このザグレブ編では,バスでプリトヴィッツェからクロアチアの首都ザグレブへ行き,ザグレブ到着後聖母被昇天大聖堂,ドーラッツ市場,石の門,聖マルコ教会,共和国広場など見物し,スロベニアのグラーツからウイーン経由で帰国したときの写真とキャプションを載せました.
小雪ちらつくプリトヴィッツェの朝,バスに乗り込みクロアチアの首都ザグレブへと向けて出発した.ザグレブまで150km/2.5hrの予定だ.途中も僅かながら雪が続いているようで,空はどんよりしている.
半分余り走ったであろうが,道路と並行して走る列車があった.あまり速くない,いやバスより多少遅いようで,バスは追い抜いていった.列車は別に鉄道マニアでなくとも旅情を掻き立てる訴求力を持っているようで皆で一斉にカメラを構えた.
ザグレブに到着すると,早めであったがこの後歩くための腹ごしらえ昼食となった.サラダにスープ,チキンとかだったかと思う.このレストランはバー若しくはビアホール的雰囲気,それもその筈建屋の一画にはビール醸造用の大きなタンクが数本設置されていた.味はまあ普通に美味しかったように思う.
下は,ザグレブへ行く時の写真.中央はザグレブアリーナで,この近くのiホテルに泊まった.
大聖堂の前にやって来た.先ずは104mと105m(なぜか1m違う)あるという高い尖塔(鐘楼)の片側が修復工事中であることに目が行く.当地のガイドさんより説明を受け,いつものように添乗Kさんが日本語にしてくれた.現在の建物の前,ハンガリーに支配されていた11世紀頃,既に司教座のある教会,即ち大聖堂があったという.その後ロマネスク様式で建て替えられたが13世紀になってモンゴル軍の襲来で破壊(こんな所まで,ひどい!)され,その後今度はゴシック様式で建て替えられたそうである.
で,さらにその後,オスマントルコ襲来はなんとか凌ぎ(近くに当時の城塞跡が残っている),大地震でダメージを受けたがネオゴシック様式で修復,ついでに2つの高い鐘楼が加えられ,それが現在の基本的な姿となっているようだ.ただこの鐘楼は加工の楽な砂岩で組まれ耐震性に問題があり,より強度の高い石灰岩に取り替えるなどの大工事を行っている最中,と云うのが今見ている光景ということだ.
ここも正式名称は聖母被昇天大聖堂だそうで,同じ名称は例えばドブロヴニクの大聖堂でもそのように呼ばれていた.おさらいすると,聖母マリアがその人生の終わりに肉体と霊魂を伴って天国に上げられたという信仰,に基づくようである.もっと簡単に言うとマリア様に対する信仰,であろうか.
首都のカトリック大聖堂だけあって内部は天井がとても高く,広く大変立派だ.マリア様が主題のステンドグラスも美しい.市民の信徒に加え,ヨーロッパからの旅行者や私たち異教徒も多く,お祈りを妨げないように静かに説明に聴き入った.
主祭壇には第二次大戦当時大司教だったというステピナッツ氏の棺(実際の遺体は地下に収められているそうだ)があった.大司教ステピナッツ氏は大戦後のユーゴスラビア法廷で戦争犯罪人の判決が下り,強制労働が課され,後減刑で監禁の身となったそうだ.バチカンが同氏を枢機卿に任じるも,政府は激怒,本人は監禁下では何もできないまま1960年に他界したという.その後クロアチア独立政権誕生に伴って同氏の名誉が回復され,この大聖堂に埋葬されたということだ.ただ今も,罪状の大きな理由でもあった「大戦中カトリックへの強制改宗を迫られた」とするセルビア系住民などの不信感が消え去ることはなく,クロアチアを含めバルカン諸国の抱え続ける重い課題ではあろう.今も宗教はやはり政治の一部だな~と改めて思う.
なお1998年,時のローマ教皇ヨハネパウロ2世もここを訪れ,祈りを捧げたということだ.
大聖堂には正面の主祭壇の他に,側面には幾つもの祭壇があり,蝋燭の明かりを灯しお祈りする人の姿が見られる.写真のように若い方から年配の人まで色々な人達が入れ替わり立ち代り訪ねて来る様子だった.
この祭壇もそうであるが,聖母被昇天大聖堂だけあってマリア様が主題の祭壇が多いようだった.
下は,聖母被昇天大聖堂と周囲のいろいろな写真
最初の1枚は聖母被昇天大聖堂前の広場に,高い柱の先に金ピカのマリア様を掲げたモニュメント.裏切りユダの取り乱した様子が含まれる最後の晩餐の絵などもなかなか興味深い.
