トルファンTurpan

このトルファン編では,カレーズ,ウイグルダンス,トルファン市街,ブドウ園,高昌故城,アスターナ古墳群,火焔山,ベゼクリク千仏洞の写真とキャプションを載せました.

カレーズkarez

カレーズの断面模型

カレーズの断面模型

ウルムチからはるばるバスでトルファンにやって来た.最初に地下上水道設備であるカレーズの見物に訪れた.トルファンのカレーズは400本余り掘削されてきたそうだ.場所によっては海抜以下,灼熱のトルファンで水は文字通りライフラインであろう.カレーズは天山山脈麓の水源から横穴を掘り進めて,消費地のトルファンの街や畑まで通す訳で,先ず所定間隔毎に竪穴を堀り,そこを起点に横に掘っていく工法がこの模型から良く解る.普通水道管と比べてとても大きく,またイラン辺りの同種設備(カナート)では石灰堆積で頻繁な補修を要すると聞いていたが,ここではあまり堆積がなく耐用年数は相当長いようだ.

もちろんこの展示場所には実物のカレーズがあって,地面から10m程あろうか,灼熱の地から下るととても涼しく爽やかだった.

いずれにしてもトルファンの年間降雨量がたったの16mmと聞けば,カレーズの重要さは如何程か計り知れないであろう.


トルファンのブドウ

トルファンのブドウ

トルファンはブドウの名産地として知られる.もちろん上述のカレーズの水があり,収穫後放っておけば(言い過ぎか?)干しブドウができるという灼熱環境に恵まれるせいであろう.

でも実際はそれほど簡単ではない.砂漠性気候は夏の灼熱地獄と引き換えに,冬は氷点下の厳寒に晒され,そのままではブドウの樹が朽ち果ててしまうそうだ.

で,この写真のブドウ樹の根元の溝の役割について聞いたのだった.冬が近づくと,ブドウの蔓は棚から外され,この溝に収められ,藁や土砂で埋め込まれ,春まで越冬するのだそうである.そーなんだ,と感心してしまった.この栽培法は有名な山梨とかでも同じなのだろうか?

なおこの時期ブドウの実はまだ小さく,収穫時期は山梨辺りと同じ頃であるらしい.品種ごとの差異はあろうが.


下は,カレーズ辺りの写真いろいろ

トルファンへの道中,カレーズでの眺め
トルファンへの道中,カレーズでの眺め トルファンへの道中,カレーズでの眺め トルファンへの道中,カレーズでの眺め トルファンへの道中,カレーズでの眺め トルファンへの道中,カレーズでの眺め トルファンへの道中,カレーズでの眺め

ウイグルダンスUyghur Dance

カレーズを見物した後,この日の宿.トルファン賓館に入った.以前にも泊まったことのあるちょっと古びたホテルだ.ロビー脇の売店にはちゃんとご当地産のワインも並べてある.ウイグルガイドOさんに依れば,ウイグルのイスラム教徒は飲酒に関する戒律に対しては甚だ寛容ということだ.なおOさんは漢族で,イスラムではない.

ウイグルダンス

ウイグルダンス

さてそんな訳でホテル2階のレストランでウイグル名物料理『羊の丸焼き』を頂戴するときも,心置きなくビールやワインをオーダーすることができるのだった.この点パキスタンや,(イスラムでない)インドの聖地辺りと比べて実に気軽で助かる.羊の丸焼きは焼く前に香料入り調味料に浸け込むそうであるが,然程強烈な味ではなくなかなかいける.ただ切り分けてくれた肉は何れも骨付きなので,ちょっと食べづらい.

そのうち楽隊とダンサーの皆さんが登場し,ウイグルダンスを披露してくれた.司会役の女性が弾む声で懸命に口上を述べてくれるのだがウイグル語でからきし理解できない.多分,これは祭りの舞で,次は豊作を願う.......とか言っているのであろうか?いや見当違いか?何よりも笑顔とひたむきな感じは大いに好感できた.衣装や舞いの作法については中央アジア,例えばウズベキスタン辺りのそれと似ている部分があるように見える.


