西安(後半)Xian(2)

この西安(後半)編では絲綢之路起点群像,碑林博物館,華清池,兵馬傭博物館,秦始皇帝陵,帰国前後の写真とキャプションを載せました.

絲綢之路起点群像starting point of the Silk Road

西安の絲綢之路起点群像

絲綢之路起点群像

天水の麦積山石窟見物後,高速道路に入り,一路西安へと向かった.どんどん高度を下げ,やがて西安郊外の農村地帯に入っていきた.農家の住宅はレンガのしっかりした造りで,塀で囲まれている.畑にはビニールシートがかけられた麦藁と思しき小山が幾つも築かれている.これが麦積山の語源か~と改めてしげしげと眺め入る.

ウルムチまで行く新幹線工事もこの辺りでは既に橋脚工事は完了し,橋桁工事がたけなわのようだ.一気にウルムチまでではなく,西安側から順繰りに開通させていくのだろうか?

そして夕方になり,シルクロード(中国語で絲綢之路)河西回廊側の起点/終点のモニュメント,絲綢之路起点群像の前に到着した.ドライバーさんご苦労さまでした.

ここで大きなリールを操り凧揚げをしている人達がいた.まあ,随分高くまで揚がるものだと感心する.


下は,絲綢之路起点群像の写真いろいろ

絲綢之路起点群像での眺め
西安の絲綢之路起点群像 西安の絲綢之路起点群像 西安の絲綢之路起点群像 西安の絲綢之路起点群像 西安の絲綢之路起点群像 西安の絲綢之路起点群像

絲綢之路起点からは,往きで泊まったピアノが奏でられている西安賓館へと舞い戻った.窓を眺めるとまだ陽があるが,中国大陸らしい霞んだ空気が街を覆っていた.

ひと休みし,ホテル内のレストランで夕食を戴いた.気立ての良い日本語を話すウエートレスが,お試しにとザクロ酒とザーサイのお漬物を出してくれた.この秋から日本に留学する予定で,資金稼ぎにこの二品を買って欲しいということなのだが,う~ん味がイマイチかな.....ということで売上はあまり華々しくなかった.ごめんね.

碑林博物館Forest of Stone Steles Museum

碑林博物館に展示された石碑

碑林博物館に展示された石碑

6月20日朝碑林博物館に出掛けた.碑林は多数の石碑がまるで林のように立っているところから付いた名だそうだ.昔孔子廟(文廟)が在ったところをベースに1087年宋の時代(日本では平安時代)に建てられたということだから随分長い歴史があるのだ.漢代から清代にかけての石碑が並び,例えば王義之など著名な書家の作品などがある.

個人的には『篆書目録偏旁字源』と題された部首別篆書一覧を刻んだ石は,現在私たちが日本で使う漢和辞典の索引と同じ形式の篆書辞典に相当し,面白い.傍らの説明書に依れば,北宋の書家Shi Mianpingがまとめたもので,漢字の進化研究に大いに役立ったようだ.また書かれてはいないが,いろいろなバリエーションが生じやすい文字の標準化にも貢献したことと思う.

また『千字文』の石碑もあった.ガイドCさんのご両親の時代は先ず千字文から文字学習を始めたそうだ.ただいくら漢字の国とは言っても,あいうえお...と違って格段に難しく,また1000もあるから大変だ.Cさんの時代になると,漢字ではあるが千字文に拘らない,使用頻度が高く比較的簡易な漢字から学び始めたそうだ.そしてCさんのお子さんの時代になると,先ずピンイン(アルファベット)で中国語の学習が始まるようになったという.街で例えば日本語でケンタッキー,さらに簡便にKFCの表記が,中国では「肯徳基」などとかなり厄介だ.日本語表記のやさしさに私は改めてありがたみを覚える.

ついでに,コンビニエンスストアは『XX便利店』と看板が出ている.このケースだと日本語の長ったらしさといい勝負か?いや,こんな時日本語はコンビニとか簡略化できる.単にテキトーと言えなくもないが......でも中国語でも『超級市場』(スーパーマーケット)→『超市』とするから似たようなものか...?