ザグレブで最も古い市場だそうだ.屋外には野菜や果物,それと雑貨など,地下に肉屋さん,パン屋さんなどが多いようだった.聖母被昇天大聖堂の直ぐ近くで,閉店が早いということで急いて駆けつけた.天気も良くなかったし,八百屋さんなどは早々にお店をたたみ始めていた.まあ,市場の眺めは他所とさして変わることはないと思うが,野菜や加工肉製品などに普段あまり見慣れないものを目にすることもあった.
旧市街に含まれるこの辺りは,緩やかな起伏のある土地に,車の往来にはちょっと苦労しそうな狭い道が走っている.そしてそこに建つ建物はゴシック様式とかバロック様式か,数多いようで,私たちが見ると正に中世の街そのものだ.
ザグレブは西欧,中欧とアドリア海を結ぶ交通の要衝.クロアチアの34%の企業はザグレブに本社を置き,それに比例するクロアチアの労働人口がザグレブで勤務をしているそうだ.また大学などもかなりザグレブに集中し,地方では職が得られず卒業後も殆どここに留まるというガイド氏の話があった.まあ,それでもまだ失業率は高いということだが.
下は,ドーラッツ市場辺りの写真
現在石の門と呼ばれるこの門は,中世の自由都市グラデッツを取り囲んでいた城壁の門の一つ,東の門だったそうだ.当初木造だったがオスマントルコがヨーロッパに侵攻する時代,大事な城壁だったそうである.1731年東の門近くが火災で消失,そこでより強固にするため石で再建され,名前が石の門となったそうである.
前述の火災のとき,焼け跡には,そこに掲げられていたキリストを抱く聖母マリアの絵(イコン)が無傷の状態で見つかったそうである.これはカトリックでしばしば見られる「奇跡」に相当するそうで,現在その絵は鉄格子で守られた小さな祠に掲げられていた.隙間からレンズを向けて撮ったがちょっと不鮮明だった.
この絵は鉄格子で守られており覗きにくい(本来観光用ではもちろんないが)ためか,新たに立体像が傍らに据えられていた.そして両者は,お祈りに現れた人の捧げた花や灯明に囲まれていた.
下は,石の門周辺の写真
真ん中の写真の騎馬上の人物は聖ジョージで,何日か前スロベニアはピランのガイドに話してもらった聖ユーリ教会の聖ジョージ(聖ゲオルギー)と同じ人だということだ.聖ジョージはやはり槍を携え,馬に跨るこの姿が一番親しまれているようだ.
15世紀建立のネオゴシック様式であるそうだが,部外者にはとにかくインパクトのある屋根だ.赤,白,茶,青などのモザイク瓦葺きで,左側がクロアチア王国,ダルマチア地方,スラヴォニア(?)地方の紋章,右がザブレブの紋章だそうだ.これらの紋章は最初からあったのではなく,1880年大地震で壊れ,復旧するときに加えられたそうである.元通りにするのさえ大変であっただろうに,新しい要素を加えるという発案者や,先を見越して実行に移した人はなかなかすごい.
この写真で見る限りあまり感じないが,間近で見ると絵柄は大変ジャギー(斜線のギザギザ)が目立つ.その昔ディスプレイ装置の画素数が少なかった頃,アイコンなどを少ない画素数で苦労してデザインした(デザイン部門の人だが)時代が偲ばれる.一見現代のディジタル画像とは無関係そうでいて,実は有限の画素数でいかに美しくビットマップ画像を作るか,を示す素晴らしい文化遺産だ.
教会の右側の建物は国会議事堂,左側は政府官邸ということだ.この辺りには他にも国の機関が集まっているようだ.東京で言えば,永田町と霞が関辺りに相当しよう.だが特段物々しい警護といった様子は見られず,石畳の道を人や車が普通に往来しているように見えた.
聖マルコ教会広場の直ぐ前側にあった.美術館は中で作品を鑑賞してなんぼのもの(正しい大阪弁か?)であろうが,単に通りから眺めただけだ.それでも写真を撮って載せたのは,右側に見えるガス燈のせいだ.そのような時代的代物が今も実用されていることにも驚くが,アルフレッドヒッチコック監督イングリッドバーグマンの「ガス燈」が思い出されたからだ.でもストーリーは....どうだったかな~?ところでここのガス燈は,夕方になると係員が先に種火の付いた竿で点灯して回るのだそうである.これも時代掛かっていて味がありそうな光景だろうな~
国立美術館斜向かい手前の角には16世紀の農民一揆のリーダーだったというマティヤグベッツ(Matija Gubec)という人のレリーフがあった.いつも成田空港に行く時通過する京成宗吾参道駅で思い浮かべる佐倉宗吾(本名木内惣五郎)のような人だったのかな~と想像してみる.
