モスタルMostar

このモスタル編では,ドブロヴニクからボスニアヘルツェゴビナのモスタルへ行く途中の風景,モスタルの聖ペーター教会,ボスニアヘルツェゴビナ紛争の傷跡,スタリモスト橋,モスタル旧市街,モスタルを出て北に向うときの写真とキャプションを載せました.

モスタルへgo to Mostar

モスタルへ行く途中のネレトヴァ川

ネレトヴァ川

2月19日朝ドブロヴニクのホテルを発って海岸に沿って北上した.暫くするとボスニア・ヘルツェゴビナとの国境に至り,程なく往きでも寄ったネウムとなる.ここで少し休憩の後なおも北に行くと,そのまま進めばクロアチアに入り,右折すればヘルツェゴビナのモスタルに至る交差点(いや三叉路だったか?)となる.ガイドKさんのお話で,タイトルは思い出せないが内戦時代を描いた映画で,どちらに折れるで運命の分かれ目となる比喩的な場所として描かれているそうだ.

さて私たちのバスは右折し,モスタルへと向かった.ほどなく満々と水をたたえた川に出合う.ネレトヴァ川と呼ばれ,モスタルまで連なるヘルツェゴビナの代表的な川だという.この先岩山ばかりのヘルツェゴビナにあって,この河口近くだけはオレンジやブドウなどの畑が広がっている.ネレトヴァ川はその畑の灌漑に大いに貢献しているようである.


モスタルへ行く途中のイスラムモスク

イスラムモスクが見えてくる

これまでスロベニア,クロアチア,それとモンテネグロでもキリスト教会は数多く眺めてきたが,イスラムのモスクはあまり見かけなかった.それがヘルツェゴビナ(ボスニアヘルツェゴビナの南側の地方)に入るとミナレットに丸いドームのモスクを車窓からときどき見かけるようになった.イスラムの国に入ったんだな~と認識を新たにする.

目指すモスタルで案内してくれたガイド男性の話では,ボスニアヘルツェゴビナ全体では国民の70%がイスラム教徒(モスタルでは50%)と云う説明があった.他の資料を見ると,ボスニアヘルツェゴビナの民族と宗教は強く関連し,大まかにはボシュニャク人(48%:イスラム),セルビア人(37%:正教会),クロアチア人(14%:カトリック)の分布のようで,多少違いがある.分布で見ると,北中部のボスニア地方は比較的イスラムが多く,モスタルなどこの辺りヘルツェゴビナ地方はかなり3民族混在しているようである.


下は,モスタルへ行く途中風景

モスタルへ行く途中の眺め
モスタルへ行く途中の眺め モスタルへ行く途中の眺め モスタルへ行く途中の眺め モスタルへ行く途中の眺め

モスタルMostar

モスタルの航空写真

11時頃バスはモスタルに到着した.駐車場脇の一般的な集合住宅ですら銃弾の跡が生々しく残っていることに改めて衝撃を受ける.

上は歩いた辺りGoogle マップで,1は聖ペーター教会,2は紛争時勢力対立の境界となった通り,3はスタリモスト橋,4はコスキ・メフメッドパサモスク


モスタルの聖ペーター教会(Catholic Church St. Peter and Paul)

聖ペーター教会
Catholic Church St. Peter and Paul

モスタルにおけるカトリックの歴史として,1533年に最初のフランシスコ修道院,そうドブロヴニクで訪れたあの修道院の系統,が建立されたそうだ.だが16世紀末頃オスマントルコに攻め入られ,破壊されたそうである.そのため暫くカトリックは自分たちの教会を持てなかったが,ようやく1847年に聖ペーター教会を建立するに至ったそうだ.そして教区の司祭と修道士の本部がそこに置かれたようである.なお現在の建物はかなり新しそうであるので,ボスニアヘルツェゴビナ紛争若しくはそれ以前に破壊され,建て直されたのであろうか....確かめなかったが.


ボスニアヘルツェゴビナ紛争時クロアチア勢力側/ボスニアヘルツェゴビナ勢力対立の境界となった通り

ボスニアヘルツェゴビナ紛争で対立境界となった通り

ネレトヴァ川から少し西に行ったところを走っている道路だ.紛争当時これを境界として西側は主にクロアチア系カトリック民兵(セルビア人勢力とも同盟)が抑え,東側がボシュニャク人イスラム勢力が支配し,互いに攻防を繰り返した場所という.

写真の建物に残された無数の銃弾の跡には言葉を失ってしまう.紛争が収まった後,多くの建物は修復されたが一部は資金面で,また一部は負の遺産として残されているそうだ.


クロアチア勢力側に破壊され,最近再建されたスタリモスト橋(Stari Most/Old Bridge)

最近再建されたスタリモスト橋
Stari Most/Old Bridge

世界遺産『モスタル旧市街の古い橋の地区』として知られるモスタルのランドマーク,それどころかモスタルの名自体がこのMost(橋)に由来するそうだ.蒼い流れのネレトヴァ川に架かるこのアーチ型の橋は1557年スレイマン1世の命で,ミマールハイルッディン(Mimar Hayruddin)という建築家が1557年に着工,9年間費やし1566年に完成したそうである.

