蘭州Lanzhou

この蘭州編では蘭州市街,甘粛省博物館,劉家峡ダム,炳霊寺石窟の写真とキャプションを載せました.

蘭州市街the city of Lanzhou

蘭州近くになり住宅様式が変わる

蘭州近くになり住宅様式が変わる

武威を出て烏鞘嶺を越えて,マッサージ路から新しい高速道路に入り,蘭州が近くなってきた.かなり驚いたのは住宅が変化したことだ.集合住宅はどこも変りないが,農家などの戸建て住宅はこれまで壁は日干しレンガ,屋根もそれに類する材料の造りが中心だった.それがこの辺りに来ると,壁は焼きレンガ,屋根は焼き瓦が傾斜を持たせた緩い曲面を描いた構造となっている.

背後の山を見ると樹木はあまり見られず,雨は依然として多いように見えないが実際はある程度降るのであろうか?とは言ってもやはり少ないようで,乾いた土地に懸命に植林の様子が,かなり広い範囲で行われている.この緑化に取り組む涙ぐましいほどの姿勢はとても感動的だ.

蘭州は97%が漢族で,残りを回族,湖族など少数民族が住まうそうで,街の中心部には大きなモスクも建てられていた.


蘭州の牛肉麺

蘭州の牛肉麺の麺打ち

蘭州名物という牛肉麺,若しくは牛肉ラーメンを,到着した晩清香閣という清真(イスラム)レストランで頂戴した.写真はそこのコックさんが練ったうどん粉を伸ばす技を見せているところだ.ガイドNさん(敦煌在住)によれば,牛肉麺を食べないのであれば,蘭州に来る意味がない,とまでの入れ込みようだ.しかもこのお店は回族経営の本格派で,格別だそうだ.でも,回族の本格イスラムレストランなのでビールは出して貰えない.この点同じイスラムでもウイグルのレストランは戒律に対して甘かった.

で,待望の牛肉麺が出てきて,口にしてみたが,皆一様に「牛肉が入ってない!」と,Nさんに抗議.すると,Nさん曰く,牛肉麺とは,もう(牛偏に毛という漢字)牛(ヤク/Yakのこと)の肉から採ったスープを用いたラーメンのことです,とのことだ.少なくとも私は,普通のラーメンに入っているチャーシューをビーフに置き換えたものと想像していた.多分他の人もそうだったと思う.まあ,美味しかったが.

ところであくる日の晩もまた別の清真レストランで牛肉麺だった.清真なので,この日もビールなしだね,と皆で諦めかけていたが,何とビール出してくれるという.このお店は一応イスラム料理店を看板にしているが,回族ではなく漢人経営なのでOKなのだという.まあ,出してくれる分には文句あるまい.一般にイスラム教徒は食肉の鮮度維持や衛生管理にシビアで,市民から信頼されており,そこでイスラム料理の看板を掲げる傾向も見られるということだった.な~るほど.なお,私たち団体ツアー客に対する協定料金なのであろうが,ビールはどこも大体30元(380円くらい)だった.


ホテルの窓から眺めた蘭州市街

ホテルの窓から眺めた蘭州の街

牛肉麺の後は錦江陽光酒店に入り,休んだ.大きな壁掛けTVやLAN端子が付いており,割と新しいホテルのようだ.明けて窓を開け,外を眺めると新旧いろいろな建物が建て込んでいた.蘭州は省都で地方からの人口流入が続いているという.多くは出稼ぎのような非恒久的住所変更扱いのようであるが.

市街地の先は山があり,山肌が恰も地図の等高線に沿うが如くストライプ状に緑が見える.懸命な植林事業の結果,若しくは現在進行の状況であろう.


蘭州市街を流れる黄河

黄河が流れ,河西回廊もここまでか

蘭州には黄河が流れている.名のように黄色もしくは茶色の流れだが,急流で土砂を含んでいるためだという.私たちの辿ってきた河西回廊の河西は,黄河の西の意だそうで,河西回廊もここ蘭州で終りとするのが正式かも知れない.天山南路へ通ずる玉門関,或いは西域南道に連なる陽関から1,000km程になるらしいが,それが直線距離なのか,または道路長なのかはよく判らない.何れにしてもよく走ったものだが,全てバスドライバのフーさんのお陰だ.


下は,蘭州入り口や市街の写真.大きなモスクや,郊外には工場も多く見える.