碑林博物館で拓本を採る職員

碑林博物館で拓本を採る職員

博物館の職員が石碑の拓本を採っていた.碑を眺めるときと同じように文字が見えないとならないので,紙を碑に被せ,その上から一旦タンポで凹凸を作り,さらに墨の付いたタンポを叩き,写しとっていた.叩くそばからコントラストのはっきりした文字が浮かび上がり見事だった.

なお,釣り好きな方がよく大物を釣り上げたとき,魚に直接墨を塗り,白い布に写しとる方法(直接拓)は,ここでは文字がミラーされるので使えない.しかし複雑な三次元の魚と比べて単純な平面なので簡単ではなかろうか.ときどき平面でない石碑もあるが....きっと魚並に難しくなろう.


下は,碑林博物館と近所のいろいろな写真

碑林博物館での眺め
西安の碑林博物館での眺め 西安の碑林博物館での眺め 西安の碑林博物館での眺め 西安の碑林博物館での眺め 西安の碑林博物館での眺め 西安の碑林博物館での眺め 西安の碑林博物館での眺め

華清池Huaqing Pool

華清池

華清池

碑林博物館の後,華清池を訪れた.西安の北東30kmの地にあって,国内旅行者で賑わっていた.後ろは標高1256mの驪山(りざん)だそうだ.3000年前の西周時代から既に有名な温泉地で,温泉自体が稀な中国では皇帝など専ら権力者の保養地として専有されてきたそうだ.冬は湯とそれを熱源とする暖房で暖かく,夏は驪山の脇腹に氷室を設け,蓄えた氷で冷房し,避寒避暑地として使われたそうだ.


華清池奥の楊貴妃像

華清池奥の楊貴妃像

池の奥に白い楊貴妃像があった.昨年くらいまでは池の中に立っていたが,裸の品位がどうのこうの...とエラい人の一言で,ここに移されたそうだ.でも逆にこの場所に移ったお陰で,並んでショットが可能となり,なかなか人気と見た.実際の楊貴妃はこの像のように豊満な身体だったそうで,今に残る妃専用浴室海棠湯から上がったときの姿であろうか.

楊貴妃は16歳で唐の宮殿に入り,後に玄宗皇帝の息子,寿王の妃となった.しかしあまりの美しさに心を奪われた玄宗皇帝は,740年に息子から当時25歳になっていた楊貴妃を奪い取るに至ったそうだ.皇帝とは34歳年齢差で,この時の舞台が,華清池畔の華清宮だったようだ.以来,玄宗皇帝は毎年冬にここ華清宮で出かけ,絶世の美女にして聡明な楊貴妃と享楽生活にふけったとのことだ.

楊貴妃を取り上げられた息子,寿王の心中はいかがだったであろうか?いくら相手が皇帝でも理不尽と思わない訳にはいかない....と思うが....もちろん玄宗皇帝も儒教の教えに背くことはよく弁えており,一計を案じた.一旦道教の寺に入れ尼さん(道士)にし...云々,という策である.実質的に何ら変わらないと思うが,まあ出来た息子だったのであろう.

楊貴妃にのめり込んで,政治を疎かにした玄宗皇帝はやがて家臣に愛想を尽かれ,反乱が起こり,その軍事圧力に屈して楊貴妃を死なせる.その後の玄宗皇帝の嘆きようはもちろん大変,白楽天によって詠まれた長恨歌は後の世まで広く伝わることになった.


下は,華清池の写真

華清池での眺め
西安の華清池での眺め 西安の華清池での眺め 西安の華清池での眺め 西安の華清池での眺め 西安の華清池での眺め 西安の華清池での眺め 西安の華清池での眺め

兵馬傭博物館the Terra-cotta museum

兵馬傭発見の楊志発さん

兵馬傭坑発見の楊志発さん

華清池を見た後,兵馬傭博物館へ行く途中のレストランで昼食を食べた.その建物の一階はお土産やさんになっており,兵馬傭関連書籍コーナーに,兵馬傭坑を発見した楊志発さんが座って居られた.本を買い求めると楊さんがサインしてくれるという.

