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熊本城

この熊本城編では,2020年11月26日,都城を離れ熊本へ進み,熊本城を訪れ見物,その後熊本を去るときの写真を載せました.

熊本城付近のGoogleマップ

熊本城13は熊本の県都に位置し,都城12からバスで進んだ.

都城から熊本へ

宮崎県内の飼料畑

宮崎県内の飼料畑

昨夜はすき焼きだったが,宮崎県で肉牛が多く育てられているのは前述したとおりだ.都城を離れ,熊本に向かって北上すると刈り取られた飼料畑に白いビニールシートで巻かれた飼い葉が転がっている.発酵中なのかも知れないですね.


熊本県に入り八代市辺り

熊本県に入り八代市辺り

バスは宮崎県を過ぎ熊本県に入った.ここは八代市辺りのようだ.車窓からは見えないが,左側は水俣湾であろう.

八代と言えば八代亜紀ですね.歌はもちろんいいが,たまたま二科展で大きな油絵も見たことがあったが,こちらもなかなかだと思う.


熊本市に近づく

熊本市に近づく

熊本市に近づいた,いや既に入ったか.道路と並行したり,或いはクロスしながら流れる川の眺めが美しい.

いろいろ詳しいガイドさんによれば,水前寺清子さん(そう言えば居りましたね)は熊本市出身で市内水前寺と加藤清正の清が名前の由来だそうだ.


熊本市中心部に至る

熊本市中心部に至る

バスは熊本市中心部に至った.同市は熊本県県都で,人口74万人弱の九州で三番目(福岡市,北九州市に次ぐ)の政令指定都市という.現市街は細川氏(あの細川内閣を築いた細川護熙元首相の家系ですね)熊本藩54万石の城下町を基礎に発展してきたそうだ.


熊本城

熊本城に至る

熊本城に至る

熊本城に到着した.城の南側は自然の川が流れ,これが水堀の機能を果たしているようだ.マップで見ると坪井川のようであるがちょっと不確かだ.

私達のバスはこの川を越えた城下の駐車場に停まった.停車バスはかなり疎らだが,それでも修学旅行バスなどそれなりに停まっていた.一般に高校生などの修学旅行はこれまで九州外であったのだが,今年は九州から出ないでとのお触れが発せられているようだ.

さて尾張出身,豊臣秀吉(1537年-1598年)の小飼,勇猛果敢で知られる戦国武将加藤清正(1562年-1611年)が1600年関ヶ原の戦いの行賞で肥後一国52万石の領主となり,1607年茶臼山台地に築城したのが熊本城.肥後に入った清正は,それまでの戦乱で荒れた同国を立て直すため治山治水事業,開墾事業などに注力.その成果は大きく今も現役のものもあるという.さらに南蛮貿易等も推進し肥後経済を発展させ,領民から神様のように慕われたそうである.現に城内に加藤神社が祀られており,私も参拝をトライしたが,辿り着けなかった.

清正亡き後の加藤家は藩財政の疲弊や御家騒動で城の修理もままならず,代わって細川忠利が入り,熊本城の増改築を推進したということだ.なお細川護熙元首相は細川忠興から数えて第18代目細川家当主になるそうだ.

1874年(明治7年)には城内が陸軍用地に編入され,熊本鎮台本営が移転.1877年(明治10年)には西南戦争の火災で天守,本丸御殿などを焼失.1960年(昭和35年)鉄骨鉄筋コンクリート造で大小天守を再建.2016年(平成28年)熊本地震で被災,以降復旧に着手継続中,という状況にあるようだ.


熊本城のショッピング街

熊本城のショッピング街

駐車場の脇にはお土産店,レストラン,カフェなど並んだショッピング街が用意されていた.建物は統一されたコンセプトで造られており,きれいだ.店舗数から見ると今でこそ空いているが,ウイルス問題がなければ混み合うのでしょう.


熊本城未申櫓(ひつじさるやぐら)

未申櫓(ひつじさるやぐら)

ショッピング街から階段で上ると真ん前にこの立派な建物が現れる.櫓は奉行丸と称される高い石垣で囲まれた奉行所エリアの南西角に建てられている.「未申」はズバリ南西の方向を指すそうで判りやすい.

奉行内にはきっと城内の行政など担当する役所があったのであろうが,現在建物は残されていない.

未申櫓は2003年再建され,監視と防御行うためであろうが,定石通り石垣の角地に,バルコニーがオーバーハングして設けられている.この下には銃眼,さらに油や石落とし孔があるのではなかろうか.なお石垣稜線に沿う板張り側壁にもところどころ銃眼が見えている.

石垣はあまり大きくない石で積まれ,隙間が小さな石でびっしりと埋められている.このモザイク模様が美しい.石垣の傾斜(dy/dx)は指数関数的に増大し,取付きは容易だが,上に来るとなかなか動けなくなりそうだ.そこを上のオーバーハング床孔から矢や銃を射るのであろう.


