この天水編では黄土高原をバスで走ったとき,李広墓,天水市内散策,麦積山石窟の写真とキャプションを載せました.
6月18日朝,蘭州のホテルを出発し,真新しい高速道路に入った.この辺りから黄土高原と呼ばれる地形のエリアとなるそうだ.黄土とは砂より細かい土壌で,非常に固いものの水には浸食され易く,一旦崩れると粉状になって飛び散りがちということだ.中国北西部の砂漠地帯から風に巻き上げられた砂塵がこの地に降り積もり堆積した結果できたということだ.それに高原と付いているから,ある程度標高が高いわけだ.でも高速道路をバスで通っただけで,素人目に何らかの違いが判る訳では決してなく,そうなんだ~程度で過ぎていく.言い訳すれば,肝腎の地面の色であるが,これまで通って来たところも乾いて黄色っぽく,また概ね標高は千数百mの高原だったし....
天水への道中は長く,いろいろな質問と回答が出ていた.いくつか挙げると
蘭州から天水までは相当距離があり,長い走行の末天水に到着したのは軽く正午をまわっていた.高速出口で240元(3,000円くらい)と表示されていた.ドライバのフーさんもあと少し市内を案内すれば,ガイドNさん共々お役御免で,あす朝敦煌に向けて戻る予定だ.尤も蘭州で逆方向に向かう別の観光客をピックアップするそうだから,あまりゆっくり休んでもいられないかも知れない.フーさんも敦煌在住で仏教徒なのであろう,運転席の前にはソーラーパネル付きマニ車が置かれ,絶えず廻っていた.
天水には,諸葛亮孔明が6度に渡り魏を攻略せんと戦ったが,結局成功しなかった祁山(きさん),また孔明に高く買われていた馬謖(ばしょく)率いる蜀軍が魏軍に破られた街亭があるそうだ.どちらもあの天才軍師孔明にとっては分が悪い地であったようだ.また有名な『泣いて馬謖を斬る』は正にこの祁山が舞台だそうだ.つまり,孔明の『街亭の道筋を守備せよ』という命令に背き,馬謖は山頂に陣を敷き,その結果山上に孤立し,惨敗.軍規に基づいて已む無く処刑されるに至った,という訳だ.
そうしたことで,天水では三国時代の武器や鎧など,今もたくさん見つかるそうだ.
下は,黄土高原を走るときの写真
右端の一枚は右肩にタトゥーを入れた若い女性.思わず撮ってしまった.
漢将軍李廣之墓,と記された塚にやってきた.塚の前には「漢将軍李廣之墓 蒋中正 題(落款印)」と端正に記された蒋介石直筆の碑も建てれている.現政府が撤去せず,そのままなのはなかなか寛大な措置だ.
前漢の将軍李広はここ天水の生まれで,武勇に優れ匈奴討伐に多大な功を挙げたそうだ.しかし紀元前129年には匈奴との戦いに敗れて捕虜となり,その後脱出して長安に戻るも罪を問われ平民に落とされた. その後,何とか太守に復帰.紀元前119年匈奴攻撃の時,高齢を理由に外されそうになったが,李広は猛抗議してようやく参戦が許された.しかしその戦いで道に迷い,『これまで匈奴と七十数回戦った.そして今回幸運にもまた戦う機会に恵まれながら,道に迷い軍を遠回りさせる羽目になった.私の責任だ』と,その場で自害したという.
この報を聞いた配下の将校や兵はもちろん,一般市民皆が涙したという.上層部からあまり戦功(七十数回勝っているのに)が認められなかったが,立派な人であったのだろう.
なお李広は弓の名手でもあったそうだ.あるとき狩りに出かけ,虎に矢を放った.だがそれは虎ではなく大きな石で,矢は1/3ほどその石に刺さっていたそうだ.その後李広は幾度となくその石に矢を放ったが,全く刺さることはなかったそうだ.これは後の世『石に立つ矢』=必死になって行えば不可能とされることも実現できる,として伝えられるようで,そう言われればなるほど聞いたことがある.
なお,この塚に遺体はなく,生前身につけていた衣類などを葬った墓とされているそうだ.
社の登り階段と記念館にあったものだが,かなり人相が異なるような....でも左は戦場で緊迫した場面,右は完勝し,暫く戦いの心配が要らなくなったとき,とかかな~?
下は,李広墓と周辺の写真
李広墓の隣合わせで学校があった.遊びが逆立ちとかで,さすが名将軍のお膝元,頑張っている.