今から37年前の1974年,楊志発さんら数名の農民仲間が井戸掘り作業をしていて偶然発見したそうだ.近所の人達で,同じ楊という姓の人もいたそうで,現に他のお土産売り場で楊の名で登場している人もいるそうだ.ただ,他の人達は発見を行政機関に報告せず,楊志発さんだけがちゃんと報告.で,中国政府は楊志発さんだけを正式に公認ということになったそうだ.黙っていた人たちは祟りを恐れてとか,発見自体を盗掘として咎められることを恐れたようである.


兵馬傭博物館一号館内部全景

兵馬傭博物館一号館内部全景

写真では何度も見たことのある兵馬傭博物館の一号館.実際入って眺めるとその広大さと,等身大(より少し大きい)兵傭(人形)の数に圧倒される.兵傭は陶製で,頭部と胴体部に分割され,焼成時割れにくいように作られている.表面の彩色は大体が剥がれ落ちているように見える.

兵馬俑坑は,この後バスで訪問予定の秦始皇帝陵の周りに配置されており,2万平方m余りで,3つの俑坑には戦車が100余台,陶馬が600体,等身大兵俑(埴輪)は8000体近く発見されているそうだ.

ところでこの写真は一般の観覧席から撮った写真だが,ここから一段低く,兵俑に近い特別観覧席(要別料金)にも入れてもらった.ところがそちらは撮影禁止,代わりにそこの専属カメラマンがいて,撮った写真を売りつけるという.ちょっとあくどいように思うが....


兵馬傭博物館一号館の発掘作業

一号館の発掘作業

一号館の内部では手前側,発掘し,修復した箇所,現在発掘中のところ,そのまま掘らないで残すところに区分されているそうだ.左写真は現在発掘中の現場風景で,彫り出す作業で埋葬物を壊さないよう丁寧に掘り起こしている様子が伺えた.

また掘り起こした兵俑などは,普通かなり壊れていて,パズル組み立てのように復元し,復元(組み立て)された兵俑も並べられている.


兵馬傭博物館二号館の発掘場所

二号館の発掘場所

ここは兵馬傭博物館二号館.二号館は日本の建設会社の施工とCさんが話していたが,会社名は思い出せない.二号館はまだ掘り起こしている箇所は少なく,暫くこのまま保存する面積が大きそうだ.写真は掘った時に元の配置通りに兵俑や馬俑を再配置したもので,4頭の馬の後ろの高官(皇帝?)と兵の配置関係が判る.


兵馬傭博物館二号館の跪射俑(Kneeling Archer)

跪射俑(Kneeling Archer)

二号館ガラスケースに説明付き展示されていた跪射俑(Kneeling Archer).二号坑東で発掘された歩兵の一種,弓射兵(言葉は正確でない)で,両手の形からするとクロスボウを持っていたそうだ.二号坑ではこのような跪射俑が160体見つかっているそうだ.

この兵俑はなかなか素晴らしく,あちこちでレプリカをみることができる.

精悍な顔,実戦向きに束ねたヘアスタイル,精巧な鎧など実にリアルな感じだ.またこの俑に限らないが,一体一体顔立ちが違うことにも驚く.モデルは皆実在した家臣や兵だったのであろうか?


銅馬車博物館の秦始皇帝の銅車馬(または銅馬車)

秦始皇帝の銅車馬(または銅馬車)

銅馬車博物館に展示されている秦始皇帝の銅車馬の一つ.これは兵俑と違って実物の1/2縮小サイズで,青銅で鋳込まれたものだ.これは始皇帝の乗る馬車の先導車で,いざという時は盾になったのであろう.

実際,本1号銅車馬は,車体の右には盾と鞭,前には弩(投石器)と矢が掛けられているみたいだ.車上には傘が立てられ,その下に銅御者一体が手綱を引いて立っている.

