ドブロヴニクDobrovnik

このドブロヴニク編ではドブロヴニク旧市街のオノフリオの大噴水,フランシスコ修道院,スポンザ宮殿,総督邸,大聖堂,旧市街城壁,ドブロヴニク港など,およびドブロヴニク近郷の写真とキャプションを載せました.

ドブロヴニク旧市街the old city of Dobrovnik

ドブロヴニク旧市街南側から俯瞰

ドブロヴニク旧市街南側から俯瞰

旅行パンフレットなどで頻繁に見かけるドブロヴニク南側から俯瞰の定番写真.左側城壁に囲まれ赤い屋根の密集した部分がドブロヴニク旧市街.年間940万人もの観光客が訪れるというヨーロッパ屈指の観光地は,四方が500mくらいの頑丈そうな城壁に囲まれ「アドリア海の真珠」(pearl of the Adriatic)と呼ばれるそうだ.が,完全に人工的で樹木などは殆ど無いのも寂しいような.....と,個人的には感じられなくもない.

ドブロヴニクは他のダルマチア諸都市同様ヴェネチア共和国支配下に入ったことがありながらも,独立都市ドブロヴニクとして歴史的に海洋貿易によって栄え,優れた外交政策と豊富な交易で得た富で15~16世紀頃は特に繁栄したようだ.

交易が主要事業のドブロヴニクは伝染病の流入の機会も多くなりがちで,中世ヨーロッパでペストが猛威を振るった頃,これを食い止めるためドブロヴニクに向かう船舶と乗員は,一旦近くの検疫島で40日間隔離され,この間発病がないことが確認されて初めてドブロヴニクに入ることが許可されたという.上の写真で小さな島がいくつか見えるが,中の1つが検疫島だったようだ.ガイドKさんの説明で,英語の検疫所quarantineはこの隔離期間のラテン/イタリア語系単語Quarantena(40の意)に由来するそうだ.ペストの潜伏期間は相当長いようだ.


ドブロヴニク旧市街のオノフリオの大噴水(Onofrio's Fountain)

オノフリオの大噴水(Onofrio's Fountain)

城壁の陸側メインゲートであるピレ門から入ると直ぐの場所にあった.巨大な円筒状タンクにはちょっと怖い悪魔(?)の口などに蛇口が出ており,ここから貴重な生活用水が供給され,今もなお美味しい水として定評あるそうだ.水源は,今回強風のためロープウェイが運休し行けなかった標高412mのスルジ山から引っ張ってきているそうだ.なおここから始まるプラツァ通り先の外れにはオノフリオの小噴水もあった.ところでオノフリオは斧振男さんではなくナポリの著名な建築家にして土木技術者オノフリオさんで,この人がこれら上下水道ステム全て設計したということだ.治水は洋の東西を問わず重要な事業であったと思う.

ところで,水だけでなくこの島(埋立前は島だったそうだ)は食料供給もままならず,陸のスラブ人にお金を払い畑を貸してもらっていたそうでもある.やがて時代が下り,陸側住民との関係が和むと島と陸の海峡が埋め立てられ,両者一体的な街へと発展していったということだ.


ドブロヴニクのフランシスコ修道院(Franciscan Monastery)回廊

フランシスコ修道院(Franciscan Monastery)

上の写真オノフリオの大噴水左に見えているのがフランシスコ修道院.同名の修道院はザダールでも訪れたが,同じような修道院であろうか.回廊の石柱の彫刻が一本一本異なることや,回廊上部に上流階級故人の棺などが設置されていると聞いてちょっと驚いた.

修道院の入口辺りにはマラブラーチャ薬局(Ljekarna Mala braca)という薬屋さんがあった.ヨーロッパで3番目,1317年開業というのもすごいが,現に今もこうして継続して営業していると聞けばさらに驚く.

回廊には一般的フレスコ画の他に,病人の治療にあたる修道士の壁画(らしいが,少し難解)や,内部の一画には小さな薬事博物館があって,調合器具などが並べられていた.医療活動も重視していたのであろう.普段ここは撮影不可だそうだが,嵐のような天気で他の観光客もいないので市のガイドの人が,まあいいでしょうと言ってくれた(オフレコで).

修道院の図書館には30,000冊の蔵書があるそうだ.その一部であろうが幾何学の本や,楽譜なども並べられていて多様な歴史を感じさせられる.