蘭州入り口や市街での眺め
蘭州入り口や市街での眺め 蘭州入り口や市街での眺め 蘭州入り口や市街での眺め 蘭州入り口や市街での眺め 蘭州入り口や市街での眺め 蘭州入り口や市街での眺め 蘭州入り口や市街での眺め
蘭州入り口や市街での眺め 蘭州入り口や市街での眺め 蘭州入り口や市街での眺め 蘭州入り口や市街での眺め 蘭州入り口や市街での眺め 蘭州入り口や市街での眺め 蘭州入り口や市街での眺め

甘粛省博物館Gansu Provincial Museum

甘粛省博物館外観

甘粛省博物館外観

1959年に創建され,2004年に再建されたそうだ.酒泉の魏晋壁画墓で見つかった壁画,武威の雷台漢墓から出土した銅奔馬(馬超龍雀)初め河西回廊で発見された文物が展示されている.他にも,太古の大型恐竜の骨格化石から,非常に古い時代の彩陶,西周(11世紀BC)時代の青銅器,前漢時代の竹簡,仏像など仏教美術品など,数々の展示が見られる.

これら常設展示場に加え,期間展示場も備え,訪問時は呉昌碩作品展示も行われていた.


銅奔馬(馬超龍雀)と馬車

これが超有名な銅奔馬(馬超龍雀)と馬車.この奔馬は西域(トルクメニスタン辺りか?)から中国に入ってきた「汗血馬」をモデルに創られたのではないかという見方が多いそうだ.汗血馬は世界にその名を轟かす名馬で,首の辺りからまるで血のような赤い汗を流し駆けると聞く.またその名馬を手に入れるため漢の武帝は中央アジアの国に何度も攻め入った話もよく聞く.まあ,凄い馬だった訳だ.

雷台漢墓出土の銅奔馬(馬超龍雀)雷台漢墓出土の馬車

なおこの博物館は撮影自由なのがありがたい.

彩陶,仏像,木簡,琵琶など

彩陶仏像(塑像)木簡
琵琶彩陶彩陶


恐竜化石,彩陶,青銅器,絵図,魏晋壁画,仏像,石棺,お経など

恐竜化石彩陶青銅器
絵図魏晋壁画彩陶
仏像石棺お経


呉昌碩金石書画展2011年

甘粛省博物館の展示室でたまたま呉昌碩金石書画展が開かれていた.呉昌碩は浙江省出身で特別甘粛省に縁ある訳ではなさそうだが,全国的いや海外まで良く知られた人で,ここで作品展が開催されたのであろう.以下展示の一部.

↓呉昌碩金石書画展入り口↓篆書
呉昌碩金石書画展入り口篆書
篆刻「老夫無味己多時」と側款篆刻「帰安施為章」と側款
↑篆刻「老夫無味己多時」と側款↑篆刻「帰安施為章」と側款

劉家峡ダムLiujiaxia Dam

劉家峡ダム

劉家峡ダム

蘭州市街から山道に入り,1時間半ほど走ったであろうか劉家峡ダムに到着した.ダムはチベットに源を発する黄河に架り,発電と灌漑などが目的で1967年の竣工だそうだ.この辺りで標高は約2000mで,ダム高さ147m,幅840m,5基の発電機で総出力122.5kWということだ.ここでの発電電力は蘭州の生活と工業発展に大いに貢献しているようだ.ダムが軍事的にも重要なのであまり近づくことは許されていない.

なお現胡錦涛国家主席は清華大学で水力工学を専攻,在学中に共産党に入党,いろいろ経緯あるも最初の赴任地がこの劉家峡ダムを管轄する機関だったそうだ.中国共産党のエラい人は,若い頃は大体辺境近くでいろいろ体験するようだ(*下に補足).

ことろでここに来る道すがら黄河三峡を掲げた立派な門があった.黄河三峡とはこれから向かう炳霊寺のある炳霊峡,それと劉家峡,塩鍋峡の三大峡谷で,何れも山水優美だそうだ.確かに炳霊寺近く辺りは桂林のような景観も見えて美しい.


劉家峡ダム湖の水は黄ではなく青

ダム湖の水は黄ではなく青

ダム湖で高速モーターボートに乗り,炳霊寺へ向けて走り始めた.軽く30km/hrはありそうな猛スピードだ.往きは波が少なく無事だったが,戻り時は波が出てきて,お尻がばんばんと持ち上げられ,シートに打ち落とされる.また窓から波飛沫が入り込むようになった.

で,何より驚いたのは水が青くきれいなことだ.黄河と言えば水は黄色に決まっていると思い込んでいたが,黄色いのは細かい土砂による混濁で,流れが緩やかな処では土砂が沈殿し,ごく普通のきれいな水になるのだそうだ.言われれば別に何でもないことのようだが,それでも目の当たりにしたときはやはり驚愕した.


