このティムガッド遺跡編では,2018年11月10日コンスタンティーヌからヌミディア王国マドラセン王墓を経てティムガッドへ行きランチ,そしてティムガッド博物館,ティムガッド遺跡を見物したときの写真を載せました.
この日はコンスタンティーヌ9のモスクを見た後,南への街道を通り,塩田など眺めながらヌミディア王国マドラセン王墓に立ち寄り,その後ティムガッド遺跡10に進んだ.
別窓で大きなGoogleマップを開くコンスタンティーヌから暫く南に進むと畑の中を進む貨物列車が見えた.タンク車などのようだ.貨物列車なのでスピードは遅いようである.
上列車から暫く進むと今度は赤い機関車が見えた.たまたま先頭だけ見えたのだが,引っ張られている車両が見えない.架線が見えないのでディーゼル機関車であろうか.
テルアトラス支脈を背に,塩湖らしき湖が見えてきた.少し後に塩田を見るのだが,その水をこの湖から引いているのではなかろうかということだ.
ページ初めの静止マップで,トラック脇左側には2つ湖が記されている.大きなマップを参照すると最初の方(北の方)はSebkret Ez Zemoulの名で,またこの辺り一帯はセブカ(sebkha)と呼ばれ,塩の平野の意だそうだ.セブカはしばしば暑い砂漠地帯に見られ,湖沼になったり,蒸発して塩を残す,ということだ.
これは塩田なのだそうだ.塩水はきっと上の湖から引いてきているのであろう.そして塩水の塩(塩化ナトリウム)濃度はかなり高いのではなかろうか.さもないと採算が取れないであろう.
羊飼いに引き連れられた羊の群れが草を食んでいる.やはりこの辺りの羊は体が大きい.そういった種類なのであろう.
それと多少塩分を含む水が近くに在るのは羊の生育にいいのではなかろうか.
この辺りで警察の管轄が切り替わるようで,パトカーも私たちのバスも停めて,交代のパトカーが来るのを待つ.
警護警官交代の待ち時間に,私たちは近くのカフェでコーヒー(人によってはミントティー)を頂いた.看板のネスカフェではなく,ちゃんと抽出したエスプレッソで美味しい.
この街は住宅と商店街を揃えたちょっと大きな街だ.地図をみると上湖の南アインヤグート(Ain Yagout)であろうか?
街を越えるとまた畑になった.今年の収穫は終わり,次の種蒔きに備えてトラクターで耕す作業が行われている.
ヌミディア王国(Numidia kingdomのマドラセン(Madghacen)王墓(と言われる)に着いた.墓の形は以前シェルシェル手前で眺めたマウレタニア王家の墓に似ている.ただその墓はクレオパトラセレネとユバⅡ世王(25BC~AD24)のものとされ,マドラセンはヌミディア王国初期の王なので,こちらが先に作られたようだ.
ヌミディア王国 はカルタゴや共和政ローマの時代に,ベルベル系部族が202年BC~46年BC頃この辺りに打ち立てた王国のようだ.
マドラセン王墓を過ぎ,再び高原の道を走った.これまで羊と違ってあまり見なかった牛が放牧されていた.
丘陵を進むと畑の区画区切りであろうか糸杉の林が見えた.なかなかいい眺めだ.
そしてティムガッドに到着した.ここではティムガッド遺跡専任ガイド(学芸員)Aさんのお宅に上がり,奥さんお手製のランチを頂くことになった.
最初にスープ,続いて写真の豆と人参とミートボールだった.ごちそうさまでした.
さあ次は旦那さんに案内願います.
さてティムガッド (Thamugadi) は西暦100年頃にトラヤヌス帝(Trajanus)によって,標高およそ1,000mのこの地に建設された古代ローマの植民都市で,当時はタムガス (Thamugas) と呼ばれていたそうだ.ティムガッドは典型的古代ローマ都市計画に基づき,南北,直交する東西大通りをベースに,碁盤目状区画が導入されている.7世紀のアラブ人の侵攻,8世紀の地震などで長い間砂に埋もれており,1880年仏考古学者が見つけるまでそのままで保存状態がよく,アフリカのポンペイとも言われるそうだ.それにまだ未発掘の広い部分が残っているという.
遺跡は今夜宿泊予定のバトナ (Batna) から35km地点に位置している.近くのアトラス山系支脈オーレス山地近隣における対ベルベル人の要塞とすることを主目的に建設された軍事植民地であったそうだ.最初にそこに居住したのは,古代ローマ軍で20年の兵役を終えた退役軍人,退職金の意味合いで土地を給付されたパルティア人が大半だったそうだ.
当初収容人員15,000人を想定して設計されたが,すぐにそれを越え,街は碁盤目状の区画の外側にどんどん拡大させていったという.