ドブロヴニクのスポンザ宮殿(Sponza Palace)

スポンザ宮殿(Sponza Palace)

写真左側,アーチ型の回廊がスポンザ宮殿入り口.ゴシック様式とルネサンス様式ミックスで1516年ドゥブロブニク共和国の税関や造幣局として建設され,途中用途を変えながら,現在は古文書館および市中戦死者のメモリアルルームなどとして用いられているそうだ.多くが倒壊した1667年の大地震でも大丈夫だったそうで,建築遺跡として貴重だそうだ.でも宮殿と言うからには共和国元首の居城でもあったのか?は不明だ.

ドブロヴニクは,1991年のユーゴスラビア崩壊に伴う紛争でセルビアとモンテネグロ勢力に砲撃により多大な損害を蒙り,本宮殿一画の戦死者メモリアルルームには戦死者の顔写真などが展示されていた.砲撃はこの日強風で運行キャンセルで行けなかったスルジ山より行われたそうで,途中遮るものはなく丸見えで狙われ易く,甚大な被害を被ったであろう.

写真右側は時計塔で1444年に建てられたそうだ.一番上は鐘楼となっており,ブロンズの鐘つき人形が時間毎に鐘を鳴らすようだ.

ドブロヴニクの総督邸,大聖堂,聖ブラホ教会

左から総督邸,大聖堂,聖ブラホ教会

総督邸(Rector's Palace)はこれまたオノフリオ氏が1441年に建造したという後期ゴシック様式の宮殿で,後アーチ型回廊などルネサンス様式に改築されたそうだ.ドブロヴニク共和国時代の総督の住居兼行政機関が集まった行政府だったそうだ.総督は無給の名誉職,貴族議員の互選で選ばれ,任期はたったの1ヶ月.城門鍵の管理など細かい実務まで行いながらその間外出禁止,家族との面会禁止など厳しいルールがあったそうだ.専制政治や贈収賄を未然に防ぐためとガイドさんが話してくれた.その共和国時代,この小さな国に比べれば周囲には列強がひしめき,いかに独立を守るかという安全保障政策が最重要な課題だったそうだ.幸いこの国には莫大な貿易収支黒字があり,城壁の補強や,敵の敵にべらぼうな金を贈るなどして独立を維持し続け,近年のナポレオン軍が攻め入って来るまで大丈夫だったそうである.

中央,工事中の建物は大聖堂で下に改めて載せたい.

右は聖ブラホ教会(Church of St. Blasius)で14世紀に建てられ,途中火災に遭い,1715年にバロック様式で再建されたそうである.聖ブラホという人はドブロヴニクの守護聖人ということだ.

聖ブラホ教会前には剣を翳した若い男の像,騎士ローラントの像というのがあった.騎士ローラントは特にドイツ辺りでは有名,中世叙事詩に登場する英雄なのだそうだ.ここではロ-ラントの右腕手からひじまでの長さ(51.2cmだそうだ)は「ドブロブニクの肘」として長さの基本単位とされていたそうだ.言わばパリのメートル原器と同じ役目だ.ただ,腕そのものの長さと言われても測り難いし,如何様にも測れそうだし,人それぞれ違う計測結果になろう.そこで台座に目盛りを刻んでそれを測ったらしい(この目で確認しなかったが).こうした身体に関わる基本単位とした例は,未だ米が固執しているフィート(feet=30.48cm)があり,随分大きな人の足(ジャイアント馬場さんは16文≒39cmと言われたが,実際は32cmだったらしく,この巨人並み)を基準にしたものだな~と思っていたものだ.だがこのローラントさんの肘もまた,いやそれ以上に並外れた大きさだと思う.英雄だからまあ実際そうだったのであろう.


下は,ドブロヴニク旧市街の写真いろいろ

ドブロヴニク旧市街での眺め
ドブロヴニク旧市街での眺め ドブロヴニク旧市街での眺め ドブロヴニク旧市街での眺め ドブロヴニク旧市街での眺め ドブロヴニク旧市街での眺め ドブロヴニク旧市街での眺め ドブロヴニク旧市街での眺め
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ドブロヴニク大聖堂

ドブロヴニク大聖堂(Dubrovnik Cathedral)

大聖堂は最初はロマネスク様式で建てられたが,1667年の大地震で崩壊したため,後にバロック様式で再建されたものだそうだ.中に入ると採光も良好でなかなか美しい.写真中央下側主祭壇正面に,イタリアの画家ティツィアーノの「聖母被昇天」が掲げられているので聖母被昇天大聖堂(Cathedral of the Assumption)とも呼ばれるようだ.「聖母被昇天」とは何か?ウィキペディアを覗かせてもらうと,聖母マリアがその人生の終わりに肉体と霊魂を伴って天国に上げられたという信仰,とのことだが,.....

