張掖Zhangye

この張掖編では張掖へ行くとき,張掖市街,張掖の大仏寺,張掖を離れて武威に向かうときの写真とキャプションを載せました.

張掖へgo to Zhangye

酒泉の観光を終えて,再び高速道路に入り,張掖へと向かった.雪を被った祁連山脈に沿う北側をひた走る.ゴビ灘の多い土地であるが,広いオアシスも展開され,麦や菜の花がきれいだ.見事な緑であるが,そこに点在する農家の家屋の造りをみると,基本的には降雨量の少ない地方にだけ許される日干しレンガ造りが多いようだ.

酒泉の高速入り口祁連山脈前の工場
高速道路脇の農家祁連山脈と菜の花

そうこうしているうちに張掖に入って来た.カシオで標高を見ると1650mとなっていた.ガイドNさんに依れば,掖(腋)を張って敵を防ぐ,と云う意味で,次に行く武威と共にかなり軍事拠点としての歴史ある町のようだ.

張掖市街City of Zhangye

張掖のマルコポーロ像

張掖のマルコポーロ像

張掖に到着すると先ず蜀湘緑レストランに入り昼食をいただいた.壁に金文の額が掛かり,タイトルが「蜀山青湘水流」のようなので,店名はこの詩(か何か)に関係ありそうだ.意味は判らないが...

食べて出た通り『欧式街』はその名の如くヨーロッパの建築様式を採り入れて造られており(垢抜けないが),交差点には「東方見聞録」で知られるとても若々しい姿のマルコポーロ像が据えられていた.ヨーロッパ様式の街造りはもちろんマルコポーロに因むものだ.

マルコポーロはヴェネツィアの商人で,1271年(元の始まり,鎌倉時代)父と叔父と共にアジアに出かけ,以降24年間アジア各地を旅する.帰国後,戦場で捕虜となり投獄されたときムショで話したのが『東方見聞録』として残されたそうだ.そのマルコポーロが,元の初代皇帝フビライハンに謁見許可を得るためしばし(確か1年あまり)滞在したのがここ張掖で,な,何と滞在期間中張掖の役人として務めたそうだ.いや~すごいものだ.彼は伊語以外,仏語,トルコ語,モンゴル語,中国語等に通じ,またヴェネツィア商人だけあって簿記/会計はプロ中のプロ,張掖で徴税実務などにあたったそうである.なおマルコポーロは主に首都であろうが合わせて17年間中国に滞在したそうだ.


張掖の万寿寺木塔

万寿寺木塔

隋代582年建立と伝えられる張掖西部に聳える九層の塔があった.万寿寺塔と呼ばれ,33mの高さがあるそうだ.中心部は焼きレンガで外周は木造,釘は使われてないそうで,貴重な建築様式ということだ.

外側からは木造建築に見えるし,しかも582年建立と聞くと,これまたすごいな~と思う.

塔の背後に見えるのが万寿寺本堂であろうが,三層の屋根でこれもなかなか歴史がありそうだ.


張掖市街の風情ある塀

風情ある塀

張掖の街を巡っているとこんな塀があった.丸い入り口,塀の内側の古びた木と粘土の家,どれもなかなか趣きがある.

こうした場面では,どう云う人が住んでいるのか?と覗いてみたくなる.文人とか,街の長老とか,....かな?


下は,張掖市街あちこち写真

張掖市街での眺め
張掖市街での眺め 張掖市街での眺め 張掖市街での眺め 張掖市街での眺め 張掖市街での眺め 張掖市街での眺め 張掖市街での眺め

大仏寺Dafo Temple

大仏寺

大仏様の説明に聞き入る中国の観光客

大仏寺入り口にやって来た.お土産屋さんの並ぶ参道を暫く歩き,山門を潜り,大仏殿の前に至る.

中国国内の皆さんも,ガイドから中国語のレクチャーを神妙な面持ちで聴いている.多分私たちより詳しい説明だと思う.私たちの通しのガイド,西安のCさんが話してくれた.ガイド試験は言語及びエリア別で1年に1回更新テスト(厳しいそうだ)があり,中国語ガイドは日本語ガイドより詳細で,また笑わせどころなど違うため,2言語ガイド資格取得は難しいという.この辺の事情は甘粛省ガイドNさんも同じように話していた.一般的に言って日本語ガイド自体他国では少ないし,中国の日本語ガイドはとても高レベルと思う.

