK319便はチュニジア沖に至る

EK319便フライトマップを見ると,機は地中海チュニジア沖に至ったようだ.左のデータを見るとアルジェまであと1時間14分だそうだ.

ところで目指すアルジェリアは,ちょっとマップ左側が欠けているが,アフリカ大陸で一番大きな国土(約238万km2)を有しているそうだ.ただ右側のイラク,更に右下のスーダンもこうして見てみるとかなり広い.スーダンの南には分離した南スーダン(表示が切れているが)があり,その分離前のスーダンは最大国土だったそうだ.


アルジェ国際空港(ウアリブーメディアン空港)に着く

アルジェ国際空港(ウアリブーメディアン空港)に着く

アルジェの国際空港に到着した.正しくはウアリブーメディアン空港(Houari Boumediene Airport)というそうだ.ウアリブーメディアン(Houari Boumediene)は全国解放戦線会長,革命評議会長,アルジェリア人民民主共和国第2代大統領(1976年~1978年)など歴任したアルジェリアの軍人で政治家だそうだ.空港名に地名を含まないのは珍しいのでは.

表に出るとガイドSさん,アシスタントJさん,小型バスドライバCさんが待っていてくれた.よろしく願います.小型バスは一人2シートでちょうどピッタリのサイズだった.


アルジェ湾通りAlgiers bay street

アルジェの住宅街

アルジェの住宅街

私たちはウアリブーメディアン空港からバスに乗り,都心方向に向かった.空港は市街地間近で,直ぐに住宅街に入った.赤い屋根,白い壁の住宅が多いように見えるが,これは地中海地方では比較的一般的な傾向でもあるように思える.

建設中や壊れかけた建物を見ると,細い鉄筋コンクリート柱,床にレンガ壁を張り,漆喰(セメント)で表面を仕上げた構造が多いようだ.レンガは中空型が普通のようだ.


アルジェ湾が見えてくる

アルジェ湾が見えてくる

バスはそのうちアルジェ湾が見える辺りになった.そして海岸には色々な船舶や積荷を捌くクレーンなどが見えている.

地中海は良き漁場であり,多くの漁船が出入りし,ヨーロッパのフェリーも多く入港し,また日本に向かう原油やガスタンカーもここから出るということだ.


アルジェ湾通り建設中の高いミナレット

建設中の高いミナレット

建設中の高いミナレットが見える.中国企業が建設を請負い,高さ250m(いや284m?)で,世界のモスクで3番目に高いミナレットになるそうだ.もちろんここからアザーンを流すのが主目的だが,最上部に展望室とそこへのエレベータを設置し,観光用にも流用する予定と添乗Nさんから説明があった.


アルジェ湾通りで初めて見る貨車

初めて見る貨車

アルジェ湾通りで鉄道線路が並行して走る区間があった.実際走行中の列車には出合わなかったが,写真の初めて見る貨車が停車していた.全体が円筒状で側面にドアはなく,何らかの液体を運ぶ貨車なのでしょうか?

なおアルジェリアではこの先回る地方都市でも線路は見かけたが,走行中の列車はとても少なかった.元々運転本数が日に1,2本と疎ららしい.


アルジェリアンタペストリーデザインの建物

アルジェリアンタペストリーデザインの建物

アルジェリアンというか,マグレブ風と言うか,まあそう云ったデザインをエクステリアとした建物だ.大きなタペストリーを壁に貼り付けたように見える.これがないとどこの国にもある凡庸な建物で,注目されることはなかろう.でも相当手が掛かったことでしょうね.


海軍司令部のような感じかな~?

海軍司令部のような感じかな~?

青空を背景に白く美しいゲートです.仏語で一部写っているが海軍司令部のような感じでしょうか?


アルジェ湾岸の公園

アルジェ湾岸の公園

アルジェ湾岸には所々公園が設けられており,ゆっくり寛ぐ市民の姿が見える.

ヤシの木が生えて南国風に見えるが,東京と同じくらいの気温かな~と感じた(なお緯度は同じくらいである).尤も夏の東京は熱帯,若しくはそれに準じると思うが,アルジェの夏はどうなんだろう.


アルジェ湾通り斜面に張り付く建物と大聖堂

斜面に張り付く建物と大聖堂

大分北に進んだ.この辺りにも湾岸公園があり,湾間近くまで斜面が迫り,そこには張り付くが如く建物が建てられている.ただ樹木も多く,決して殺風景ではない.そして丘の上にはこれから向かうノートルダムドアフリク大聖堂も見えてきた.


