敦煌Dunhuang

この敦煌編では柳園へ行く時,西千仏洞,陽関,漢長城,玉門関,敦煌の街の写真とキャプションを載せました.

列車で柳園へgo to Liuyuan by train

トルファンより柳園への列車に乗る

トルファンより柳園への列車に乗る

盆暮れでもないのに混雑しているトルファン駅待合室は喧騒の嵐のようだ.改札口は我先に乗り込まんと押し合っている.ここでも軍人は優先,フリーパスのようで,そうした混乱の中を悠然とホームに入って行く.

ホームに出て暫く待つと列車が入ってきて,私たちはウイグルのガイドOさんに別れを告げ,4人コンパートメントの寝台車に乗り込んだ.午後11時,定刻より5~6分速く列車は走り始めた.定刻前に出発するとは理解しがたいし,こういう馬鹿げた運行が,客の押し合いへし合いを誘発しているのであろう.外は暗くて見えないし,2階のベッドに上り,転げ落ちないようにしっかりと手摺りを握って眠りに就いた.


翌朝柳園駅に到着

翌朝柳園駅に到着

朝7時半頃,列車はほぼ定刻に甘粛省の柳園駅に到着した.柳園駅ホームに降り立つとひんやりし,Tシャツの上に1枚羽織った.標高1700mくらいだそうだから海抜0mのトルファンより10℃位低いであろう.

駅では甘粛省のガイドMr.Nさんが待っていてくれていた.どうぞよろしく.そして改札を過ぎ,駅前広場へ出た.中国の一般的な田舎町の光景のように見えた.とりあえず駅前の食堂,その名も鉄道飯店だそうだ,に入り,質素な朝食を頂戴し,敦煌観光会社のバスに乗り込み,敦煌の方角へと走り始めた.

途中の光景の多くはゴビ灘で,たまに羊の群れや,ラクダを見かける.タマリスク(Tamarisk/紅柳)やトゲトゲのラクダ草など乾燥に強い植物が生えているのだ.なおラクダはラクダ草を必ずしも好んで食べるのではなく,他に無いので仕方なく食べるのだと,早速Nさんの解説があった.


下は,柳園へ行く時と柳園近郷の写真

柳園へ行く時と柳園近郷での眺め
柳園へ行く時と柳園近郷での眺め 柳園へ行く時と柳園近郷での眺め 柳園へ行く時と柳園近郷での眺め 柳園へ行く時と柳園近郷での眺め 柳園へ行く時と柳園近郷での眺め 柳園へ行く時と柳園近郷での眺め 柳園へ行く時と柳園近郷での眺め 柳園へ行く時と柳園近郷での眺め

西千仏洞West Qianfu Cave

西千仏洞

西千仏洞に至る

柳園からバスで暫くゴビ灘を相当走り,西千仏洞に着いた.柳園より大分標高が低くなり800mくらいのようだ.昼近くになったこともあり,暑くなった.西千仏洞はゴビ灘の中,20mもの深い所を流れる河があって,その河の断崖に抉られた多数の窟から成っている.場違いに豊かな水の流れが木や草を育み,遠くに小高い茶色の丘を望む風景もなかなかいいと思う.

ここでは学芸員の方が一つ一つの窟の鍵を開け閉めしながら第3~4(繋がっている),第6,第7の各窟を順次巡り説明してくれた.またそれをガイドNさんが日本語にしてくれた.Nさんご自身仏教徒で,しかも以前莫高窟で仕事をしていたそうで仏教美術には大変お詳しい.なお敦煌では現在も80%の住民は仏教徒だと聞き,大いに驚いた.

西千仏洞は,周りにコンビニも何もない水を買うにも事欠く僻地に在って,来るのが大変だ.そんな訳で観光客は多くないのであろう,私たちが居る間他の客は全く見かけなかった.落ち着いて見物できるので空いているのは結構目玉だと思う.


西千仏洞の壁画

窟内の撮影は禁止である.その代わり(?)に張学栄主編「敦煌西千仏洞石窟」(50元)という写真集が売られていた.この中から一部転載させてもらった.

見た中で左上の第3,4窟前室天井の飛天は唐を4つの時代に分けたうちの2番目,盛唐時代(712年~)の「供物を持った飛天」と題される壁画であるが,飛天(天女)の一般的概念からするととても豊満な感じで,果たして離陸可能か?と疑ってしまう.唐の時代はこうしたふくよかが最高の美とされていたそうだ.アート的には肌色などよく保存され,なかなかいいと思う.