画家ティツィアーノに戻ると,「聖母被昇天」では大変よく知られた方のようだ.聖母の死後,魂が身体に戻され,天使たちに取り囲まれながら天に召されてゆく姿を描いた構図で,当時の祭壇画で最も典型的な主題のひとつでもあったそうだ.聖母被昇天を主題とする場合,聖母マリアは上方を見上げている姿で描かれるそうであるが,この写真では絵の部分がちょっと小さ過ぎた.

大聖堂側面にはきれいな石柱に囲まれた副祭壇キリストの像聖母マリア像など置かれ,いずれもなかなか華麗だ.

ドブロヴニク旧市街の路地

旧市街の路地

路地も徹底的に石畳で舗装されている.道幅は車や馬車が入るには狭く,街が作られた時代の古さを感じさせる.ただ実際は前述のように,ドブロヴニク旧市街は1991年から1992年にかけて砲撃を受け,非常に多くが破壊され,その後何とか修復されたのだそうだが,元の素材の多くが活用されたことであろう.

ところで1991年はユーゴスラビアから相次いでクロアチアやスロベニアが独立を宣言した年で,1970年代の早い段階で既にユネスコ世界遺産に登録されているこの旧市街は,戦争による惨事を未然に回避するため非武装化が行われたが,独立宣言後ユーゴスラビア人民軍に残っていたセルビアとモンテネグロ兵によって攻撃されたということだ.私たちから市中の人々を垣間見る限り,少なくとも別々の民族や部族には見えず,皆同じ白人に思えるが......それほど単純なものではないようだ.何にしろやはり平和が一番だ.


ドブロヴニク旧市街城壁

ドブロヴニク旧市街城壁(Dubrovnik City walls)

ドブロヴニク旧市街は海と,ピレ門のある陸に接しているが,全周城壁で囲まれている.ピレ門は跳ね橋になっているそうだし,海側も敵船から容易には上陸できないように波打ち際から直ぐに壁が立ち上がるような構造にしてあり,また上部には大砲も据えてあり,まあ,これで少なくとも中世当時は相当堅固な守りができたと思われる.ただ近年兵器が圧倒的な飛距離とパワーを持つに至ったため,1991年スルジ山からの砲撃は防げなかったのであろう.


旧市街のドブロヴニク港

ドブロヴニク港

ここが中世ドブロヴニクに巨万の富をもたらした交易の要の一つドブロヴニク港,というには随分小さな港の印象だ.当時の船舶はさほど大きくはなく,また航行する数も限られていたのであろう,と想像した.

これは城壁の上から撮ったものであるが,殆ど嵐のような様相で傘は用を成さず,少し歩くとびしょびしょ,僅か城壁を歩いただけで退却した.


下は,もっとドブロヴニク旧市街の写真

ドブロヴニク旧市街での眺め
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以上ドブロヴニク旧市街は1979年ユネスコ世界遺産(文化遺産)に指定されていたが,1991年から1998年の砲撃で破壊され,一旦危機遺産に指定されたそうだ.後に何とか復旧し,それが解除されたそうで,市民にとってとても喜ばしいことであったと思う.

ドブロヴニク近郷neighboring towns

ドブロヴニクの北

ドブロヴニクの北

スプリットからネウムを経由してドブロヴニクに入るには,幾つのも町や村を越えて相当の距離を走った.多くは海岸に面した通りで,山,殆ど荒地の岩山が海辺まで迫る眺めだが,なかなか景色のいいところが多い.途中所々にはピンクの杏の花若しくはその類の花が咲いている,まだ寒いが春は遠くないようだ.写真のように道路工事で少し車が列を成しているところもあるが概ね空いているように見えた.多くは寒村のような趣きで大きな物流を要するような産業は少ないのであろうか?


ドブロヴニクの南

ドブロヴニクの南

モンテネグロへの行き帰りでドブロヴニクの南の町も通った.こちらも海岸に沿って走ったので白い壁に赤い屋根,青い海の光景が楽しめる.プレジャーボートやヨットの多いのが羨ましい.でもちゃんと牡蠣の養殖のブイなども見られ,漁業もちゃんと営まれているんだな~と安心(?)する.


下は,ドブロヴニク近郷やドブロヴニク新市街の写真

ドブロヴニク近郷での眺め
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ドブロヴニク近郷での眺め ドブロヴニク近郷での眺め ドブロヴニク近郷での眺め ドブロヴニク近郷での眺め ドブロヴニク近郷での眺め ドブロヴニク近郷での眺め

ところで私の舌では「ドブロヴニク」が上手く廻らず,会話では「どぶろく」で通した.笑わず相手をしてくれた同行者の温かい思いやりが嬉しかった.

ドブロヴニク見物の後はモンテネグロのコトルに向かう.



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