上手く写せなかったが,1号銅車馬の後ろに2号銅車馬が展示してあった.こちらは屋根付きの部屋を備えた馬車で,始皇帝の乗用車だったそうだ.どちらも発掘されたときはバラバラに砕けており,丁寧に繋ぎ合わせて復元されたようだ.とにかく精巧な造りで,ため息が出そうになる.


下は,兵馬傭博物館あちこちの写真

兵馬傭博物館の写真
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ガイドCさんが昔のショッキングな思い出を語ってくれた.それは子供の頃の事件で,ある泥棒Aが兵馬俑坑の出土品をかすめ取って,それを外国人に10万元で売り渡したそうだ.Aが取引額全て受け取ったわけではなく,仲介者と分け合ったということだ.で,ショックだったのはいくら何でも窃盗で死刑になることはあまりないが,Aは死刑になったそうだ.確かにショックだったと思う.

秦始皇帝陵Qin Shi Huangdi's tomb

兵馬傭博物館から秦始皇帝陵を往復する専用バスがあり,先ずはこれに乗る.降りる人が先とか言っていると乗れませんよ~とハッパを掛けられ,中華作法で乗り込む(ほんの僅か罪悪感あり).走りだして暫くすると,左手に緑の小山が見えてきて,程なく到着だ.

秦始皇帝陵往復の専用バス秦始皇帝陵とされる小山秦始皇帝陵の物売り

その緑の山が秦始皇帝陵とされる山だそうだ.言われなければ,いや聞いても何の変哲もない山かなあ~?史記で,始皇帝の遺体安置場所近くに「水銀の川や海が作られた」と述べられ,1981年に行われた調査で周囲から水銀蒸気が確認され,真実である可能性が高くなった,と云うのが根拠のようだ.また,埋葬されている墓室や宝物などを盗掘から守るためのさまざまな仕掛けが施され,発掘が著しく困難,という話もよく聞く.

でもあの偉大な「秦始皇帝」の陵と聞けば覗いてみたいのが人情だ,お土産やさんはちゃんと心得ていて,いろいろ勧めてくれる.

でもひょっとして国家的お土産やさん戦略の可能性も0ではないかも.ガイドCさんが語るに,これまであの小山が秦始皇帝陵だと中国の誰もが言ってきた.だが,その証拠はまだ発見されてない.もし掘って,何も出なかったら中国は国家的恥を世界に晒すことになる.だから,発掘は早くとも現在生きている人たちが皆亡くなり,仮に何も出土せずとも「昔の人が根拠のないことを言っていた」と言い訳可能な人たち,これから誕生してくる人たちの世代になるという.それはそれでロマンかも知れないですね~

城市大酒店前の大通り

城市大酒店で夕食

これで今回旅行の観光は全て終わり,城市大酒店で夕食となった.写真,酒店前の大通りは帰宅ラッシュで混雑していた.バスドライバは何台も渋滞させて,私たちのバスを脇道で停車してくれた.

写真のような西安の市内バスはとても安価で,冷房なしは全区間1元,有りで2元だそうだ.

で,城市大酒店での夕食は何だったか....?多分美味しかった筈だ.食事後はまた西安賓館に戻り,休んだ.明日朝はとても早い予定になっている.


西安から帰国return home from Xian

さて,6月21日朝,早いのでお弁当を作ってもらって西安空港に向かう.普通の食事は美味しいのに,お弁当は残念ながら美味しくないと知る.出発ターミナル入り口はVIPであろうか,タレントであろうか...TV撮影クルーが手ぐすね引いて準備している.荷物を引いて,ガイドCさんにお暇し,中に入る.

しばし待って西安発8:00 中国東方航空MU521便,A320機に乗り込む.機は順調に飛び上海に到着.

西安空港のTV撮影クルー中国東方航空MU521便A320機

上海で11:00発予定のA330機に乗り換えて成田に向かう予定が気象条件整わず出発遅れる.成田到着もかなり遅れ,成田から関空や札幌,福岡などに乗り継ぎ予定の皆さんが心配されている.さて皆さん間に合ったであろうか?心配だ.

今回は同行の皆さん,添乗Nさん,各地のガイドさんのお陰でいい旅が楽しめた.ありがとうございました.



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