橋はボスニアヘルツェゴビナ紛争中の1993年にクロアチア系カトリック民兵によって完全に破壊されたそうだ.後,一応紛争が片付いた頃復興計画が持ち上がり,2004年復旧したそうである.2005年のユネスコ世界遺産登録はボスニアヘルツェゴビナ初のことだったそうだ.

なかなかユニークなデザインできれいだが,歩くところもかなりの傾斜があり実用上は必ずしも優れているとは思えない.だが,ありふれた橋であれば殺してしまう,と予め設計者には宣告されていたためと聞かされれば已むを得まい.竣工式当日の朝,ミマールハイルッディンさんは予め自分の棺を用意して式に臨んだという話は涙なしでは聞けない.無事であって何よりだった.逆に優れた建築家や技術者故に,完成した暁に,他所への技術流出を恐れられて殺害されるケース,例えばタージマハルの建築家など,不条理なことも起こり,そんなことにもならず良かったと思う.


モスタルの石橋クリヴァ・ツプリヤ(Kriva Cuprija)

モスタルの石橋クリヴァツプリヤ
Kriva Cuprija/Crooked Bridge

ネレトヴァ川に西側から流れこむ支流に架かっていた石橋.上述のスタリモスト橋にとてもよく似ており,小型ながら殆ど相似形に見える.スタリモスト橋建設に先駆けてプロトタイプとして建設されたと云う説があるそうだ.でも完成年は1566年というからスタリモストと同じではないか?すると工法を含めて少しだけ先行させるパイロット的プロトタイプか?

この辺りには住宅やモスク,それにホテルのような建物が多く見える.なかなかいい所だ.


コスキ・メフメッドパサモスク<br>Koski Mehmed pasa Mosque

コスキ・メフメッドパサモスク
Koski Mehmed pasa Mosque

1617年建立というコスキメフメドパサモスク(Koski Mehmed pasa Mosque)はネレトヴァ川の畔(左岸)に立ちスタリモスト橋からよく見える.ミナレット一本で比較的シンプルな造りに見える.

その右手にもやはりミナレット一本のモスクが見えるが,カラジョスベグモスク(Karadzozbeg mosque)と呼ばれるようだ.このようにモスタルにはモスクが目立つが,紛争時には相当破壊されたであろうし,それ以前ユーゴスラビア連邦人民共和国時代,宗教が抑圧された時代を経て今なお多く残っていることに感心する.


モスタルの大きな実用橋

大きな実用橋

上のマップでスタリモスト橋の南に大きな橋が架けられているのが見える.名前は不明だが,ネレトヴァ川両岸い跨るモスタルの街を繋ぐ,車が往来する実用の橋であろう.モスタルは観光地としても有名であるが,アルミニュウム生産,金属加工業,農業,石材加工....などが盛んで,また空軍基地,重要な軍事工場も多いそうだ.で,道路や橋は重要であろう,もちろん.またボスニアヘルツェゴビナ紛争の主戦場の一つとなったモスタルはそうした産業の奪い合いといった要素も絡んでいたようだ.


下は,モスタルのいろいろな写真

モスタルでの眺め
モスタルでの眺め モスタルでの眺め モスタルでの眺め モスタルでの眺め モスタルでの眺め モスタルでの眺め モスタルでの眺め
モスタルでの眺め モスタルでの眺め モスタルでの眺め モスタルでの眺め モスタルでの眺め モスタルでの眺め モスタルでの眺め

モスタル旧市街(the old town of Mostar)

モスタル旧市街(the old town of Mostar)

訪れた場所はほぼ旧市街だけ,したがって載せた写真も殆ど旧市街だ.上のマップで,マーカーR,紛争時対立の境界となった通りから,Bのスタリモスト橋,それを越えてMのコスキ・メフメッドパサモスクの先までは少なくとも旧市街だと思う,明らかにそのような雰囲気だ.冬のこの季節でも観光客が多く,これまで通過してきた中で特に著名なドブロヴニク辺りより多い気がする.

旧市街は元を質せばオスマントルコ帝国の時代に遡るであろう.モスクのみならず,ハマムなどはもちろんであるが,他色々な建築物のデザインにその面影を垣間見る気がする.オスマントルコに侵略されたときからつい最近のボスニア紛争まで苦難の歴史であったであろうし,その後遺症で現在の失業率も信じられないほど高いようである.ただ単に通り過ぎる観光客から見ると殺伐とした感じは受けず,暗い感じも抱かない.私たちにはありがたいし,ぜひとも回復して欲しいものだと思う.


