このブエノスアイレス編では,2013/2/10(日)ブエノスアイレス観光で回ったときの街の眺め,レコレータ墓地,コロン劇場,大聖堂,5月広場周辺,カミニートの写真,またアトランタ経由で帰国のときの写真を載せました.
De Las Americasホテル前の通りで,都心に近い.この街は南米のパリと言われるそうだが,確かにそんな雰囲気だ.
ここでカメラを肩にぶら下げていたら,40代くらい,土地の女性がご親切に『こうしてしっかりホールドしてなさい』と,両手で胸の前で支える仕草でアドバイスしてくれた.また,『カメラは泥棒の大好きなアイテムの一つだから』とも.ブエノスアイレスは泥棒や強盗が多く,物騒な街だそうで,お上りさん丸出しでは危険極まりないそうだ.
ホテルから歩き,サンマルティン広場にやって来た.同名の馬上姿の銅像が陽に輝いている.サンマルティンの名は,ペリトモレノ氷河のページ,ウシュアイアのページでも触れたように,そこかしこの広場や通りにその名が付けられる偉人だ.アルゼンチン軍人/政治家で,南アメリカ諸国のスペインからの独立に尽力した偉大な解放者ということだ.
サンマルティン広場の隣にあってアルゼンチン空軍広場と呼ばれるようだ.左は高さ59mの塔は,直径4.4m(でかい!)という時計を載せ,当初『英国塔』(Torre de los Ingleses)と称され,1916年のアルゼンチン独立100周年記念で,英移民が建てたという.確かに時計が嵌めこまれている辺りが英風だ.
ただ例のフォークランド紛争(マルビナス紛争)以降は,さすが英国塔ではあたかも日本で竹島を独島と呼ぶようなもの(ちょっと違うが)で,『空軍塔』に改称されたそうだ.なお空軍は広場に面した右手の建物だそうだ.
広場には巨大なゴムの木があった.葉っぱをみると,確かに日本で観葉植物として鉢植えされるそれと同じだ.ブエノスアイレスは南緯34.3度で,大阪と同じくらいの緯度だが,よくもまあこんなに育つものだ.何が違うのだろう?
ブエノスアイレスの人達の昼食は遅いのでまだ客は少ない.幅広い歩道のレストランもやはりパリ風だ.特に夏のこうしたところでの食事はいいだろう.
写真の真ん中辺りにピンクに見えているのは酔っぱらいの木の花(Palo borracho)と呼ばれるそうだ.トックリヤシのようなメタボ腹形の幹が酔っぱらいを連想させると云うのがその由来らしい.今が盛りで,たくさん咲いている.この大通りにはジャカランダの木も多いのだが,今は季節でないので狂い咲きの数輪が見える程度だ.数ヶ月すれば一面青くなるであろう.
共和国広場(Plaza de la Republica)にあり,1936年ブエノスアイレス創設400周年を記念して建てられたオベリスク(Obelisco)たそうだ.高さ68mというから相当目立つ.
アルゼンチン経済は大変な状況にあるとされるが,こうして通りを見ていると大きなクレーン(左上)などもあり,止まっているという訳ではなさそうだ.
下は,ブエノスアイレスの街での写真
都心近くのレコレータ墓地を訪ねた.実に立派なお墓が整然と並んでいる.限られた土地なので,ブエノスアイレスで余程の名士,名家でないことにはここで眠ることは叶わないそうだ.一定のサイズに区画された墓所内部は,一般に地下室が2,3階あり,そこに設けた棚に棺が安置されるということだ.
ガイドTさんの話では,日本人/日系人でここに収まった人はまだいないそうだが,既に亡くなり,ここに収まったある著名作家の日本人の奥様が,もし亡くなったら,ここに入る初めての日本人になるのでは.....と噂されているそうだ.日本では縁起でもない,と言われそうだが.
混み合う一画があった.墓の前で順繰りに記念撮影などしている.亡くなっても有名な方のお墓だそうだ.
その人物はエビータ(Evita)の愛称で親しまれた,元アルゼンチン大統領フアンペロンの妻エバペロンだそうだ.エビータは貧しい寒村で私生児として育ったが,タンゴ歌手の愛人,ラジオの仕事,女優...などと成長.やがて陸軍大佐ペロンと知り合い,大統領夫人となった.その這い上がりへの共感や,貧民対策なの評価で,今も人気が高いのだそうだ.
