このコトル編ではモンテネグロに行くときの様子,世界遺産コトル旧市街の城壁,武器の広場,聖トリフォン大聖堂,聖ルカ教会,聖ニコラス教会などの写真とキャプションを載せました.
ドブロヴニクから日帰りでモンテネグロのコトル観光に出掛けた.クロアチア/モンテネグロの出入国はパスポートにスタンプを押すなどなかなか厳格に,従って時間を要してやられていた.
モンテネグロ(Montenegro/Monte Negro)は黒い山の意だそうで,モンブラン(Mont Blanc)とは対極になろうか.で,入国した辺りの眺めは大まかに言って荒地であるが,ポプラであろうか糸杉であろうか,真っ直ぐに伸びる木立や,背景には確かに少し黒っぽい山も見えてそれなりに風情がある.
ところでモンテネグロは福島県と同じくらいの国土で,人口は62万人(福島県は200万人).2006年6月セルビアから分離独立したという,多分最も新しい国ではなかろうか.言語的,文化的にはセルビア人との違いは殆どなく,宗教も同じ東方正教会系が多いようだが,ちょうどカトリックとの境界に当たるそうでカトリック教徒,さらにイスラム教徒入り交じっているようだ.民族構成も外務省のページによるとモンテネグロ人(40%),セルビア人(30%),ボスニア系イスラム教徒(9%),アルバニア人(7%)等で構成されるそうだが,住民の多くがEU加盟を望み,それには先ずはセルビアから独立するのが近道との国民投票の基づいた国家樹立だったそうだ.なおセルビアの自治州でありながら,セルビアの主権が及ばず独立宣言したコソボを承認した国連加盟国はまだ50箇国程度に留まっているようで,モンテネグロよりかなり大変そうである.
モンテネグロに入りコトルの街へと向かった.やがて湖のような水辺に至った.右の地図は3ページ目のマップのコトル周辺を拡大したGoogleマップで,コトルは段階的に連なる3つの湾の最奥に位置している様子が見てとれる.それぞれの湾の入り口は狭く,たとえアドリア海がいくら荒れても全く影響されないのではと思えるほどの地形に見える.ところでこれらの湾は,氷河によって形成されたU字谷が沈水して形成されたフィヨルドなのだそうである.へえ~,フィヨルドってノルウェイとか北欧だけに在るものと思っていたが,ヨーロッパは大昔どこも氷河で覆われていて,あちこちにフィヨルドがあるのだそうだ.尤もここが最南端ではあるようだが.
で,コトルに行くに,バスは一番内側の湾を正直に回るのと湾入り口,水道部をフェリーで渡る手があって,後者のルートが選ばれた.フェリーの待ち時間等で変わるが,最大で40分短縮できるそうだ.写真はフェリーから眺めた対岸の風景,穏やかな海面すれすれに建つ建物が津波や大波が来ないことを物語っているように思う.
フェリーを降りてバスは南東に暫く走った.やがて第3の湾の最奥にさしかかると,前面が湾,背後が山に挟まれたコトルの港と街が見えてきた.いい眺めだ.実際コトルはじめ,周辺の街はその美しい自然環境とともにあり,GDPの2割を占めるという観光業の主要観光地の一つとなっているそうである.
下は,モンテネグロに行くとき,それと夜戻るときの写真
コトルの駐車場に到着し降り立つと,身長2m,サッカー大好きと云う大男のガイドさんが待っていてくれた.そして直ぐ目に前にお堀と迫力の城壁が立ちはだかっていた.城壁は急峻な山の上まで連なっている.城壁の脇に見える黒く丸いドームを持つ建物は後に訪れる予定の聖ニコラス教会かな......? はっきりとは判らないながら,先ずはキリスト教の城塞都市と云った印象を抱かせる.それにしても背後の山は黒いとは言わないまでも岩山で,日本の町や村近くの里山とは随分違ってシビアな感じだ.
正門であるという海の門をくぐるとそこはちょっとした空間があり,「武器の広場」と名付けられているようである.実際この一画には軒先に大砲を並べMUSEUMの名を掲げた博物館があった.広場が先か博物館が先か不明だが.