下は,トルファン賓館とウイグルダンスの写真

ウイグルダンスなどの眺め
トルファン賓館とウイグルダンス トルファン賓館とウイグルダンス トルファン賓館とウイグルダンス トルファン賓館とウイグルダンス トルファン賓館とウイグルダンス トルファン賓館とウイグルダンス トルファン賓館とウイグルダンス

トルファン市街と郊外the city and suburb of Turpan

トルファン市街

トルファン朝の大通り

トルファンは朝から強い陽射しが照りつける.通りには通勤のバスや車,バイクが行き交う.散水車が水を撒いていくが,多分短時間で乾いてしまうであろう.道路の散水に加え,殆ど雨の降らない土地に立派な街路樹を育て,維持していくために如何程の注力をしているのであろう?上に記したカナートは要の1つであろうが,その努力には頭の下がる思いだ.


トルファン横丁のモスクと肉屋さん

横丁のモスクと肉屋さん

大通りから宿泊のトルファン賓館前の通り(青年路の名が付いていた)を過ぎると,そこは急に田舎街の趣きを帯びてくる.漢字で『抗抗寺』と併記された質素なモスクが建てられている.そうえ言えばトルファンにいたときアザーンは一度も聞かなかった.まあごく短期間の滞在だったためかな?

モスク前には肉屋さんか開店している.この季節日中は40℃以上になるというのに野晒しで平気なの?と思うが,乾き気味になっても腐ることはあまり心配ないのかも知れない.この先見物するアスターナ古墳のミイラなどからの類推であるが.

この辺りを散歩していると,自分よりいくらか若そうなバイクの男性が声を掛けてきてくれた.今回のフクシマの事故は大変心配している,と,とても流暢な日本語だ.日本と日本人が好きで日本語を学んだそうで,54歳まで中学校で教えていたが,その後銀行にパートタイムで勤め,日本企業との取引などに関わることがあるそうだ.いくらか辺境とも言えるこの地で,こうして日本に関心を示してくれる人に出会えて嬉しかった.


トルファン横丁のナン屋さん

横丁のナン屋さん

肉屋さんの近くにはナンを焼く男性が汗を流していた.捏ねた小麦粉の固まりを一個分毎に平たく伸ばし,それを坐禅の丸い座布団のようなパッドに載せ,竈の内側に貼り付ける.表面の色を観察しながら頃合いに写真の二本棒で剥がし出し,道端のテーブルに投げて重ねていた.

竈内側に貼り付けるときは,焼けた竈内に腕を入れ,覗く顔にも熱風が吹き上げるのでなかなか大変な仕事だ.この近くには3~4軒のナン屋を見かけたので,一般家庭では自宅では焼かず,こうしたお店から買ってくることが多いのであろう.電気ナン焼き器があれば(既にあるか?)炊飯器のようにかなり普及しそうな気がする.


トルファン郊外の油井

郊外の油井

オアシスのトルファン市街を一歩出ればそこは一面の砂漠だ.そしてこの辺りは石油や天然ガスを産するそうで,原油を汲み上げるポンプがアームを上下に振っている光景に出合う.最近圧倒的なシェアを誇るレアアース産出で力を示しているが,原油や天然ガスもそれなりに産するのは羨ましい.


トルファンの干しブドウ

干しブドウ

ブドウ農家を訪問した.写真の二人の若旦那だけが対応してくれた.以前別の農家訪問では祖父母,若夫婦,お孫さんと三代で対応してくれたので,ちょっと意外.道路を挟んでお向かいの観光農園を眺める(お下品な覗き見で)と,ちゃんと三代くらいの家族の方が対応している.でも二人の若旦那が美味しいスイカにお茶,各種干しブドウを試食,自家醸造(イスラムですが)ワインを試飲させてくれた.何人かの方がちゃんと買い求めて下さったので,食べ逃げ的罪悪感を少し緩和してもらった気分だ.

