この武威編では武威の街,文廟,西夏博物館,雷台,雷台の縁日,烏鞘嶺の写真とキャプションを載せました.
張掖からバスで武威の街にやってきた.高速を降りてから市街地に入るまで道を間違えたようで行ったり来たりした.運転手さんも初めてのホテルだったのであろう.栄華賓館というホテルで,部屋に入り窓を眺めると,工場の煙が見えた.工場の多い街なのであろうか?無粋と言えば,無粋だ.しかし広い通りは比較的空いているように見えた.
歴史的に観れば,武威もまた河西回廊の緑豊かなオアシス都市で,「金の張掖」,「銀の武威」と呼ばれ,栄えたそうだ.またその名(ちなみに英訳ではmilitary powerとか)からして西域勢力を防御する重要な場所でもあったのであろう.
下は,武威の街の写真
武威では先ず文廟を訪れた.文廟は孔子を祀る廟であって,ここ武威に限らず全国各地にあるそうだ.ここの文廟は明代1439年創建で,孔子廟だけでなく儒教を学ぶ儒学院,及び宝物庫というか博物館というか,そうした機能も備えているようだ.
文廟の天井にはここで学び羽ばたいた人々が寄進したいろいろな言葉を記した額が所狭しと嵌めこまれている.なかなか壮観だ.
全国の秀才中の秀才が受験し,全国合わせて合格者は1年で3人程度だったという中の,甘粛省の科挙合格者が記されていた.
最初の合格者は唐代で,2人の名が載っている.唐は300年近く続いたが,その間でたった2人だから確かにメチャ少ない.それが清代,乾隆の頃になると急に人数が増えてくる.この頃から行政と役人に関する仕組みが変わったのであろうか?
孔子は今でも大変尊敬され,受験の前,或いは受験合格後に参拝する人が多いそうだ.西安に到着した日と翌日は大学受験の日と聞いていたので,写真の母娘は合格の報告と御礼のお参りかも知れない.
髭をたくわえ,ふくよかな孔子像は,多分中国で最も一般的なイメージなのだと思うが,私は若干「そうかな~?」と感じなくもない.
下は,文廟のいろいろな写真
文廟の後,この西夏博物館を見物した.仏教の経典や西夏時代の文物が展示されていた.撮影が不許可なため,どうも思い出せない,困った.
西夏博物館の中で最も有名なものが西夏碑で,大きな石碑の片側が西夏文字で刻まれ,反対側が漢字で刻まれている.ロンドンのロゼッタストーンと同様,見たことのない新しい文字の解読に貢献したそうだ.その文字とは複雑で難解な西夏文字で,碑は今も研究者に大いに活用されていると聞いた.
写真は上記文廟で展示されていた撮影自由な拓本で,ロゼッタストーンと同じく黒い石だが,それより大分大きく,両面に記述されている.西夏文字を眺めると,漢字に編や作りをさらにいっぱい付加したような,実に複雑な文字だ.漢字でも大変なのに,とてもとても....と云う印象だ.
雷台は武威の公園の中にあり,清代に造られた雷神を祀った道観(道教寺院)のある高台に由来するようだ.でもそれはさしたる話題ではなく,ここら一帯には,写真の一号漢墓を含む後漢時代の張将軍一族の雷台漢墓があり,中から非常に価値ある埋葬品が発見されたことだそうだ.
私たちはこの入口からトンネルを下り,強固な焼きレンガでドーム状天井を持つ前,中,後の部屋,さらにそれぞれの部屋に左右側室から成る墓を見物した.内部は殆ど盗掘され,盗られなかったものは博物館に収容され,空っぽだった.ドームの一部に欠損した部分が見えるが,盗掘の跡だそうだ.盗掘するとき,変な場所に穴を開けると部屋全体が崩れ落ち,生き埋めになるので,泥棒もどの場所なら穴を明けても大丈夫か,またどこから掘り進めるか,建築学的および測量学的知識を叩き込んでから実行したようだ.
さらにガイドNさんが盗掘について説明してくれる.盗掘は見つかると重罪なので,普通2人掛かり,一人が穴掘り,一人が見張りで実行.いよいよ玄室まで貫通したとき,一人は室に入り,高価値の品々を見定め,地上から下されたロープ端のバスケットに入れ,見張り役がこれを引き上げる.さてここで,ペアを組むのは友人(悪友?親友?),夫婦,親子が典型例だそうだ.であるが,ペアの一方,地上の見張り役がロープで盗掘品を引き上げてそのままおさらば,玄室に残った相方はロープも無く,そのまま御用...といった悲劇もまま起こるそうだ.で,ペアと役割分担で望ましい組み合わせはどれか?「親子で,子どもが中」が一番,相手を見捨てる率が低く成功率が高いとか.やれ愛情が,義理が,道徳的教育的が.....とかは,まあお話ですから.