モスタルはイスラムの国でもある

イスラムの国でもある

モスタルはボスニア・ヘルツェゴビナの中でも知られた観光地,国内からも海外からも観光客が多いそうで,実際歩いているとそのように感じる.スカーフで髪を覆った観光客もしばしば見かける.多分イスラムが約半数(或いは70%)を占めるという国内の人たちであろう.アラビアや中央アジアでなく,どちらかと言うとヨーロッパでイスラムスカーフの人たちに出会う経験はあまりなかったので少し驚いた.でもこの人達のようにスカーフの人も,そうでない人,多分クリスチャンの人も手を繋いで歩む姿は大変喜ばしい光景に映る.これからこの街も,旧ユーゴスラビアのどこでもぜひこうあって欲しいと思った.


モスタルのガイドさん

モスタルのガイドさん

この人も巨人のように大きい.モスタルに生まれ,29年間ず~っとここに住んでいるそうだ.ご自身はイスラムであるそうだが,案内は当然客観的公平である.失業率の高い中でガイドの職を得て良かったと思う.

このガイドさんに,街ではスカーフの女性が少ないですね~?と訊いてみた.するとここ旧市街住民はイスラム教徒が多いが,スカーフ着用は個人の自由で着けていない人が多い,ということだった.私は,着けている人は殆どいないな~という実感を持ったし,自由な方がいいに決まっていると思う,もちろん.


モスタルでシシケバブを作ってくれた調理人さん

シシケバブを作ってくれた調理人さん

旧市街のレストランシシケバブの昼食を頂戴した.ケバブと言えばやはりイスラム圏の香りだ(←固定観念かも).肉は一般にマトンやビーフが多いが,ここではビーフ挽肉で,スパイスも適度で美味しかった.シャンパンのように大げさなリンク式栓のビールも普通に美味しかった.

食べた後,調理場を覗いて「ごちそうさま!」と言ったら,「こうして作るのよ」と,挽肉を鉄板に転して見せてポーズをとってくれた.


下は,もっとモスタル旧市街での眺め

モスタルでの眺め
モスタル旧市街での眺め モスタル旧市街での眺め モスタル旧市街での眺め モスタル旧市街での眺め モスタル旧市街での眺め モスタル旧市街での眺め モスタル旧市街での眺め
モスタル旧市街での眺め モスタル旧市街での眺め モスタル旧市街での眺め モスタル旧市街での眺め モスタル旧市街での眺め モスタル旧市街での眺め モスタル旧市街での眺め

最初の一枚,ちょっと小さいが家の前に「SOBE(Zimmer/Rooms)=部屋あります」の看板が出ている.有名な観光地だけに民宿のような部屋貸しが多いようである.

モスタルの北north of Mostar

丘から眺めたモスタル全体

丘から眺めたモスタル全体

モスタル旧市街の観光を終えて,再びバスは北へ向けて走りだした.新市街のエリアに入りプラタナス並木の美しい通りを抜け,大きなキリスト教会の脇を越えて高度を上げていった.やがて丘に出ると,たった今通って来たモスタルの街が盆地の底に貼りついている様子が一目瞭然だった.やはり面積的には新市街が圧倒的に広いようである.

背後東側の雪山はボティン山(Botin/1,967m)のようである.モスタル自体の標高は100m程度のようであるから標高差はかなりある.ここより少し北に位置し,ボスニアヘルツェゴビナの首都サラエボでは内戦前の1984年冬季オリンピックが開催されたことがあったが,このボティン山辺りでもスキーを楽しむことができるようである.また雪のない季節の山歩きにも良さそうだ.


モスタルの北,ヘルツェゴビナ地方の農家

ヘルツェゴビナ地方の農家

山は岩山,広々した土地も多いが,概ね岩石状で耕作できる場所が少ない印象だ.たまに土のある場所があるとすかさず畑として耕され村が形成された様子が想像できる.最近のことではなく,数百年以上昔から徐々にであろうが.

ボスニアヘルツェゴビナはオスマン帝国支配の時代から農業に大きく依存し,旧ユーゴスラビア域内では比較的貧困な地域とされ,農産物は豆,タバコ,ザクロ,ぶどう,オリーブ などが多いようである.


モスタルの北,典型的岩山

典型的岩山

このような岩山が圧倒的に多い.それでも麓に農家が在るのは牧草など幾らかの作物ができるからであろう....と想像.でも家畜はあまり見かけないし.....違うかな.....そこであちこち捲ってみたら,山が多く畑が少ない分,山の斜面を利用した牧畜業,酪農業が盛ん,チーズやヨーグルト,牛肉,鳥肉など豊富.牧畜と農業を組み合わせた理想的な有機農業もある,などの記事が見られた.


下は,モスタルの北エリアの写真

モスタルの北での眺め
モスタルの北での眺め モスタルの北での眺め モスタルの北での眺め モスタルの北での眺め モスタルの北での眺め モスタルの北での眺め モスタルの北での眺め
モスタルの北での眺め モスタルの北での眺め モスタルの北での眺め モスタルの北での眺め モスタルの北での眺め モスタルの北での眺め モスタルの北での眺め

こうして途中休憩を挟みながらボスニアヘルツェゴビナを抜けて,またクロアチアに至り,夜も更けた頃次の観光地プリトヴィッツェへと入っていった.



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