収穫したブドウは風通しのいい,レンガ造りの小屋内部のテーブルに並べておけば殆ど自動的に数週間で完成するようだ.まあ,乾いた灼熱のトルファンは干しブドウ造りに最適の気候なのであろう.ではワインはどうか?よく判らないが,高温なので発酵速度は速いかな~でもそれがいいワインの条件かな....頂戴したワインは甘味が強く,寝せた年数の割に若くフルーティな感じだった.


下は,トルファン市街と郊外の写真

トルファン市街と郊外での眺め
トルファン市街と郊外での眺め トルファン市街と郊外での眺め トルファン市街と郊外での眺め トルファン市街と郊外での眺め トルファン市街と郊外での眺め トルファン市街と郊外での眺め トルファン市街と郊外での眺め
トルファン市街と郊外での眺め トルファン市街と郊外での眺め トルファン市街と郊外での眺め トルファン市街と郊外での眺め トルファン市街と郊外での眺め トルファン市街と郊外での眺め トルファン市街と郊外での眺め

トルファン市街では真新しく立派なトルファン博物館も訪ねた.ここウイグルで発見された大型恐竜の化石やら,仏教遺跡の複製画,あちこちに残された文書など幅広く展示されている.中国から西域各国との往来,交流があった地方だけに色々な文字で記されたドキュメントなどは全然読めないが,なかなか興味深く眺めさせてもらった.写真禁止なのが残念だった.

高昌故城Ancient city of Gao Chang

高昌故城へロバ車で行く

ロバ車で行く

高昌故城は,中国では紀元前の前漢頃~唐の初めころ,日本では弥生時代~飛鳥時代の始まり頃,約1000年に渡り西域はこの辺りで栄えた高昌国の都だったそうだ.バスは高昌故城改札口の直ぐ脇で停まり,改札を抜けロバ車に乗って故城中心部へと向かった.

故城は外城,内城,宮城それぞれ同心の四角形城壁で囲まれ,外城外周は5kmに達するそうである.しかし今眺めると,所々断続的に盛土が見えるだけで,素人目には全体構造はある程度想像力を働かせる必要があろう.


微かに残る高昌故城の仏画

微かに残る仏画

ここは仏教寺院跡だそうで,外壁には仏画の一部が微かに残っている.建物は主に版築(板で挟まれた間に,小石や砂利,藁など混ぜた粘土を突き固める工法)が用いられたようである.

7世紀,高昌国末期(結果として)の頃,三蔵法師(玄奘)が経典を求めてインドに向かう途中ここに立ち寄った.当時の国王は大変熱心な仏教徒で,家臣共々法師のレクチャーを受け,エラく感銘を受けたそうだ.一方,唐の中央政府からは三蔵法師は密出国者として手配するようお触れが出ており,国王はさてどうしたものかと大いに悩んだ.しかし,法師の熱意にほだされ,インドからの帰路にまたここ高昌国に寄ることを条件に,路銀を与えて送り出したそうな.ところがインドから無事経典を携えて長安に戻るとき,当の高昌国は唐に滅ぼされて,既になく,立ち寄る約束は果たせなかったそうである.命に背いてサポートしたこと自体直接滅ぼされた要因ならずも,唐の意に必ずしも従わないというそうした態度,即ち敵国として攻められたのであろう.当時から中国は強大な覇権国家だったであろう.


高昌故城は軍人免費

軍人免費

ここは高昌故城のチケット販売窓口.軍人免費と掲げられているので軍人はフリーパスのようである.ここだけでなくカレーズも,他の観光地も見た限りでは皆「軍人免費」が掲げられていた.軍人は皆人民解放軍に属しているのであろうか?解放とは逆の行動に見えるケースも間々窺えるが.

脇の濃いグリーンの中国郵政のポストはなかなかシックでいい.消火器でもあるまいし,改めて考えてみれば別に赤い必要はない気がする.それにしても歴史的にとても貴重な遺跡だと思うが,中国ではこうした遺跡がいっぱいあるためか実に質素な案内/チケット販売所だ.