李広墓の後,今夜の宿,天水中心部の陽光飯店に入った.明日まだ麦積山石窟見物が残っているが,西安に行く途中で,また学芸員ガイドが付くためか,甘粛省ガイドNさんとドライバーフーさんとはここでお別れとなった.どうもありがとうございました.
まだ早い時間で,また陽光飯店近くには文廟(孔子廟)があって,その周りが一大ショッピングセンターになっている.またその裏手の路地辺りは青果や乾物,雑貨などの露店が並ぶ市場が展開され,ほっつき歩いてみた.この日6月18日は土曜日のためか,人出が多く随分繁盛しているな~と感じた.
露店で余り見かけないナッツ(後で食べたら殻付きのアーモンドだった)があったので買い求め,さらに奥の大きなスーパーマーケットに入ろうとしたら,入り口の警備員に制止された.言葉が判らないが,仕草からビニール袋のナッツを持っているからダメということらしい.衛生管理面もしくは商品管理上の問題かも知れない.どうしても探したいものがあったので,一旦ホテルに戻りナッツを置いて,再度スーパーに行ったらノープロブレムだった(当然だが).とても大きなスーパーで,品ぞろい豊富だが,特設売り場は店員が少し鬱陶しく感じる場合もあった.
下は,天水の文廟商場とその近くのショッピングセンター辺り
下は,天水市内の路地や青果市場など
散歩が終わり,夕方になり,近くのレストランに夕食に出掛けた.この日は添乗Nさんが腕を振るい,ソーメンを振舞ってくれた.美味しかった.お借りしたレストランのキッチンが狭く,いささか苦労されたようだ.お疲れさまでした.
6月19日朝,新しく西安から来てもらったバスに乗り込んで陽光飯店を発った.同じ天水市内と言っても結構距離があり,10時頃麦積山入り口駐車場に到着した.駐車場からは電気カートで暫く登り,降りてから門前市の並ぶ参道を少し登り,石窟ゲートに到着した.見上げると先ず大仏さま(第13窟)が目に入り,そして垂直の断崖に架かる回廊を眺め,あそこを歩くんだ~と期待感が満ちてくる.
麦積山の名は,麦わらを積み上げた形に似ていることに由来するそうだ.言われれば,そうかな~?そして麦積山石窟は4世紀頃,北魏時代から造られ始め,現在194の石窟が残っているということだ.
麦積山石窟はユネスコの世界遺産にこそ登録されてないが,莫高窟に並ぶ文化遺産だそうだ.
私たちは学芸員に連れられ,ガイドCさんの日本語訳を聞きながら(特)44,37,13,9,3,4,5,(特)121窟の順に見て廻った.ありがたいことにここは撮影自由(今年かららしい)で,巡ったときのスナップを下に載せた.
6世紀西魏時代の如来坐像で「東洋のビーナス」と呼ばれることもあるそうだ.退色し,また背景は殆ど剥がれ落ちているが,確かに僅かばかり微笑む表情は美しい.当時の皇后陛下の面影を模した供養仏ではないかとする見解もあるそうだ.また高い肉髻と旋回状の巻き毛,厚い漢民族式袈裟なども特徴だそうである.
左右の脇侍菩薩像もなかなか優しい感じだ.
隋代の塑像で,祈祷菩薩と呼ばれるそうだ.祈祷する菩薩の姿の意であろうか.鉛が含まれる顔料なのであろう,著しく変色し印象が良くない.本来はきれいなのであろう.
左の両手を胸に当てた女性的顔立ちの塑像は誰だろう?うわ~っ,私胸がときめく!どうしたのかしら?それとも,「さあ,胸に手を当ててよーく考えてごらん」とか言われて,考えているのか?
第13窟と名付けられているが,所謂窟と呼ぶには磨崖仏が巨大で,むしろ張り出して見える.中央の釈迦牟尼仏が高さ15.7m,左側の文殊菩薩(観音菩薩との説もあるとか),右側(頭写っておらず)の普賢菩薩像ともに13mと大きい.この写真だと判りにくいが少し下からの眺めだと圧倒的に目立ち,ふくよかな顔立ちはいかにも仏さまという印象だ.それにしても下から50m,切り立ったこの崖での工事は大変であったと思う.
さて造り方であるが,全て岩を彫って仕上げたのではなく,およその形に岩を掘り,その上に直接粘土を塗り形を整える,というこれまで見てきた例えば莫高窟や炳霊寺石窟の塑像と同じ工法だ.腕など細い部分は岩に穴を開け,底に木材を刺し入れ,そこに藁などでラフな形を造り,粘土で整えるところも同じだ.
