酒泉Jiuquan

この酒泉編では魏晋壁画墓,酒泉の街,酒泉公園,鐘鼓楼の写真とキャプションを載せました.

魏晋壁画墓Weijin Tomb

ゴビ灘の魏晋壁画墓

魏晋壁画墓はゴビ灘の中

嘉峪関を見物した後,さして遠くないゴビ灘地下に眠る魏晋壁画墓にやって来た.写真のような盛土の下が地下墓地となっている.小山は数個程度見えたと思うが,墓地そのものは1400室位あるそうだ.その中で過去既に盗掘に遭った墓地を公開しているそうだ.あの慎重を期した筈だった高松塚古墳でさえ結構残念な状態になっている.で,無傷の墓地は今後の保存技術など見極めながら調査していくそうである.現在公開されている墓地は質素な管理小屋(写真中央)の階段から潜り込むようになっている.

で,魏晋時代とは後漢末期の黄巾の乱の頃から,三国志の時代を経て,隋が中国を再び統一する間の群雄割拠時代で,西暦184年-589年あたりになるようだ.見てきたトルファンでは交河故城の終わりごろ,アスターナ古墳の初め頃,高昌故城の頃,また敦煌莫高窟より古い時代となろう.

私たちは入った墓地は年間を通じて唯一公開されている6号墓で,地下に通じる階段と前室,中室,後室を結ぶ廊下はとても狭く,身を屈めて入った.部屋は石でドーム状に組まれ,周囲にレンガに農作業,狩猟,調理,家畜の放牧....などの大変親しみやすい壁画が描かれている.


甘粛省博物館の魏晋壁画墓出土展示品より

魏晋壁画墓は撮影禁止であったが,幸い4日後訪れた甘粛省博物館でここの出土品が展示されていた.博物館は撮影自由で,壁画の内容もほぼ同じように見えた.

↓狩猟の図↓クッキングの様子
狩猟の図クッキングの様子
農作業の図鋤で耕作
↑農作業の図↑鋤で耕作

普通こうした立派な墓は,とかく生前は戦争で覇権を競ってきたような人が多く,戦いの場面がよく絵のモチーフとなる.しかしここ魏晋壁画墓では争いのシーンは皆無で,平和な日常生活の図のみだと,ガイドNさんが頻りに解説してくれた.大変印象深い.やはり平和が一番だ.それに後漢以降,三国志の頃は,小説の影響か「いつも戦争」のイメージがあるのだが,中央から遠く離れたここ河西回廊辺りには及ばなかったのであろうか?

ここはとても狭く,大勢の観光客が入るには不向きだ.私たちと前後して年配の夫婦を含む数人の自国人パーティと入れ違った.年配者が居ることにほっとした.

酒泉の街the city of Jiuquan

酒泉の街

酒泉の街

魏晋壁画墓を見物した後,酒泉市街に入った.酒泉は郊外も合わすと100万人くらいの大きな都市だそうだ.鉱工業,観光業,風力や太陽光発電,宇宙開発....といった産業が盛んなようだ.

写真はホテル前の大通りだが,雨の少ないところにあっても立派な街路樹を育てていることに感心する.立派な道路だが交通量が多く,信号器のある横断歩道でもお巡りさんが張り付いて交通整理に当たっていた.歩行者には容赦ない中国で,特に私たちお上りさんにはありがたい.それと警笛は少なく,バイクも電気が多いので比較的静かかも知れない.


酒泉賓館

酒泉賓館と神舟

この日は今回の旅で最も立派という酒泉賓館での泊まりだった.中央政府要人も使うらしい.写真左端のミニバーに有人宇宙船「神舟」をかたどった酒瓶,白酒の一種か?が置いてあった.でも写真では,ちょっと良く見えない.....

酒泉市の内モンゴル自治区寄りには,酒泉衛星発射センターがあり,2003年10月15日,中国初の有人宇宙船,神舟5号を成功させて以来,何度か打ち上げているそうだ.海抜約1,000mと高い場所にあって砂漠性気候に属し,年間降水量は僅かで晴天が多く,ロケット打ち上げに適しているようだ.