ノートルダムドアフリク大聖堂Basilica Notre-Dame d'Afrique

ノートルダムドアフリク大聖堂の丘を上る

大聖堂の丘を上る

バスはノートルダムドアフリク大聖堂の丘を目指し上っていった.かなり急傾斜でまた急カーブのところもある.なかなか趣ある建物などあり,フランス統治時代から続く古い街なのであろう.


ノートルダムドアフリク大聖堂(Basilica Notre-Dame d'Afrique)に到着

ノートルダムドアフリク大聖堂に到着

バスはノートルダムドアフリク大聖堂(Basilica Notre-Dame d'Afrique)に到着した.ドライバさんは道や駐車スペースが狭く大変だ.

さて当ノートルダムドアフリク大聖堂はフランスの植民地だった1858年~1872年にかけネオビザンティン建築様式で建造され,『アフリカの(d'Afrique)聖母マリアの(Notre-Dame)大聖堂(Basilica)』(Basilica of Our Lady of Africa)と名付けられ,カトリックのアフリカ本山に相当するのであろう.

写真右から1/4くらいの屋根上に佇むのが聖母マリア(Notre-Dame)像だ.


ノートルダムドアフリク大聖堂礼拝堂上のドーム

礼拝堂上のドーム

礼拝堂の上は,側面から陽が射し込む薄いベージュのドームが聳え,その基部は白と青いタイルで彩られている.高さは124mあるそうだ.上述のように1872年建立と古いが,これまで修復が施され保守されているそうで,細やかな美しさが維持されている.

なおバシリカ(Basilica)は建築様式に関わる言葉で,上から眺めた平面図でいうと,長方形の西側短辺に入り口があり,東の端は半円形の至聖所があり,東から少し西に寄った位置で横に張り出した凸部がある形式で,十字架の形を成しているようだ.

なお日本語でカテドラルと呼ばれることがあるが,こちらは司教座のある教会の意で,ちょっと分類の土俵が違うようである.


ノートルダムドアフリク大聖堂内部

ノートルダムドアフリク大聖堂内部

写真は入口辺りからだけならOKということで写した.地元市民の皆さんもここで皆自撮りなどで写している.なお女性はスカーフ姿の人が多く,クリスチャンではなくイスラムのようだ.

テーブルが並ぶ形式は一般のカトリック教会と同じで,全般に壁の装飾や絵は控え目,シンプルに感じる.

至聖所奥のフレスコ画は中央にイエスを抱く聖マリアが描かれ,いかにもノートルダムの名を冠した教会らしい.ただし,雲の上人々,地上の人々(子どももいる)はどういった人か私には判らなかった.

ところでアルジェリアの人口の99%がイスラムで,その大半がスンナ派,イバード派も僅か存在し,後日訪れるムザブの谷ベルベル人などがこれに属すという.キリスト教徒やユダヤ教徒も僅かに存在するが,極めて少数で,この大聖堂の日曜ミサなどに訪れるのは外国人居住者,滞在者などに限られるようだ.


ノートルダムドアフリク大聖堂から見下ろしたアルジェ湾

ノートルダムドアフリク大聖堂から見下ろしたアルジェ湾

込入り建ち並ぶ住宅の様子がいかにも地中海沿岸旧市街の趣だ.全然根拠はないのだが家屋の色合いと陽の光,地中海の輝きがそんな思いを想起させるのだ.


ノートルダムドアフリク大聖堂から望む糸杉,墓地

サッカーコートと糸杉,墓地

上記ノートルダムドアフリク大聖堂から望むアルジェ湾で,少し右に目を転じるとサッカーコートがあり,その手前に糸杉,墓地が見える.

サッカーはジダンを輩出した如くその人気は論を待つまい.そんな次を窺わんと若い人たちが練習に励んでいるようだ.

手前は糸杉の林だ.添乗Nさんに初めて教えてもらったことだが,糸杉の根は横に伸びず,地中深くに這うという.そのため墓標を壊すことなく,墓地の樹木として安全で,よく植えられるという.そして仔細にこの周辺を見渡すと樹木の間に石碑が認められ,墓地として長年活用されてきたことを知る.

イスラムはこうした加工石材の大きな墓石を築かないので,多分仏植民地時代の仏人の墓が多いのかな~と想像した(実際のところは不明).