コトル旧市街はさして広くはないがこの広場の周りには大切な機関があったようだ.一つは目の前の1602年建立,ルネサンス式4層構造というコトルシンボルの時計塔だ.時計自体の歴史もさることながら,この広場は公開裁判の場であり,また有罪となった罪人は時計の下の四角錐晒し台に罪状を記した板と共に括りつけられ,数日間晒された,ということだ.なおこうした晒し台はここコトルに限られす,その前に訪れたドブロヴニクなど含め周辺では一般的なことだったようであるし,時代劇で江戸の晒し場シーンなど見かけることもあろう.
広場の右側にモンテネグロ郵便コトル局があった.建物の一階部分だけで規模はあまり大きくはないようだ.玄関脇には黄色いポストと,ちょっと変わった公衆電話があった.トラックボール付きキーボードと大きなLCDパネルを備えており,多分eメール送受信できるようになっているのであろう.ただ普通のケイタイがより手軽で便利なためか,近くに立っていた限りこの公衆電話を使っている人は見かけなかった.
コトルで最も有名とされる元々は809年,その後1166年ロマネスク様式での建立,コトルの守護聖人トリフォン(またはトリプン)を祀ったカトリック教会という.聖トリフォンは3世紀の人で,ワインなどとも関わりがあるらしい.教会には2つの鐘楼があり,右側には時計が付いており,屋根上の十字架は,よく見かける普通のカトリック十字である.左には建立年の「809」が,右には1200周年記念の「2009」のプレートが嵌めこまれている.アドリア海沿岸も地震多発地帯のようで,つい最近1979年にも大地震に見舞われ,大きな被害を被ったが何とか修復したそうだ.
正面のファサードにはかなり広い軒下があり,近所の子がバドミントンを楽しんでいた.教会が日常に溶け込んだ存在のようで信徒でなくても安堵できる光景だ.
背後に聳える灰色の岩山は標高1749mというロブツェン山の一部であるようだ.
教会広場にある小さい方,ロマネスク様式の教会で,前記聖堂から少し遅れる1195年に,やはりカトリック教会として建立されたそうだ.ただそれが17世紀半ばになると,多分政治的支配権のせいであろうが正教徒の教会に変わっていったという.ただカトリックも完全に排除するという訳ではなく,19世紀まで両者の祭壇が共存していたとも言われるようだ.なお聖トリフォン大聖堂が大被害を受けた過去2度の大地震(1667年と1979年)に耐えたそうであるから頑丈な造りなのであろう.
「聖ルカ」と言えば日本でも例えば「聖路加病院」とか「ルカ伝」など名前だけは聞いたことがあるが,果たしてどのような人であるか私は殆ど知っていない.で,改めてWikiで引いてみると,ルカは新約聖書の『ルカによる福音書』および『使徒行伝』の著者とされる人物.聖人の概念を持つ全ての教派で,聖人として崇敬されている.......西方世界では医者および画家の守護聖人とされる....と載っていた.
素人目にも屋根上の十字架,『き』のようなデザインが東方教会系であることを窺わせている.セルビア正教教会だそうで,1909年建立と新しい.ただいきなり建てられたという訳ではなく,以前在った教会が19世紀末に火災で焼失し,その跡地に10年もの月日を費やして再建されたということだ.東方教会に相応しく(新)ビザンティン様式であるそうだが,上述のカトリックの聖トリフォン大聖堂との違いが,十字架のデザイン以外よく判らないのが悲しい.どちらも2つの鐘楼があるし.....
ところで聖ニコラス(Sint Nicolas)は日本語のサンタクロースと同一人物らしい.でその方は270年頃の生まれのキリスト教司教にして神学者,弱い者を助けた話,信仰の弱い者を教えて真理を守らせた話が数多く残っているそうである.私たちには専らクリスマスでプレゼントを運んで下さる方として馴染み深い.
コトル旧市街もまた中世の雰囲気だ.例えば美しい石で覆われた狭い路地の石畳はとても美しく,落ち着いている.この街は1979年『コトル地方の歴史的建造物と自然(Natural and Culturo-Historical Region of Kotor)』としてユネスコ世界遺産(文化遺産)に指定されているが,もっともだと納得させられる.
下は,コトルのいろいろな写真
コトル見物を終えると再びバスに乗り,フェリーで入江を横切りアドリア海岸沿いを北上し,ドブロヴニクに戻り宿泊した.次の朝はボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルに向かう予定だ.