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太宰府天満宮

この太宰府天満宮編では,2020年11月26日,熊本から福岡県に入り,太宰府天満宮を参拝し,ここを離れ次に向かったときの写真を載せました.

太宰府天満宮付近のGoogleマップ

太宰府天満宮はマーカー14に位置している.

福岡県に入る

熊本県から福岡県に入る

熊本県から福岡県に入る

熊本城見物の後,バスで北上し福岡県に入った.正しい位置は不明だが,この辺りは農業地帯でビニールハウス群では多分野菜栽培が行われているようだ.


太宰府市に到着

太宰府市に到着

少しして太宰府市に到着した.マップを見ると同市は福岡県の中央に位置し,福岡市と近いようだ.

そしてバスを降り門前町を歩き天満宮に向かった.きれいな石畳の道脇には,著名神宮の参道だけにお土産店はじめ参拝者向けお店が数多く並んでいる.


太宰府天満宮

太宰府天満宮に至り表参道を歩く

太宰府天満宮に至り表参道を歩く

太宰府天満宮に至り,最初の石の鳥居をくぐり,表参道を歩いた.

少し行くと先方に延寿王院と称されるかつて宿坊だったというお屋敷の門が見えてくる.そしてこの辺りで参道は左方向直角に折れ,2番目の石鳥居が現れる.

ところで,改めて太宰府天満宮と言えば学問の神様菅原道真公を祀った神社で,全国に道真公を祭神とする天満宮はおよそ12,000社もあるというが,その総本宮的位置にあるそうだ.初詣や受験生のお参りなどで非常に多く(年間850万人という)の参拝者が詰めかけるのはテレビでよく見る.

道真公は文人,また学者....多分野に秀でた著名な人物であったが,同時に政治家,役人でもあり,その闘争に破れ,左遷されこの地に下り,そして落命したようだ.それ故ここに祀られるに至ったのだ.


延寿王院

延寿王院

上述の延寿王院山門に近づいて見る.シンプルで力強いデザインだ.

延寿王院は天皇より院号を賜ったという安楽寺天満宮留守別当大鳥居家の宿坊だったところで,現在は宮司邸となっているようだ(すると山門と呼ぶのは変ですね).幕末には西郷隆盛,高杉晋作ら大勢の勤皇の志士が出入りし,明治維新の策源地となったそうである.


太宰府天満宮御神橋

御神橋

参道左に折れ,第二の石鳥居をくぐると,心字池かあり,そこに架かる3つのタンデムに連なる橋を渡る.3連橋は太鼓橋-平橋-太鼓橋の構造で,過去-現在-未来の三世一念という仏教思想に基づくという.こうした大きな神社でも神仏習合が採り入れられていたのですね.延寿王院もそうですが.

太鼓橋の半径はかなり小さく,従って急勾配であるが,敢えて渡り辛くし,人の俗世界と神のエリアの隔たりの大きさを感じさせるためだそうだ.3つ渡ることで過去から未来までの邪念を捨て,心字池の水で清め神の元に向かうのだそうだ.

心字池は漢字の心を形どっているそうであるが,橋の上からはその一部しか見渡せないので判らなかった.ただ池の周囲には樹木が茂りとても美しい.


太宰府天満宮3つ目の石鳥居をくぐる

3つ目の石鳥居をくぐる

未来の太鼓橋をすぎると3つ目の石鳥居が現れ,これをくぐる.

そして先方には赤い楼門が見えてくる.


太宰府天満宮赤い楼門

赤い楼門

とても大きな赤い楼門(ろうもん,または二重門)の前に来た.上は入母屋造り,下は回廊下をぐるりと囲む寄棟造り(の下部)2層屋根構造だ.屋根は大きな寺社建築でよく見られる檜皮葺であろう.現楼門は明治時代に消失した門を,大正時代に再建したものだそうだ.

一般に神社の門は鳥居だが,ここはそれ以外にこうした立派な楼門(二重門)も備えている.これは太宰府天満宮が安楽寺(または安楽寺天満宮)だった頃の名残ではないかと,同宮サイトに記されていた.