国立美術館から少し先に進んだところにあった.バロック様式で17世紀の建立だそうだ.聖カトリーナ(St. Catherine)と言えば,5年ほど前に訪れたシナイ半島のセントカトリーナ修道院が思い出される.その聖カトリーナは294年,エジプトのアレクサンドリアで生まれ,哲学,医学等を学び,やがて洗礼を受け,クリスチャンになる.4世紀初めの迫害の時代に,彼女は偶像崇拝を非難し,18歳で殉教したそうで,この教会はその人に因むのではなかろうか.
なおこの教会近くには13世紀に建てられ,大砲台が設置されているという見張り台(ロトルシュチャク塔)があった.う~ん確かに高くて窓,いや銃眼は小さく,要塞のような造りだ.ただ壁のXマークは何であったかな~?
見張り台の辺りからはザグレブ新市街が見える.でも赤い屋根の街並みは旧市街のように見えなくもない.遠くには高層ビルやそれらを建設中の大きなクレーンも見えるのでやはり新市街か?
ちょっと写真に写ってなかったが,この直ぐ脇に単線のケーブルカーが走っている.何でも高低差30mで世界一小型とか?
下は,聖マルコ教会とその周辺の写真.右端,落書きの1枚はヨーロッパの香りだ.
ザグレブの繁華街中央にある広場は共和国広場若しくはイエラチッチ広場と呼ばれるそうだ.広場の騎馬像がその人,ヨシプイエラチッチ総督で,1866年彫刻家フェルンコルンさん(Anton Dominik Fernkorn)によって作られた作品だそうだ.この像は1947年(終戦の翌年ですね)にイデオロギー的理由で一旦取り払われたが,1990年にまた戻された,とザグレブ市観光局の公式サイトに載っていた.
でもこれだけではイエラチッチ総督がどういった人物か判らない.他を当たると,同氏は1801年セルビア生まれ,オーストリア皇帝より総督に任命される.1848年帝国内のハンガリーで独立運動が起こった際,ハンガリーの直接支配下にあったクロアチアとセルビアは,このイエラチッチを先頭に皇帝側に立って反乱軍と戦うことでクロアチアの自治を認めてもらおうとした.しかし翌49年にハンガリーの反乱は鎮圧され,オーストリアは自治の要求を無視(←冷たい!).不幸な独立運動の指導者となったが,やがて時代がず~っと下り20世紀に至り,その頃の独立運動に繋がる存在として認められ,クロアチア独立のために戦った英雄,に至った....とか.でもとても一筋縄にはいかぬことは一旦撤去されたことでも明らかだし.....難しい.
広場の周りはなかなか重厚な建物が多く見受けられるが,18世紀に建てられたものとかが多いようだ.今は21世紀,歴史がありますね~これらビルには百貨店やコンビニもあって,残ったクロアチア通貨クーナを使うに都合良かった.またインフォメーションカウンタも近くにあって,申し出たら立派なザグレブのリーフレットを分けてくれた.日本語で写真も多く読み易かった.
ザグレブには路面電車が多く走っている.これもまたヨーロッパの香りだ.車体はブルーに統一されているようであるが形は,角ばったものから流線型まで複数種類見られる.眺めていた時も結構な乗降客が見られたが,通勤時間帯は非常に混むらしい.街外れの終点ではバスに連絡しているそうで,実用上重要な足となっているようだ.
下は,共和国広場辺りの写真
YouTubeに共和国広場のムービー(32秒)をアップしてみました.
ザグレブの観光を終えて,市内のi(アイ)ホテルに入り,最後の夕食を頂き宿泊となった.全部終わった開放感(?初めからあったが)からか皆たっぷりワイン等を味わう.部屋はいかにも共産政権時代の作りを匂わせる代物....といった感じだった.
翌朝バスでザグレブを発ち,クロアチアを抜けスロベニアに入った.やはり寒波が来たのであろう,少し雪で覆われている.さらに進んだ辺りにはドライバ,ジェサンさんの実家があり,葡萄栽培など手掛けるご両親が住まい,良質の白ワインを産するそうだ.
バスはグラーツに到着し,ジェサンさんにお暇し,ウイーン行きオーストリア航空機に乗り込んだ.機体はボンバルディアDASH8-400型と云うプロペラ機であるが,667km/hrとジェット機に近い高速で,YS-11(440km/hr)の1.5倍の巡航速度に相当するようだ.
一旦ウイーンに到着すると,国際線で成田行きに乗り換え,翌朝無事成田に到着した.楽しかった.おしまい.
添乗Kさん,同行の皆さん,バスドライバのジェサンさん,各都市のガイドさん,ご当地の皆さん....お世話になりました.ありがとうございました.