これが全然気取りなしのティムガッド博物館入り口.英語も併記してあるのだが,コントラストが弱くちょっと読み辛い.
壁の格子や,入り口枠体のレリーフ,カーテンなどに何気なくアラビア風味が付けられている.
また入り口には入り切らない石像などが並んでいる.
なお館内は普段撮影禁止なのだそうだが,ガイドSさん,添乗Nさん,それに学芸員Aさんもか,の働きかけで特別撮影可となっていた.ありがとうございます.
これらは入り口脇の石像だが,ティムガッド遺跡ネクロポリス(墓地)から運んできた墓標だという.当時の神様や羊などがよく刻まれたようだ.またこれらには記されてないが,亡くなった人の名前や,享年など記したものも多い.
いく部屋かに分かれており,モザイク画や石像が多く展示されている.
これらは作品を保護し,鑑賞し易くするためにティムガッド遺跡から移設したもので,元は床にあったものが壁に貼られたりしているものもある.
中央はビーナスか何かの女神で,両側は男の神様?
きれいな色合いとグラデーションで描かれているのだが,背景となっているであろうストーリーを知らないので,よく解らないのが残念.
ひょっとしてビーナスの勝利かな.....
半人半獣の種族,馬の首から上が人間の上半身に置き換わったような姿のケンタウロス(Centaur)に乗る愛の女神ビーナスだそうだ.
でもこの写真では首が馬のままかな....
多分これは構図が異なるがジェミラ博物館でもあった牛に変身したゼウスとユーロペであろう.
対称型に葉やスパイラル模様をあしらったモザイク画だ.とても鮮やかな色で描かれている.色石を集めるのは大変だったであろう.
お金持ちはプライベート小浴場を有していたそうで,これは親族のための案内板なのであろうか.
背後の壁に『statue d'esculape』と記されている.esculapeは日本語のアスクレピオスのようである.大理石に刻まれた大きな像である.
アスクレピオスであれば,ギリシア神話の名医,医神である.またこの像には見当たらないが蛇の巻き付いた『アスクレピオスの杖』を携えていることも多い筈だが....折れて無くなってしまったのか.
なおアスクレピオスの像はシェルシェル博物館でもあったが,そちらはずいぶん若いときの姿だった.いずれにしても彫刻ではよく用いられたモチーフだったのですね.
博物館前は遺跡のカルドに続く通りと,その両側に庭を備えている.そして庭には各種彫刻された石のコレクションが置かれている.
これはジェミラ遺跡コシニウス市場でも見かけたが,粉体,粒体,液体などの容積を計る計量容器であろう.こちらは4種類の量が計れるようだ.
手前は込み入ったレリーフが刻まれた石棺だ.中央が亡くなった本人の顔であろう.
背後に並ぶのは墓石である.こちらも顔の刻まれたものが多い.中には夫婦と思しき二体の像が刻まれたタイプも見える.
博物館前の通りを進むと,そのままティムガッド遺跡のカルド(Cardo:南北大通り)北入り口になる.
カルドの舗装石は玄武岩だそうだが,馬車の轍が残されている.そしてその両サイドには定石通り列柱が続いている.
列柱の外側はいくらか空間が設けられ,さらにその外側には住宅の建材が残されている.列柱直ぐ外の空間は商品販売用のスペースで,ここに商品を並べて売り買いしたということだ.
ここは図書館だったそうだ.当時アマゾンはなく,また書籍は大量生産でなく,羊皮紙とか輸入したパピルスに手書きした大変貴重なものだったので,普通の人は自分で蔵書せず(できず),この図書館に来て読んだそうだ.
入口近くには入館とか,或いは貸し出しルールとかか....まあ,分からないが何やら記された石版がある.
なおこの図書館には5000冊の蔵書があったそうだ.
奥側は中規模くらいの公衆浴場,手前は公衆トイレだったようだ.浴場は温度別の浴槽やジムのようなものも備えていたそうだ.
公衆浴場はもちろん,公衆トイレも社交場の一つだったそうで,へ~と思う.
ここはお金持ちの高級住宅で幾つもの部屋を備えていたという.
また高級住宅は家にトイレを備え(庶民の住宅にはなかった),その用水路や下水路は公共のもが使えたそうだ.また公共下水路に直結するため,その上の公道にトイレ部分が張り出していても構わなかったという.まあ,高額納税者の特権だったのでしょうね.
カルド通り(南北大通り)はやがてデクマヌス通り(Decumanus:東西大通り)に交わった.ローマ都市計画の定石通りということだ.
デクマヌス通りはカルド通りより少し広く,玄武岩の舗装,脇に列柱はカルド通り同様のようだ.