ガイドTさんの話で,エビータの大きな功績の一つに,国民皆無料医療制度があるそうだ.エビータが自らの育ちに照らし,法制化したという,貧しい人も皆無料で医療が受けられるという制度だそうだ.ただ近年の大変な財政状況で,政府は有料化に変えたいのだが,エビータの理念や国民の声から,なかなかできないでいるそうだ.いやそれどころか,ボリビアなど周辺国から患者が,バス仕立てで大挙してアルゼンチンに入ってきて,アルゼンチンの税金で賄われる安い診療や薬を享受しているのだそうだ.エビータの理念では外国人でも差別できないという.でも現在国立病院の入院患者の半分は外国人が占めるそうで,いくら何でも...と同情したくなる.
下は,レコレータ墓地での写真
ガイドTさんが,あの人達に気を付けて,と耳打ちしてくれた若いカップルが後ろから付けてきた.レンズを向けると,さっと腕を上げて,顔を覆った.後で,件の女性がTさんに近づき『どうして写真を撮ろうとしたのか?』と詰問し,Tさんは『さあ,可愛いからじゃない』と,とぼけてみせたそうだ.レコレータ墓地にはいつもスリがいるそうだ.なおカップルはごく普通で善良な市民が,散歩を楽しんでいる,風な装いと行動(一見)だった.
撮る位置が悪いのか,腕が悪い(多分こっち)のかこれだとあまり大した建物には見えないが,これが有名なコロン劇場だそうだ.ホテルから近いので,朝散歩した人の話では大勢が列を成していたそうだ.日曜日であるから特に多いのかも知れない.
パリのオペラ座,ミラノのスカラ座と並んで世界三大劇場の一つに数えられるそうだ.数階のバルコニーから成る客席は3500人収容でき,オペラなどで素晴らしい音響が楽しめそうだ.
コロン劇場の斜向かいにあるこの建物は最高裁判所だそうだ.特別訪ねたのではなく,コロン劇場の外観見物でたまたま見えただけ.でもなかなか重厚なデザインですね.
こちらもついでにコロン劇場の横に見えただけ.それにしても小学校がどうしてこのように凄い建物なんだ?という寸評が皆の口から漏れる.
コロン劇場を後にし,私たちは港に近い,旧倉庫街に向かった.この辺り一帯は倉庫街であったが,近年アメリカ資本が丸ごと入手し,全リニューアルを施し,一大ショッピング街に生まれ変わったのだそうだ.横浜の赤レンガ倉庫のような感じか.
私たちはCabana Villegasレストランで昼食となった.最後のアサードで,300grビーフもこれで食べ納めだ.ワインも美味しかったし,アルゼンチンはいいところだ.(←食べ物とアルコールに釣られるタイプだ)
下は,リニューアル港街での写真
え~っ,これが大聖堂!というのが皆の一致した正直な感想だ.私ももち論びっくりした.これではギリシャの古い建物,グレコローマン様式,....ではないか.アルゼンチンはカトリックの国だから,少なくとも街には一つの大聖堂(Cathedral)は在るはずだが,その外観はゴシック様式とかロマネスク様式とか....に決っているものと思っていた.
1720年建立で,写真正面12本の柱(1本は写真からはみ出ている)はイエスキリストの12人の使徒を象徴しているという.
でも中に入って見ると,完全に伝統的な大聖堂/カトリック教会のデザインだ.主祭壇前の大礼拝堂の壁や天井は装飾的で荘厳だ.
ステンドグラスも嵌め込まれている.聖書に関わる物語を図解したものであろうが,私には分からない.でも単純に綺麗だと思う.
主礼拝堂の右側に設けられているのは,これまで幾度となく登場したサンマルティン将軍のお墓だ.やはり国の英雄で,二人の衛兵が見守っている特別な人だ.
ちょっとこの写真でははっきりしないが,モザイクの床なども見事なものだった.
下は,大聖堂での写真
大聖堂の前が5月広場(May Square)で,その前にはピンクの大統領府(Casa Rosada/バラ色の家)が見える.