下は,高昌故城の写真

高昌故城の写真
高昌故城の写真 高昌故城の写真 高昌故城の写真 高昌故城の写真 高昌故城の写真
高昌故城の写真 高昌故城の写真 高昌故城の写真 高昌故城の写真 高昌故城の写真

アスターナ古墳群Astana Karakhoja tombs

アスターナ古墳入り口

古墳に入る

アスターナ古墳は古くは紀元前3世紀,上述の高昌国の共同墓地から始まり,新しくは唐代までの人が埋葬され,全部で2000余りあるそうだ.過去に盗掘されたものを主に456基が発掘調査され,その中の幾つかが公開されている.私たちは3箇所の地下墳墓に入って見せてもらった.ただし写真禁止である.

中の1つはイランとか或いは中東出身と思しき家族の墓で,西域の風物を描いた壁画などで満たされていた.この地に骨を埋めたが,遥か故郷を偲びつつ亡くなったのであろう.

また夫婦ミイラが2つの棺に収められた墓にも入った.エジプトのミイラのように遺体のミイラ処理を行ったのではなく,自然処理でミイラとしたように見える.奥さんの方がかなり長身で,事前の夫/妻,どちらがどちら?の質問には皆悉く外していた.


アスターナ古墳群6月の気温は44℃くらいに

6月の気温は44℃くらいに

古墳群改札口の脇に気温データが掲げてあった.これによれば訪れた6月は44℃くらいまで上がるようだ.実際午後はそれぐらいになっているかも知れない.無論陽の当たっているところは灼熱という感じだ.ボードに記されているが年間降雨量が16mmと少なく,空気も乾いている.ミイラの適地ではあろう.

ところで現在の中国の墓地であるが,一般には火葬であるそうだ.ただし新疆ウイグルでは,もちろんイスラムの人たちはメッカに顔を向けた土葬,そうでない人達も土葬にする慣わしだという.


下は,アスターナ古墳群の写真

アスターナ古墳群での眺め
アスターナ古墳群での眺め アスターナ古墳群での眺め アスターナ古墳群での眺め アスターナ古墳群での眺め

火焔山とベゼクリク千仏洞the Flaming Mountains and the Bezeklik thousand Buddha caves

トルファン郊外の火焔山

火焔山

ベゼクリク千仏洞に向かうとき,赤い岩肌が火炎のように縦に侵食された模様が特徴的な火焔山を眺めながら行った.山は主に砂岩で,高さ500mくらいで98kmに渡って連なっているようだ.今でこそトルファンのあるタリム盆地は殆ど雨が降らないが,縦方向の侵食は,降水による集約した水の流れによって地表面が削られてできた地形だそうで,ガリー(gully)と称されるそうだ.単純には想像し難いが,太古にはここも雨が多かったのだろう.

ウイキペディアを見てみると,漢の伝承では,火焔山はサルの王が天界で窯をひっくり返した残り火が地上に落ちたものであるそうな.また西遊記では,「美猴王」と名乗っていた頃の孫悟空が閉じ込められていた八卦炉から脱出した際に壊れた八卦炉の破片が地上に落ちたものとされているそうである.


ベゼクリク千仏洞

ベゼクリク千仏洞

トルファン郊外のへゼクリク千仏窟は火焔山の中腹にあって,脇を川が流れている.砂漠の中の川なので緑が映えて美しい.ヘゼクリク千仏窟は南北朝時代,西域では高昌国末期頃から掘り始められ以降,唐,宋,元に渡る長い年月で堀増しされてきたようだ.長く西域仏教の中心となっていたが13世紀にイスラムが伝わり,次第に仏教は衰退,偶像崇拝を禁ずる立場からヘゼクリク千仏窟もかなりが破壊されたそうだ.ただ一部破壊を免れた石窟は砂に埋もれて,壁画などがうまい具合に保存されたようである.

だが,20世紀初頭に入るとドイツ隊など各国探検隊が壁画,写本,仏像などを探検の収穫として自国に持ち帰った.とりわけコック率いるドイツ隊は膨大な量の壁画を切り取ったのだが,その後の第二次世界大戦で爆撃を受け,全てが失われてしまう,という残念な結果になってしまったそうだ.