イルカの肘掛け付き二人掛けトイレがあった.海から遠く離れた地にイルカデザインを採用した意図は何だろう.トイレも社交場の一種だったと上述したが,そうした際の話の種を提供するためか.なお表には扉が付いていたそうだ.
カルド通りの突き当り,デクマヌス通りに並行して広いフォーラムがあった.フォーラムは見た目も広いが実際50mX43mの広さがあり,3,500人集まることができたそうだ.
フォーラムは広場だが,舗装の上におはじき遊びの凹みをいれた場所などあり,現代の公園的要素も備えていたのであろう.
こちらは退役軍人が暇に任せて書いたという落書きだそうで,『狩りをして,ひと風呂浴び,戯れ,大笑いする,これぞ人生だ』と記されているそうだ.
ここティムガッド周辺は豊かな林があり,そのため燃料補給の心配なく大浴場が建設されたそうだが,そうした林にはハンティングの野生動物も多かったのでしょうね.なおモザイク画のモチーフにはハンティングが多い.
とても保存状態が良い.客席は3,500人収容で,途中衝立でS席,A席,B席に区分されている.そのすり鉢状客席の石材は理解してないが,音響効果的に優れた素材で,演者の声がよく通るようだ.
たまたま地元の子供たちが遠足で来ていて,元はオーケストラの位置辺りに立ち,アルジェリア国歌を斉唱してくれた.確かに歌声は良く聴こえた.ありがとう.
なお後列中央の男性が引率の先生で,この方の音頭で実施された.さすが国歌を選ぶとは,外国人客対象にはなかなか気の利いた判断ですね.
円形劇場の天辺に上ると街全体が見渡せる.当初の都市計画では先方に高い二本柱のあるカピトリウム神殿の左端辺りが街の外れであったようだ.ところが人口がどんどん増え,最終的には向こうの丘の上まで住宅地が広がっていったようだった.
カピトリウム神殿はローマの三大神,つまり男神ジュピター(ユピテル),女神ジュノー(ユーノー),女神ミネルヴァを祀った神殿だそうだ.概ねギリシア十二神から受け継いだ,上位三神のようである.
2世紀後半の建立で,90mX62m基壇上に高さ14mの石柱6本が立ち,切妻屋根を支えていたという.8世紀頃の地震で完全に崩壊したが,近年仏政府が2本の柱を転げた石材を集めて復元したそうで,それが今見えている姿だ.
まだ落ちたままの柱や柱頭は一部残り,転がっている.写真はその一つで込み入った装飾が施されている.6トンの重さがあるという.仏政府はクレーン車で持ち上げたであろうが,ローマ帝国はどのように持ち上げたのかな~
も一つの柱頭と背の高いYさんが並んでみた.同じくらいの高さがありますね.大きいです.
神殿の手前に南大浴場跡があった.サウナから,水風呂,ぬるま湯,熱い湯いろいろ.それにスポーツジムなど揃えていたそうだ.
南大浴場の地下にはボイラー室があり,当時豊富にあった,近くの丘や山の木を切り倒し,燃料にしたそうだ.ボイラーマンは専ら奴隷の仕事だったのは他所のローマ遺跡と同じだという.
地下は暗いので,地上地面ところどころには明かり採り窓付き床石が配置してあったようだ.
セルティウス(Sergius)はこの市場を開設した人物の名らしい.周囲にはお店毎の商品棚が並び,その奥側に売り方が,内側に買い物客が巡回しながらショッピングしたそうだ.
お店はテーブル横の石の彫刻で,扱い商品が離れていても判るようにしたようだ.
このお店はぶどうの房のレリーフ,それにワイン樽のレリーフで,ワインショップと直ぐに判る石彫刻を積んである.
デクマヌスの西端に,高さ12mで聳えるのがトラヤヌス帝(Trajanus:在位AD98年~117年)の凱旋門だ.
ローマ五賢帝の一人でヒスパニアの出身.元老院と協調して内政を安定させ,人民にも寛大で,キリスト教徒に対しては過度な弾圧を禁じたそうだ.またアルメニア,アッシリア,メソポタミアなどを征服し,帝国の版図を拡大したそうだ.
本凱旋門はそうした版図拡大(当時最大になったそうだ)の成功を記念したものであろう.2世紀初頭コリント様式,砂岩で建設され,高さ12mあるそうだ.
トラヤヌス帝の凱旋門近くでは近所の母娘が散歩していた.母親の背後にはお父さんもいるのだが,陰に隠れてしまった.
トラヤヌス帝は比較的クリスチャンに肝要であったそうだし,さらに時代が下り313年になるとコンスタンティヌス帝がミラノ勅令を発してキリスト教が公認されたが,そうした後にこのバシリカ聖堂が作られたのであろう.
バシリカ聖堂の一画に洗礼槽があった.かなり大きいので全身水に浸すのであろう.