その左腕の部分であるが,残念ながら芯材少しと穴を残し欠落している.また顔料は殆どはげ落ちて,殆ど土色一色だ.なお補修の際,塑像内部から経典が出てきたそうで,そうした埋め込みができることも塑像工法のメリットの一つなのであろう.
この窟はしっかりした造りで,大勢混み合っても安心して見物できる雰囲気だ.窟はさらに7つの部屋(龕/がんと呼ぶそうだ)に掘られ,それぞれの龕に塑像が並んでいる.塑像は北周時代から始まり,壁画は明や清代のものが多いそうだ.そのためか壁画は結構きれいに残っているようだ.
ところで七仏とは,お釈迦さまが自分より過去に遡って道理を説くときの諸仏....とか.難し過ぎてちょっとよく判らない.
千仏はたくさんの仏さまということだが,実際300体近くの塑像が並んでいるようだ.
北周時代の大型窟で,散華楼(または上七仏閣)と呼ばれるそうだ.写真前方,シェーのような塑像は力士像で,仁王様のように筋肉隆々だ.反対側にも力士像があり,その間の前廊は7間(12,3mくらいか?)あるそうだ.そしてこの間の崖に7つの部屋(龕)が掘られ,各室に一仏八菩薩などが収められている.
写真力士像の上の天井には仏教故事に因むという絵画が描かれている.馬の絵もあって,これが見上げる場所で,馬の顔の向きが変化するという.3回ほど指定された場所に立って,見上げてみたが一向に変わったようには見えなかった(他の人は,見えた見えた!と言っている).いろいろ悪くなったが,眼もか~
力士像も迫力だが龕と龕の間の塑像もまた力強い顔立ちでなかなか素晴らしいと思った.
牛を踏みつける天王像があって,この窟「牛児堂」の名になったそうだ(仁王像の写真が写っていなかったが).ここには3つの部屋(龕)があり,随と唐代の塑像が15体残り,主尊は全て三世仏である旨,日本語で記された案内板があった.
第5窟は一番高い場所にあり,崖の下から80mもあるようだ.周囲は深い緑で,黄土高原のイメージとはかなり違う.黄土高原は過ぎてしまったのかな?
特別窟である第121窟の鍵を開けてもらい,狭いため数人づつ入り見物した.北魏時代の塑像が数体収められていた.狭いためか写真は撮ってなかった.
この辺りで通路を眺めると,ほんとに絶壁で,私たちはこうして手摺りの付いた鋼鉄の階段を歩くからいいが,施工した人たちは大変だっただろうな~と改めて思う.
下は,麦積山入り口,登り口,石窟の写真
この日はたまたま自転車レースがあったそうで,麦積山入り口ではその閉会式があり大勢のサイクリストが集まっていた.
麦積山石窟見物の最中「裁判員」の名札を下げた青年に出会った.写真撮っていいですか?という仕草をしたらにっこりOKしてくれた.
ガイドCさんに「裁判員」とは何ぞや?と訊ねると,社会規範というか,マナーというか,まあそうしたルールに反する人がいないか監視する役目の人らしい.何れにしても日本の裁判員とは全く異なることに間違いないようだ.
ついでに,『検察』のパトカーとは何か?また『警察』とか『公安』と記されたパトカーもあるが,違いは何かをCさんに訊いた.すると,『検察』は確か,例えば入場料を払わないで石窟に入るとかの取り締まり,『警察』は交通規則違反の取り締まり,『公安』はスリとかドロボーを捕まえる,だったかな~.メモがちょっと曖昧だった.ともかく,日本の検察と,中国の検察は,『裁判員』同様全く意味が異なることを知った.
さらについでにデモの取り締まりなどについて訊いてみた.この場合以上三組織の何れでもなく,『武装警察』があたるそうだ.激しい時は『軍』のようだ.人民解放軍か?いや解放の逆か?はさて置いて...
西安から来てくれた新しいバスはトランクルームに鳥かごを積んでいる.駐車場に着くとドライバーさんは籠を引き出して,バスの傍らに置く.目白とかそうした小鳥のようだ.そして出発時はまたトランクルームに収める.小鳥が好きなようだ.
で,ここ麦積山石窟駐車場では,出発のとき一羽だった小鳥が増えたと喜んでいる.どうやら鳥かごには仕掛けが在るらしく,中の小鳥か或いは餌をターゲットに鳥かごに入る野鳥が逃れなくなるということのようだ.どんどん増える小鳥はさてどうするんでしょうね~?
さてこうして天水の観光は終わった.これからまた西安に戻る.ギョーザがまたあるかな~?