酒泉道端のくじ引き屋さん

道端のくじ引き屋さん

道端でくじ引きを販売している.このお店の場合,銀色の塗料を剥がし,その下に現れる文字で当たり/外れが即時に判明するくじ,昔マックなどでよく配ってくれたやつだ.

もちろん合法で,結構大人が,いや全て大人の客が大真面目にやっている.中国にはパチンコは無さそうだし,それなりにハマる人もいるかも知れない.


下は,酒泉の街のいろいろな写真

酒泉の街での眺め
酒泉の街での眺め 酒泉の街での眺め 酒泉の街での眺め 酒泉の街での眺め 酒泉の街での眺め 酒泉の街での眺め 酒泉の街での眺め
酒泉の街での眺め 酒泉の街での眺め 酒泉の街での眺め 酒泉の街での眺め 酒泉の街での眺め 酒泉の街での眺め 酒泉の街での眺め

終わりの一枚は,酒泉賓館レストランで,酒泉に住まう少数民族,チベット族の皆さんがチベット歌謡を披露してくれている場面.

酒泉公園Jiuquan park

酒泉公園の眺め

酒泉公園の眺め

写真中央が酒泉の地名の元となった池のある公園.121年,漢の武帝の命で,将軍霍(写真背後の像)は匈奴征服に行き,大勝利を収め,武帝からご褒美に御酒を賜ったそうだ.霍将軍は,勝利は部下の力の結集結果であり,部下全員に御酒を振舞いたかった.しかし部下全員に行き渡らせるには必ずしも量が十分ではなかったそうな.そこで皆で掬って飲むべくお酒を泉の中に空けると,な,なんと地下から十分な量が湧き出て,将軍,兵士共々飲み放題に飲むことができたそうだ.めでたしめでたし.実にいい話だ.

園内には拡大した篆刻作品を並べた一画があった.酒泉とどういった関係か確かめなかったが金文や篆書のなかなか面白い作品が並んでいた.


下は,酒泉公園の写真

酒泉公園での眺め
酒泉公園での眺め 酒泉公園での眺め 酒泉公園での眺め 酒泉公園での眺め 酒泉公園での眺め 酒泉公園での眺め
酒泉公園での眺め 酒泉公園での眺め 酒泉公園での眺め 酒泉公園での眺め 酒泉公園での眺め 酒泉公園での眺め

鐘鼓楼the bell and drum tower in Jiuquan

鐘鼓楼東の正面

鐘鼓楼東の正面

酒泉の街に時を告げたこの鐘鼓楼は4世紀半ばに建てられ,清代に再建されたそうだ.一階部分は十字型の通路となっており,出口が東西南北に向く交差路になっている.青レンガの一階部分は中が土で満たされたように見えるなかなかどっしりした造りだ.


鐘鼓楼東西南北に架かる言葉

東西南北に架かる言葉

東西南北の門には4文字の言葉が刻まれ,これが有名なのだそうだ.写真は西の出口の例で,4方向並べると

東門:東迎華嶽=東に華山(長安の都のことだそうだ)を仰ぎ
南門:南望祁連=南に祁連山脈を望み
西門:西達伊吾=西に行けば伊吾(ウイグルのハミのことだそうだ)に達し
北門:北通砂漠=北に行けば砂漠に通ずる

と,力強い書が架けられていた.現在ならそれ程遠くないが,4世紀頃の河西回廊中程のこの辺りから,長安やハミはエラく遠かったであろう.酒泉の鐘鼓楼を有名にしたのはこの4つの言葉だそうだ.


現在の鐘鼓楼周辺

現在の鐘鼓楼周辺

往時の河西回廊とは全く様変わりし,車による大量輸送の今日になった.排気ガスがいっぱい,自転車で通る人のマスク姿もしばしば目にする.まあ中国に限ったことではないが,文明の進歩も何とか副作用を減らしながら....

こうして酒泉の観光を終わると,次は張掖へと向かった.



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