中央郵便局界隈around the central post office

アルジェ中央郵便局

アルジェ中央郵便局

アルジェの街の中心部にやって来た.写真右側の白い建物が最近まで中央郵便局だった建物だそうだ.今は博物館にするための改修工事中ということで閉館されているという.何の博物館かははっきり覚えていない.

設計はフランス人建築家トゥドワの手になり,全体が新しいムーリッシュ様式(Moorish),つまりムーア人(Moors≒ベルベル人)スタイルで,例えばファサードの三連円柱とアーチなど伝統的イスラム様式が採り入れられている.ただ全般には欧風風味が感じられる.これは当時のシャルルジョナール総督の,仏入植者とアルジェリア人融和の願いを反映させた結果ということだ.

有名な仏建築家ルコルビジェも建築のヒントを得るためたびたびアルジェリアを訪れたそうだが,この郵便局もその一つだそうだ.

なお郵便局手前道路下は地下には長くアーチの連なる空間があるが,これは遺跡か何かの一部なのでしょうか.聞きそびれてしまった.


アルジェ中央郵便局界隈

アルジェ中央郵便局界隈

中央郵便局界隈は仏植民地時代統治の中心でもあったそうで,周囲にはパリ風の建物が数多いようだ.


現在のアルジェ中央郵便局

現在のアルジェ中央郵便局

上記トゥドワ設計の郵便局は博物館に転用工事中ということで,その少し奥に位置する現在のアルジェ中央郵便局を訪ねた.

この建物はいかにもムーリッシュ様式で,規模は小さいながら結構美しい.色のコーディネートは絶妙だ.


現在のアルジェ中央郵便局内部

現在のアルジェ中央郵便局内部

切手を買う人がいて,中央郵便局内部に入ってみた.円筒状長いカウンターはガラスで仕切られ,手の出し入れ可能な隙間が設けてある.ただし鉄格子などなく,単にガラスだけなので然程威圧感を与えるものではない.

やはりeメール等で置き換えられてきているのか,職員の数は少なく,客もまた疎らである.


案内標識

案内標識

遊歩道に案内標識が立てられていた.カスバ,殉教者碑の公的地名に続き,普通のホテルと思しき案内が併記されているのが面白い.

都心にあっても豊かな木立が清々しい.


若い女性はスカーフなしも多い

若い女性はスカーフなしも多い

国民の殆どがイスラムであるが,ガイドSさんによればスカーフに関してはかなり自由なのだそうだ.事実写真のように若い女性はスカーフなしも多い.一方最初のページ巻頭に載せた絵のように片目出しという他国では見ることのできないような極端な装いの人も見られる.

なお左は路面ギャラリーで,絵の展示販売を行っているようだ.


酒なしだがオープンカフェは大繁盛

酒なしだがオープンカフェは大繁盛

イスラム国なので酒なしだが,それでもオープンカフェは大繁盛だ.ミントティーや濃いエスプレッソを飲んでいる人が多いのでしょう.


路線バスはオンボロ

路線バスはオンボロ

路線バスは時々見かける.乗用車は普通であるが,何故かバスはオンボロが多く,乗客はかなり乗っている.

車の交通量は多いし,200万人余りの人口も増加中だそうだ.現在地下鉄は一路線のみ運行中で,追加路線の工事中ということだ.いろいろ遺跡が出てきたりするであろうから,それはそれで苦労しそうだ.


独立の殉教者記念塔The shrine of the martyr

独立の殉教者記念塔の丘に上る

独立の殉教者記念塔の丘に上る

1962年7月5日アルジェリア独立記念日の20周年を記念して1982年に設立されたという独立の殉教者記念塔が丘にあり,バスで上った.

92mの塔は3枚の椰子の葉を束ねたデザインで,趣旨は毛利元就の三本の矢と同じようである.そして束ねた辺りに展望室が設けられている.またそこに行くエレベータもあるらしいのだが,運行されている様子は見えないとガイドSさんが語った.


最初の頃の兵士像

最初の頃の兵士像

3枚の椰子の葉の根本には,戦争初期,中期,終期の兵士像が据えられている.この写真はその初期のブロンズ像で農民兵士がヘルメットやブーツもない作業服姿で猟銃を携えている姿だそうだ.

アルジェリア戦争は1954年11月1日~1962年の間とされるので,1954年頃の兵士像であろう.