↓第3,4窟前室天井の飛天(盛唐時代)↓第3窟の壁画(盛唐時代)
第3,4窟前室天井の飛天(盛唐時代)第3窟の壁画(盛唐時代)
第6窟後壁の釈迦多宝並坐説法図(北周時代)第7窟中心柱正面(北周時代)
↑第6窟の釈迦多宝並坐説法図(北周時代)↑第7窟中心柱正面(北周時代)

左下の説法図などではお釈迦様の顔が黒くなっている.元は肌色だったものが顔料に鉛が含まれていたため黒くなったそうだ.また目や鼻に白い線が引かれているが,立体感を表現する手法だそうだ.ベースが黒く変色しているのでシンボル的に見えるが,本来の肌色であれば自然な感じに見えるのかも知れない.

壁画の他に塑像も多く見た.木で骨組みし,藁などでラフな形を造り,粘土で最終的な外形を整え,そこに顔料で彩色する,という造りだそうである.モチーフとしては仏像や羅漢像など多かったように思う.

なお各々の窟は供養者と呼ばれるスポンサー(寄進者)に依って掘られ,原則としてその窟にお参りで訪れるのはその人の家族(とその家担当のお坊さん)だけだったのだそうだ.窟を掘り,壁画を描き,仏像を据えるには大変なお金が掛かるので,供養者は必然的に貴族や豪商など資金の豊富な人に限られたそうだ.これは西千仏洞に限らず,この先見物する莫高窟,楡林窟,またトルファンのベゼクリク千仏洞など皆そういう慣わしということだ.では庶民はこうした場所には行けなかったのか?数は少なく,観光客向きではないが,ごく質素な窟もあるそうで,庶民なりに信仰を保っていたということだった.なお供養者やその家族の絵や名前など窟入口辺りにしばしば描かれている.仏でなく,当時の普通の人の顔付き(場合によっては唐時代のお多福顔など願望含めて)や装束が解りなかなか興味深いと思う.


下は,西千仏洞付近のいろいろな写真.最初の1枚はソーラーパネルを並べた発電所.

西千仏洞付近での眺め
西千仏洞付近での眺め 西千仏洞付近での眺め 西千仏洞付近での眺め 西千仏洞付近での眺め 西千仏洞付近での眺め 西千仏洞付近での眺め

西千仏洞のある崖は砂岩が主なようで崩れ易く,現に窟入り口付近はかなり侵食されているようだ.観光客に開放してある窟と回廊はこれ以上侵食が進まないようにコンクリートで固めてある.

陽関Yangguan Pass

陽関入り口

陽関入り口

陽関は2200年前,漢の武帝によって造られた西域南道へと続く関所だそうだ.この入口門を含めて殆どレプリカで本物は下写真の烽火台しか残っていないようだ.陽関の名はこの後見物予定の玉門関の南(陽)にあることから名付けられたらしい.

写真の入り口前には往時の武器,これもレプリカだが,が並んでいる.一番左のものは大きな矢尻状の突き具で,城門など打ち破る武器,その右は城門など乗り越えるための手動エレベータ,そのまた右は投石器だったか?まあ,関所も敵を知らずして防御できないわけで,これらの武器に対して大丈夫なだけの砦を築いたのであろう.


陽関の狼煙台

陽関の狼煙台

版築工法で築かれた本物の狼煙台だそうだ.この辺りで周りを見渡すと所々にオアシスがあるが,基本的にはどこまでもゴビ灘で視界を遮るものはない.狼煙は遠くまで伝わったであろう.尤も関所とは言っても,漢の西域への扉,シルクロードの真っ只中であって交易に携わる人々で賑わう町だったようだ.ただここに派遣される中央政府の役人,兵士にとってはやはり大変な辺境の地で,ゴビ灘を眺めては寂しく,悲しんだという話はよく判る.

著しく文学的嗜みを欠く私だが,ガイドNさんが相当良く知られた詩だというのを吟じてくれた.それは李白や杜甫と並び,同時期,盛唐の詩人,王維さんが,トルファンの交河故城に出張する知人を長安の西で見送った際の詩だそうだ.最後の一節を日本語にすると「西の外れ陽関を出ずればもう知る人は誰も居ない」と云った意味になるそうだ.つまり陽関はほんとの外れ,さらにその先のとんでもない所に赴くことに対する深い同情の詩と解釈した(正しい解釈は不明).