熊本城戌亥櫓(いぬいやぐら)と崩落した石垣

戌亥櫓(いぬいやぐら)と崩落した石垣

戌亥(=北西)の方向に建つ櫓.前述の未申櫓とよく似たデザインだ.空堀の内側に積まれた石垣の角に建てられている.

その石垣は,写真左側で大きく崩落し,言わば建物本体の基礎が崩れたわけで,一先ず下側に支えを加える応急処置を採っているようだ.


復興見学ルート

復興見学ルート

復興見学ルートの立て看板があった.ただこのルートが私には難解で,はてどこが歩いていいのやら,行ってはまずいのか....理解出来なかった.例えば加藤神社にカメラのアイコンが有るので,そこを目指したが行けなかった(涙)


熊本城天守

熊本城天守

熊本城天守は右側の大天守棟と左側の小天守が繋がれた構造になっているようだ.一般に大きな天守(天守閣)一棟と云うのが多いので珍しいと思う.

小天守にクレーンが伸びているように,今も復旧工事中だ.この写真では見えないが,小天守下の石垣には忍び返し(若しくは武者返し)が設けられているそうだ.きっと鼠返しを大型化したものと思っていいだろう.

大天守の外観は写真の方向では千鳥破風が3つ見える3重屋根,内部は見えないが地上6階地下1階建て構造という.

なお熊本城は名古屋城,大阪城とともに日本三名城の一つということだ(別の説もあるそうだが).熊本城はこの大小天守閣をはじめ,49の櫓,18の櫓門,29の城門を備え,当時築城の名手との評価があった加藤清正の設計で,それはそれは見どころが多いようだ.


熊本城大天守正面

大天守正面

最上階は入母屋屋根造りで,細かいメッシュで覆われた入母屋破風を備え,その下は黒い壁に大きなガラス窓(違うか?)を組み入れた黒壁になっている.この写真では見えないが,最上階左右横壁には唐破風が付いているようだ.全般に白黒モノトーンの落ち着いたデザインだ.


熊本城堀に崩れ落ちた石垣

堀に崩れ落ちた石垣

堀は空堀と水堀を組み合わせたような形式だ.少なくとも空堀の傾斜は緩やかで幅広である.はてどういった防御機能があったのでしょうか.

さて背後の石垣は上述の奉行丸の西側で,左側の櫓は元太鼓櫓であったか....いずれにしても先の地震で石垣が激しく崩れてしまった.幸い櫓の真下でなかったのはまだしも幸いだった.


熊本城戌亥櫓(いぬいやぐら)

戌亥櫓(いぬいやぐら)

これは戌亥櫓(いぬいやぐら)だったと思う.でも他の櫓デザインとよく似ているので違っているかも知れないな~

戌亥櫓であれば,戌亥即ち北西であるのでその角に建っていた筈だ.

写真に載せた櫓は3つであるが,このようなものが49もあったと聞けば,(準)平城でありながらも,もう攻め込むのは大変!!となりそうだ.実際そうだったようで,3名城の所以らしい.


熊本城のぼりを掲げた通り

のぼりを掲げた通り

盛大にのぼりを掲げた通りがあり,歩いてみた.先方は崩れた建物か石垣があり,引き返したと思う.


熊本城の大木

熊本城の大木

見物を終え,階段を下る手前に大木が聳えていた.迫力がある.検索してみると,飯田丸エリア(一般人は立ち入りできず)にあって推定樹齢800年,周囲12.5mのクスノキのようであるが,確信はない.クスノキであればこれくらいの大きさに成長するようだ.


熊本城ステージでは武将ファッションショー

ステージでは武将ファッションショー

ショッピング街に下ると観光客を前にステージでは武将ファッションショー(いや一応アクションもあり)を行っていた.くまモンは登場しなかったかな.....

そしてこの界隈のレストランでランチを食べ,一応九州3大お茶産地の一つという熊本茶や,くまモンクッキーなどGoTo地域共通クーポンで買い求め,宅配便で送った.


熊本城を去る

清正公銅像

清正公銅像

熊本城見物を終え,またバスに乗って次に向かった.すぐ途中に清正公銅像があった.右手で采配を振っている.よく解らないのは工事中標識のように大きなコーン状帽子を被っていることだ.クリスマスの頃なのでその装束かと思いきや,銅像で一年中不変だし.....やはり采配を振る人の権威を示すためかな~


上熊本駅辺りを通過し北上

上熊本駅辺りを通過し北上

バスは熊本駅の少し北に位置する上熊本駅辺りを通過し,北上を続けた.

上熊本にはJR九州,熊本電鉄2つの駅があるそうだ.明治24年(1891年)に池田停車場という名前で設置され,夏目漱石が降り立った駅としても知られるそうで,いろいろ歴史や謂れがありそうですね.