その後文化大革命での破壊などさらに加えられたが,それでもまだ幾らか残っており,私たちはその幾つか,具体的には20,26,27,31,33,39の各窟を見物させてもらった.ガイドOさんに,千仏窟の千仏は千の仏ではなく,たくさんの仏の意味ですよ,とレクチャーを受けていたが,確かに壁や天井には夥しい仏像が描かれている.一部顔の肌部が黒く異様だったり,当時黄金より高価だったというラピスラズリの青が鮮やかだ.顔の肌部など黒くなっているのは顔料に鉛が含まれているからだそうで,含有量に応じて黒変するようだ.また大半の顔は偶像崇拝を禁ずるイスラム或いは文革時の紅衛兵によって眼の部分が抉られており,ポートレート写真同様最も大切な部分だけに痛々しい.



下は,火焔山とベゼクリク千仏洞辺りの写真

火焔山とベゼクリク千仏洞辺りの写真
火焔山とベゼクリク千仏洞辺りの写真 火焔山とベゼクリク千仏洞辺りの写真 火焔山とベゼクリク千仏洞辺りの写真 火焔山とベゼクリク千仏洞辺りの写真 火焔山とベゼクリク千仏洞辺りの写真 火焔山とベゼクリク千仏洞辺りの写真 火焔山とベゼクリク千仏洞辺りの写真

ベゼクリク千仏洞は断崖の中腹に掘られている.窟の前に計測器が置いてあり,崩れやすい地形の変化を観測しているようだった.

交河故城the city of Joining rivers

交河故城

交河故城

交河故城は東西を2つの河に挟まれた台地状の土地に築かれた街で,河に接する部分は断崖となっている.素人目にも,そのまま要塞にできることが判る.ここが築かれたのは高昌故城よりさらに古く,前漢(206BC)から三国時代の頃,日本では縄文期から弥生時代の頃に当たるようだ.残っているのは多分版築工法で築かれた土建物の壁部分や道路で,バッテリー切れで撮れなかったが高昌故城の寺同様,窪みのある壁に描かれた仏画の一部を見ることができた.乾燥した土地とは言え,2000年も昔の雨ざらしの壁画が残っていることには全く驚く以外ない.

漢王朝の重要な屯田地として使われたり,上述の高昌国の軍事的拠点として活用された歴史があるそうだ.また三国時代以降もウイグル王国の一都市として存続したが,元代末期,チンギスハンの遠征途中で完全に破壊されてしまったそうだ.チンギスハン軍に破壊された場所はいくらでもあるが,日本も神風が吹かなければ徹底的にやられていたかも知れない.吹いて良かった.


下は,交河故城の写真いろいろ

交河故城での眺め
交河故城での眺め 交河故城での眺め 交河故城での眺め 交河故城での眺め 交河故城での眺め 交河故城での眺め

蘇公塔(オーミン塔)Sugong Minaret(Emin Minaret)

蘇公塔(オーミン塔)全景

蘇公塔全景

トルファンの二代目郡王スレイマンが,父親オーミンホツォに与えた清王朝の恩に報いるため,そして父を偲ぶために,1778年に建てたというイスラムモスクとミナレット.モスクの礼拝堂は主に木材とレンガの構造で,1000人が入れるそうで,現在も近くの住民の礼拝に活用されているという.

ミナレットはレンガ造り44mの高さで,シンプルなアラベスク模様が浮き出されている.簡素にして重厚な感じだ.


墓地と干しブドウ小屋

墓地と干しブドウ小屋

モスクの脇は墓地になっている.キリスト教会に墓地があり,仏教寺院の一画に墓地があるのと同様だ.ただイスラム墓地は,仰向けで右に向けた顔がメッカの方向に向くように埋葬されるため,お棺は皆同じ方向に並んでいる.お棺の断面形状はここでは桃形や卵形が多いようだ.

墓地の先はブドウ畑,そしてメッシュ状壁の干しブドウ小屋が見えている.ブドウ畑と干しブドウ小屋はトルファンの象徴的光景だ.



下は,蘇公塔のいろいろな写真

蘇公塔での眺め
蘇公塔での眺め 蘇公塔での眺め 蘇公塔での眺め 蘇公塔での眺め 蘇公塔での眺め


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