幸い盗掘を逃れたところもあり,1969年,金,銀,銅,玉,陶器....などの文化財,および青銅製の軍人,馬,馬車,傘,旗...など数多く出土.これらの多くは翌日訪問予定の甘粛省博物館に収められているそうだ.
右写真はこれら出土品中特に有名な「銅奔馬」と呼ばれる青銅品の拡大レプリカで,雷台入り口広場に据えてあった(本物は甘粛省博物館).本物は高さ34.5cm,長さ45cmと比較的小振りであるが,別名「馬超龍雀」とも称される.解説を引用すれば,”首を上げて尾をピンと張り,三本の脚は空を切り,右の後ろ脚で風神の鳥である龍雀を踏みつけている.力学的平衡の原理にも合っている”ということだ.
「馬超龍雀」(銅奔馬)は芸術的価値が極めて高いと認められ,中国国家旅遊局のシンボルとして採用されたり,また横浜三ッ池公園には中国遼寧省から友好の印として寄贈されたレプリカが置かれているそうだ.
雷台にはまた銅奔馬以外の青銅馬車,埴輪の拡大レプリカも展示されていた.後漢時代既にこのような精巧なブロンズ像を作っていたことに感心する.
下は,雷台の写真
雷台近くの福華苑で昼食を食べ,たまたまこの日が雷台の縁日ということで冷やかして廻った.
道具も細い竹の棒に,何やら記した1枚の布程度で営業できるためか,筮竹の占い師は大勢いる.私もこの方の前に座って,赤い布切れを覗き込んでいたら,「xxxxx?」と中国語で訊かれる,全然解らないのでポカンとしていると紙切れに「河南」と書いてくれた.私がその下に「日本」と書いて応じると,「xxxxxウォー」と大げさに喜んでくれた.
河南省は甘粛省より相当東で,黄河の南に位置しているそうだ.ガイドNさんに,私は河南人に似てますかね?と訊いたら,アハハ,そうかも,ということだった.
屋台のお店もたくさん出ている.屋台は水が自由に調達できない.このラーメン屋さんは,丼が洗えないので,使用済み丼にサランラップを敷き,新しいラーメンを盛り付けていた.
洗わないで次の料理を盛り付けるよりは若干ましか?でもやはり食べる気には.....
これは大変珍しいダンス占いの光景.占い師が占い結果を客と一緒に踊りながら告げるのだそうだ.このお客さんは暑いので日傘を刺しながら踊っている.当事者以外にも面白いようで,ギャラリーも付いている.占い師/客ともに女性が多いようだ.
この縁日ではもちろんお参りのためのお線香や蝋燭,果実や野菜,衣料品,お土産品など販売露店が多いのだが,寅さんのようにべらべらまくし立て口上で電気製品を売る商売,お祓い屋さんなどもなかなか興味深かった.
下は,雷台縁日の写真
武威の観光を終えてバスは甘粛省の省都蘭州に向かった.武威を出て高度を増しながら暫く行くと,住宅の装飾などからチベット族と見られる村を通過した.そして程なく烏鞘嶺(うしゅうれい)の峠に至った.およそ標高3,000mで,祁連山脈の支脈にある峠であろうか?先方には祁連の主脈が見えているが,高さはあまりないようで雪は見えない.また峠脇の丘にはチベット様式のチョルテンが建ち,チベット族のエリアと窺わせる.
烏鞘嶺からは下り坂だ.降雨量が多くなってきたのか畑が目立つ.また珍しいことにイスラムモスクも敦煌以来久しぶりに目にした.少数民族回族も暮らすそうである.
さらに進むとちょっと大きな街があった.看板にはチベット文字が併記され,台形の窓枠はチベット風だ.看板の文字からここは華蔵寺のようで,チベット自治区(県)で,華蔵寺というお寺が在るようだ.チベットに比べれば低かろうが,甘粛省の中では比較的高地に住まうところがやはりチベット族だと認識する.
なお「華蔵寺」で検索するとあちこち日本のお寺が出てきて驚いた.天台宗,臨済宗,真言宗...と1つの宗派に限定されないようで,チベット仏教との繋がりは不明だ.
下は,烏鞘嶺辺りとその先の風景
華蔵寺辺りからはマッサージ街道とされる悪路で,しばし揺られ,飛び跳ね上げられながら蘭州へと近づいていった.高速道路では,昔の河西回廊を偲ぶにあまりにも隔たりが大きいため,敢えてこの道を運転手さんが選んでくれたのかも知れない.