そう言えば,やはり大きな神社香川の金比羅さまにも楼門タイプの大門(おおもん)があったな~


太宰府天満宮楼門の随身

楼門の随身

楼門左右には弓矢を携えた武人像が据えられている.貴人のシークレットサービス,護衛武官で,穢れや災の侵入を防ぐ役割を担っているそうだ.

随身はお寺さん山門の仁王像(金剛力士像)と少し似たような役割でしょうか.ただ仁王像は一般にシンプルな単色の装束ですが,随身武官はとても華やかな装束を纏ってますね.

現楼門が大正時代の再建であることを上述したが,実はそれより遥か昔にも,戦乱で全体的に荒廃し,小早川隆景や黒田官兵衛らの寄進で再興した経緯があるそうだ.特にこの楼門に関しては石田三成の尽力によるところが大きかったそうだ.


太宰府天満宮本殿

本殿

右大臣であった菅原道真は901年(昌泰4年)に左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に員外帥(いんがいのそち:中央で失脚した大臣経験者の左遷ポスト)として左遷され,その2年後903年,57歳のときこの地で死去したそうだ.随分と短い期間だったわけだ.

それから2年後,905年(延喜5年),道真公の遺骸を安楽寺に葬ろうとしたが,葬送の牛が動かなくなり,きっとこれは道真公のご遺志なのであろうと,弟子である味酒安行(うまさけ やすゆき)がそこに廟を建て天原山庿院安楽寺と号したそうである.やがて都では疫病や異常気象が起こり,これは道真公の祟りではなかろうかと云うことで919年左大臣藤原仲平が醍醐天皇の勅により廟の上に社殿造営を行なったという.そしてその名称は安楽寺天満宮となったそうである.ただこれで道真公の祟りが収まることなく長く災いが続いたそうだ.

この名称は明治時代に太宰府神社に変更されるまで続き,戦後社号は今の太宰府天満宮になったそうである.


太宰府天満宮本殿周囲

本殿周囲

本殿周辺は楼門を含めて四角く囲まれている.おみくじやお守り,御札....等々販売されている.御朱印などもあったと思う.初詣などでは押し合いへし合いになるのは容易に想像できるが,今度2021年のそれはちょっと違ってきて,密は避けられるであろう.

天満宮の御神木であり,また道真公が生前梅をこよなく愛し,和歌や詩に詠んだそうである梅の木(飛梅:とびうめ)も植えられている.何でも道真公が左遷され,都を離れる日,幼い頃より親しんできた紅梅殿(図書館の一つ)の梅をモチーフに一首詠み,そして大宰府に到着すると,道真公を慕ったその梅は一夜のうちに道真公の元へ飛んで来たということだ.詮索するのはどうかと思うが,実は都で小枝を一本折り,ここに着任したときそれを挿し木したのでしょうか.....


太宰府天満宮入口近くの御神牛

入口近くの御神牛

御本殿をお参りし,元の道を辿り戻った.入り口近くには黄銅製の牛が鎮座していた.これは上述の道真公の遺骸を安楽寺に運ぶ牛車を引く牛が,途中で座り込んで動かなくなった,と云うその場所と姿であるようだ.

この御神牛の顔を撫でると知恵を授かるということで,顔がピカピカしている.爺にはもう遅いが.


太宰府を離れる

太宰府を離れる

太宰府を離れる

太宰府天満宮をお参りしたので,またバスに乗り関門海峡の新門司港に向かった.

途中,あの辺は元寇襲来に備えた土塁跡ですよ,と案内されたのは興味深い.元(モンゴル帝国)は征服した国の兵士や将校を積極的に登用し,版図拡張したが,日本やベトナムへの襲撃もやはりモンゴル兵は少なく,海戦には不慣れな漢人兵が殆どで,かなりの戦死者を出しながらもこうした防御を固めた日本,またベトナム辺りでは敗退させられたのでしょう.