5月広場は独立運動が始まるきっかけとなった1810年5月25日の『5月革命』に由来するそうだから,もう200年あまり前に遡る.
広場中央,写真右側の白い塔は『5月のピラミッド(Piramide de Mayo)』と呼ばれ,革命一周年を記念して1811年に建てられたそうだ.そしてその基部には革命の日25MAYO1810が刻まれている.
ガイドTさんに説明してもらったところ各種団体の抗議や要求のアピールを認めたものだが,具体的内容な....思い出せない.何れにしても,色々な声があるのだ.どこの国でもそうだが.
5月広場右隣り,地下鉄Plaza de Mayo駅(5月広場駅)脇の横丁では日曜市場が開かれていた.天気もいいし,日曜なので大勢歩いている.
アルゼンチンタンゴやアルゼンチンの風景を描いて販売している.この辺りは絵描きやさんが集まり,それぞれの得意分野の作品を並べていた.水彩画が多いようだった.
アルゼンチン名物マテ茶専用の茶碗を取り揃えている.瓢箪を加工したものやその上にアルミ材で覆ったものが多いようだ.掌で受けるように支えるのがマテ茶作法なので,取手が付いていないのが普通の茶碗との最大の違いか.また無くとも手が熱くないように陶器ではなく,瓢箪になったのであろうか,或いは瓢箪で熱くないため取手を省いたか....
下は,5月広場周辺での写真
カミニート(Caminito)と小径の意味だそうだ.イタリア移民が初めて移り住んだエリアで,貧乏だったため,まとまったペンキが買えず,船舶に用いた残りのペンキを貰って,少しずつ塗ったため,このように原色で小分けされた色彩になったという.
このちょっとどうかと思う色彩感覚は,ある意味刺激的で斬新であったのか,もうひとつの呼び物『タンゴ発祥の地』と合わせて観光地として発展していったようだ.
なおカミニートはボカ地区 (La Boca)に属し,入り口近くには強豪Bocaチームのホームグラウンドがあった.
この人は路上で観光客を相手にタンゴを舞うエンターテイナーだ.右側が確か女性のダンサーだ.
正面はアルゼンチン銘菓の販売店で,良く売れていた.二階の窓からサッカープレーヤーのマネキンと並んだ写真を撮る人も多く,銘菓の看板男になっている.
アルゼンチンならやはりサッカーであろう.カミニートにもサッカーチームのユニフォームやペナントを売るお店が幾つもある.
路上レストランでは専属ミュージシャンがアルゼンチン音楽を演奏し,客を集めている.
こちらのレストランではアルゼンチンタンゴを披露している.いあ~なかなか激しい動きで,しかも腕力も要りそうだ.
空き地の壁にはBocaの落書きがあった.ボカ共和国の意かな~?だとするとかなり政治的メッセージの強い落書きだが....
12,3歳くらいの少年が独りで,黙々とこの壁目掛けてサッカーボールを蹴っていた.
下は,カミニートでの写真
ブエノスアイレスの観光を終えて,バスでエセーサ空港にやって来た.ガイドTさんお世話になりました.ここから成田まで長い行程だが,まずはアトランタに向け,ここを発つ.
エセーサ空港はここのゲートでの荷物検査が厳重だ.エアライン(デルタ)職員が一個一個荷物を開けて調べている.
そして乗り込んだ機体はB777-200で,10時間あまりの長いフライトの末,アトランタに到着した.
さてアトランタではまた相当時間がある.やはりフードコートで飯でも食うしかないか....ということで,アジアンディナーのPEI WEI(中華風だな)に行って,珍しいかな~と思いモンゴル丼を頼んでみる.その結果右のものが出てきた.味はまあこんなものだろう.
ほぼ真夜中11:55デルタ航空DL-295便は成田へ向け,アトランタを飛び立った.機中では軽食も入れて3度も食事を出してくれて,平らげる.そして往きより少し長い飛行で,午後4時過ぎ成田空港に到着した.
成田で入国手続きし,荷物を受け取り,皆さんとお別れする.長い間お世話になり,ありがとうございました.
成田からは京成と半蔵門線,東急で帰宅した.おしまい.