下は,陽関あちこちの写真

陽関での眺め
陽関での眺め 陽関での眺め 陽関での眺め 陽関での眺め 陽関での眺め 陽関での眺め
陽関での眺め 陽関での眺め 陽関での眺め 陽関での眺め 陽関での眺め 陽関での眺め

漢長城Han Chang Cheng

漢長城,現存する万里の長城の最西端

現存する万里の長城の最西端

漢長城はこの後行く玉門関から西に伸びた城壁の跡だそうだ.普通万里の長城の西端は敦煌の東にあって,3日後に行く予定の嘉峪関とされるが,実際は敦煌のこんな所まで伸びていた訳だ.中国では探せばどんどん古いものが見つかるのであろう.一般的に万里の長城は秦の時代に築城が始まったそうだが,ここは少し後の漢代に築かれたそうである.芦と土とを交互に重ね合わせながら突き固めた版築工法で造られたようだが,かなり風化しながらもその層構造がよく見える.

漢の時代の外敵は主に匈奴(まあひどい文字を充てたものだ.倭国もそうだがやはり中華思想だな)であったようだ.匈奴は紀元前4世紀頃から中央アジアに存在した遊牧民族で,一大勢力を築いていたようだ.ただ文字が無かったので,後世に残ったのは専ら中国側の資料となったのは痛いかも知れない.


下は,漢長城の写真

漢長城の写真
漢長城の写真 漢長城の写真 漢長城の写真 漢長城の写真

玉門関Yumen Pass

現存する玉門関

現存する玉門関

上で述べた陽関が西域南道へと続く関所であったのに対し,こちら玉門関は天山南路へ通ずる関門であったそうだ.陽関と同じ頃やはり版築工法で築かれ,シルクロードの交易品取引の場であったようだ.現在も残る大きな四角い城壁の内側(立ち入り禁止)の一部は,ここを守る2000人もの屯田兵の食物倉庫に充てられていたそうだ.

シルクロードとして往来の盛んだった明代半ばまで長く栄えたようであるが,16世紀海路が開かれると危険いっぱいのシルクロードは急激に廃れ,他の宿場同様ここも打ち捨てられていったようだ.

ところでシルクロードの交易品はどのようなものがあったのであろう?中国側はもちろんシルクが一番であったであろう.シルクはローマ帝国の貴族たちにとっても大変贅沢で貴重なものだったそうだ.他にも陶磁器,香料,お茶,漆器,紙などがいろいろ輸出されたようだ.西域から来るものはラピスラズリや玉など宝石類,ガラス製品,銀製品,絨毯,陶器などが多かったそうである.シルクロードの自然が生半可な厳しさでないことに加え,どちらに向かう商品も貴重な宝物であるから,これを虎視眈々と狙う山賊は後を絶たず,大変であったであろう.


下は,玉門関の写真

玉門関での眺め
玉門関での眺め 玉門関での眺め 玉門関での眺め 玉門関での眺め 玉門関での眺め

敦煌の街the city of Dunhuang

敦煌の街並み

敦煌の街並み

観光が大切な産業となっている敦煌は小さいながら比較的整備された街に見える.写真のように敦煌のシンボルキャラクター飛天(背にした琵琶を弾いている,反弾琵琶)や花で飾られているところも見かける.街は拡大しており,鉄道や道路の伸張工事で他からの流入人口も多いそうだ.その人達は一般に収入が多いため,新しい分譲集合住宅も売れているそうである.また農村の人たちもブドウや綿花栽培で収入が多く,農閑期を過ごす敦煌市街の集合住宅を保有している農家も結構多いそうだ.と,ガイドNさん羨むこと頻りだ.


堂々と公道に建つ敦煌賓館の広告門

一ホテルの広告門が堂々と公道に

敦煌賓館の前の大通りに建つ同ホテルの広告門.立派な門だが広告以外の機能,例えば歩道橋などの機能は全く無いようだ.なかなか寛大な条例があるようだ.


下は,敦煌のホテル周辺の写真

敦煌の街の写真
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終わりの写真は新しい敦煌駅.現在青蔵鉄道ゴルムドまでの延長工事が進行中だそうである.



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