ところでアルジェリア両隣のチュニジアとモロッコは,やはり仏の植民地であったが1956年3月に独立を果たした.しかるにアルジェリアは植民地に非ず,仏の一部(海外県と海外領土の中間的存在)として扱っており(あくまで仏の言い分),またコロン(colon)と呼ばれる約100万人のヨーロッパ系入植者も入れ,『独立』は無いであろうとしていたようだ.

ところで2ヶ月前訪れたベトナムのディエンビエンフーの闘いで,1954年ベトミン(Vietnam doc-lap dong-minh-hoi/ベトナム独立同盟会の略称Viet minh)軍と仏軍との戦でベトミンが勝利し,独立するといった世界的気運が高まり,ここでも仏からの独立を標榜する『民族解放戦線(FLN)』が結成され,ゲリラ活動を展開するに至った.


独立の殉教者記念塔基部

独立の殉教者記念塔基部

大理石を敷き詰めた独立の殉教者記念塔基部は普通の人が立ち入らぬよう監視兵士がしっかり見張っていた.

さてFLNがアルジェリア,フランス双方エリアにおいて活動し始めたアルジェリア戦争であるが,そのうちエジプトのナセル政権の支援をはじめ,日本からも全学連などの支援なども得ながら,コロン問題などいろいろな困難を乗り切り,再登板したドゴール大統領から独立承認を取り付けたそうである.この闘いの死者は全て合わせて100万人に達したそうだ.


独立の殉教者記念塔終期の兵士像

独立の殉教者記念塔終期の兵士像

独立戦争終期の兵士像はヘルメットを被り,軍服を着,ブーツを履き,連発式銃を携え勝利のトーチを翳している.

ところでここは独立の殉教者記念塔(The shrine of the martyr)であるが,殉教者(martyr)は元々の原住民であるベルベル人,アラブ人イスラムを指し,対戦相手のヨーロッパ人入植者コロンや仏本土のクリスチャンは当然含まないものと思うが,それでいいのかな....なおコロンの皆さんは全員ヨーロッパ(主に仏)に帰還したということだ.


独立の殉教者記念塔から眺めた地中海

独立の殉教者記念塔から眺めた地中海

丘の上に独立の殉教者記念塔があるので,ここからは地中海がよく望める.

この辺りは集合住宅,沿岸は港湾施設が多いようだ.


独立の殉教者記念塔丘から下る

独立の殉教者記念塔丘から下る

独立の殉教者記念塔丘からは再びバスに乗り,緩やかな坂を下った.


ハニホテルHani Hotel

アルジェの東方面に向かう

アルジェの東方面に向かう

この日の観光は終わり,バスはアルジェの東方面に向かた.そして大まかには新市街なのであろう,集合住宅の多いエリアに入った.アラブ的香りが薄らいだ雰囲気だ.


ハニホテルに到着

ハニホテルに到着

バスはハニホテルに到着した.外壁には足場が組まれている.補修工事中のようだ.

google mapsを見ると前の通りはカルフール通りのようで,実際少し先にカルフールの店舗が見える.日本の街でも,よくその地方の大企業名を冠した通りがあるが,この国でも同じ発想があるようで興味深い.


ハニホテルにチェックイン

ハニホテルにチェックイン

バスから荷物を下ろし,ハニホテルにチェックインした.ここは明日も連泊予定で,さらに帰国前日にもまた戻ってくる予定だ.


ハニホテルの部屋

ハニホテルの部屋

キーを受け取り部屋に入った.普通にクリーンだと思う.アジアの多くのホテルと違ってお茶やコーヒーセットやスリッパやバスローブは確か無かったが,ミネラルウォーターやソーダ水はあり,バスタブを備え,wifiは繋がった.


ハニホテルのキブラ(Qibla)

ハニホテルのキブラ

テーブルにメッカの方向を指すキブラ(Qibla)があった.これを見ると,あ~イスラム圏に来たんだな~とある種の旅情を覚える.

夜になり,当ホテルレストランに夕食に訪れた.写真を忘れたので何を食べたか思い出せない.ただ異教徒の私たちにもビールやワインは出してもらえないレストランだった.まあ,仕方なかろう.

ただこの国はパキスタンとかと違って,酒類持ち込みは容認しているので,予め成田空港で買っておいたシーバスリーガルがバッグにあり,それを寝酒とした.



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