下は,劉家峡ダムとその行程の写真

劉家峡ダム辺りでの眺め
劉家峡ダム辺りでの眺め 劉家峡ダム辺りでの眺め 劉家峡ダム辺りでの眺め 劉家峡ダム辺りでの眺め 劉家峡ダム辺りでの眺め 劉家峡ダム辺りでの眺め 劉家峡ダム辺りでの眺め
劉家峡ダム辺りでの眺め 劉家峡ダム辺りでの眺め 劉家峡ダム辺りでの眺め 劉家峡ダム辺りでの眺め 劉家峡ダム辺りでの眺め 劉家峡ダム辺りでの眺め 劉家峡ダム辺りでの眺め

*補足:中国共産党に関して,西安ガイドで,ず~と付いて廻ってくれたCさんに聞いた.

炳霊寺石窟the Bingling thousand buddha caves

炳霊寺石窟に到着

炳霊寺に到着

モーターボートで黄河を遡り,炳霊寺に到着した.先ずは写真右下,船上レストランで腹ごしらえし,陸に上がる.目の前の立派な建物(写真左上)が炳霊寺本堂かと思いきや,単なるお土産屋さんという.とすると上陸前に看板と共に見た崖中腹の小さな建物が本堂かな?

上陸後河に沿う参道を歩き始めると炳霊寺山門に来た.国内からの観光客が記念写真を撮っている脇を進むと,今は枯れているが,黄河に流れ込む筈の渓谷に至り,渓谷の左側(渓谷右岸になる)崖に穿たれたたくさんの窟が見えてきた.ただこの先は撮影禁止だ.窟が終わって,橋で対岸に渡ると撮影許可となる.


対岸からの炳霊寺石窟ショット

対岸からのショット

炳霊寺は4世紀末西秦の時代に開窟が始まり,元代にまで続き,総窟数は184に達するそうだ.

添乗Nさんの記録を読ませてもらうと,私たちは第4,6,8,10,11,14,70,82,125,171窟の順で説明を聞きながら巡ったのであるが.....さっぱり思い出せない.

対岸からの撮影は自由ということで撮ったのが右および下の写真.135mmレンズであるが,それなりに写っている.ただ私たちが説明を聞いた窟はあまり写っていなかった.それはそれとして,こうして塑像の仏像を見ると,一部扉を設けているがむき出しで,風雨に晒され放題なものも多い.今は空っぽな壁面棒刺し穴には,元は回廊や庇があって,彩色された仏像や壁画が保護されていたであろうが,それらが無くなり,仏像は殆ど土の肌が現れている.

も一つ,炳霊寺石窟の目玉と言われ,唐代建立の弥勒菩薩磨崖仏は生憎修復工事中でネットが掛かり,はっきりとは見えない....が,ほんのり見えている.高さが27mもあるそうで大きい.供養者(寄進者)は金成公主という八世紀唐代の女性だそうだ.公主と言えば文成公主が思い浮かぶが,彼女同様金成公主もまた唐からチベットへ嫁いだ人のようだ.

炳霊寺の涅槃仏

炳霊寺の涅槃仏

対岸に渡った先に第16窟と呼ばれる建物があり,ここに大仏様が横たわっていた.北魏時代に造られ涅槃仏で丈が8.6mあるという.元々別の川(黄河かこの窟のある渓谷か聞き漏らした)近くに在ったのだが,水位が上がり水没の恐れが出てきたため,10年ほど前,ここに引っ越したのだそうである.引越すときは一旦数個に分割切断し,移送後また繋ぎ合わせたそうである.この引越しには日本の専門家も加わり,日中合同作業だったそうだ.

で,肝腎の見た感じであるが,仏さまと言うより,ごく身近なその辺のオジさん的和やかな顔立ちが印象的だ.

またこの左岸の近くには炳霊寺文物陳列館もあって,相当後世の仏像など展示されていた.


下は,炳霊寺石窟の写真

炳霊寺石窟の写真
炳霊寺石窟の写真 炳霊寺石窟の写真 炳霊寺石窟の写真 炳霊寺石窟の写真 炳霊寺石窟の写真 炳霊寺石窟の写真 炳霊寺石窟の写真
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こうしてよく覚えていないながらも炳霊寺石窟を存分に眺め,再びボートで猛スピードで黄河を下り,バスで山を下り,蘭州の街に戻った.



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