さてこうして一通り説明を聴いて,大仏殿に入った.中には全長34.5mもあるという大きな涅槃像が横たわっていた.敦煌莫高窟第6窟で眺めてきた,随代建立35.5mの大仏様(坐像)に近いサイズだ.涅槃像では中国一の大きさになるそうで,木材や藁で骨格を造り,粘土で周りを塗り固めた塑像で,顔料で彩色されている.西夏時代の初頭1098年の完成だそうだ.大仏様の周囲や背後には弟子や羅漢や,さらに三蔵法師の像など多く配されていた.撮影禁止で写真がないが.

なおマルコポーロが来たのは,大仏完成より後の元代であるから,東方見聞録にもちゃんと記述されているという.

大仏様の周りを男は時計廻りに,女性は反時計廻りで三周歩いた.折角事前講義を受けていたのに,どうして廻る方向が逆だったのか思い出せない.....そうでないとご利益がないとか....だったか?


大仏寺にはチベット様式チョルテン(仏塔)も

チベット様式チョルテン(仏塔)も

大仏寺には大仏殿の他に,仏教芸術展示室,仏教経典展示室,僧坊等に加え,最奥部にはチベット仏教のチョルテン(仏塔)が建てられていた.

大仏寺を建立した西夏国は中国西北部をベースとしたチベット系タングート族(羌:きょう族の一部)の国だったそうだ.なのでチベット仏教が国教であったのではないだろうか?確か涅槃仏の裏側に帽子を被ったラマ像もあった気がするし....記憶力薄弱な私に撮影禁止,今回旅行では多い,は甚だ痛手だ.

なお西夏国は後日訪れる博物館でお目にかかるめっぽう複雑な西夏文字を作り,使っていたことが大変印象深い.現代では反対に簡単に,簡単に,が世の趨勢だが.


下は,大仏寺の写真

大仏寺での眺め
張掖の大仏寺での眺め 張掖の大仏寺での眺め 張掖の大仏寺での眺め 張掖の大仏寺での眺め 張掖の大仏寺での眺め 張掖の大仏寺での眺め 張掖の大仏寺での眺め
張掖の大仏寺での眺め 張掖の大仏寺での眺め 張掖の大仏寺での眺め 張掖の大仏寺での眺め 張掖の大仏寺での眺め 張掖の大仏寺での眺め 張掖の大仏寺での眺め

張掖を離れるleave Zhangye

張掖を離れ暫くすると明代の長城跡

張掖を離れ暫くすると明代の長城跡

張掖の観光を済ませると,次の観光地武威を目掛けてまた甘粛高速道路に入った.武威までは道路標識に依れば229kmのようだ.途中,漢代で基礎が築かれ,明代に補強されたという万里の長城が,この道路建設のため削り取られた写真の場所に来て,休憩した.ブルドーザーがあれば大したことなかろうが,明代はまだ無かったので,厚い壁の突破活動を始めても途中で見つかり,上部から矢を射られたり,火で攻められたり.....なかなか問屋が卸してくれなかったそうだ.まあそれが長城の役割だから仕方なかろう.


鷹の留まり台

鷹の留まり台

長城跡辺りはブッシュのような草が生えた地帯が続く.明代から必然的に牧畜が大きな産業だったそうだ.草原にはねずみ(もぐらもか?)が多く,草の根を食いちぎり,生育を妨げるという.そこでこの地方に赴任した偉い行政官が,ねずみ捕りの鷹を増やすため,鷹の留まり台を所定間隔毎に設置させたという.確かに結構頻繁に見かける.鷹は少し小高い所で羽根を休め,獲物を狙う習性があるそうだ.留まり台は必ず2個づつ組みで設置されていたが,鷹のペアのためだったか?....思い出せない.


巨大な風車ブレード

巨大な風車ブレード

長城の後,もう一度サービスエリアに入り休憩した.ウイグルや甘粛で既に膨大な数の風力発電設備を見てきたが,まだまだ増設工事は進行している.ここのサービスエリアでは,さらに西に行くのであろう,風車ブレード運搬トレーラー運転手が十数人休憩していた.1台のトレーラーに2枚づつ積んでいるが,その大きさに圧倒された.巨大トレーラーであるが,その長ささえ遥かに凌ぐサイズだ.風車にはブレード3枚づつ組み込まれるので,回転直径はブレード長×2+回転軸経となる訳で,まあその迫力が目に浮かぶ.


下は,張掖を離れ武威に行くときの写真

張掖を離れ武威に行くときの写真
張掖を離れ武威に行くときの写真 張掖を離れ武威に行くときの写真 張掖を離れ武威に行くときの写真 張掖を離れ武威に行くときの写真 張掖を離れ武威に行くときの写真 張掖を離れ武威に行くときの写真 張掖を離れ武威に行くときの写真

こうして武威の出口までやって来た.



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