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大阪城

この大阪城編では,JR新大阪駅から大阪城公園へ行き,大阪城を見物し,豊國神社を訪ね,大阪南港へ行くときの写真を載せました.

大阪城付近のGoogleマップ

大阪城3は淀川を挟みJR新大阪駅2の真南辺りに位置している.

新大阪駅から大阪城公園へ

新大阪駅からバスで出発

新大阪駅からバスで出発

新大阪駅からは帝産観光のバスで出発した.ガイドの方が乗り合わせ,通過箇所の案内を述べてくれる.たくさんあるのでとても追いついていけないのだが.

なおこの会社のバスには九州観光後の再訪時,京都,滋賀,福井とまた乗せてもらうことになる.


大阪取引所

大阪取引所

バスは大阪城公園目掛けて南下した.

しばらく走りガイドさんの案内で目を向けると大阪取引所前との看板のある由緒ありそうな建物前を通過した.取引所の前に証券とか商品とか付かないが何の取引?同社サイトを覗くと,東京証券取引所と同列の日本取引所グループ配下に属するようだ.また「市場デリバティブ取引に必要な取引所金融商品市場の開設を目的とし,取引の管理に関する業務,取引参加者の管理に関する業務,その他新商品・新制度の導入・調査研究等を行う」と記されている.ただ市場デリバティブ...云々,難しいなあ~


NHK大阪

NHK大阪

左側は覚えてないが,右側はNHK大阪という,いやそのように看板が掛かっている.かなり大きな規模ですね.


大阪城公園に到着

大阪城公園に到着

繁華街を通過してきたがコロナのためかさほど混み合っておらず,ほぼ予定通りに大阪城公園に着いたようだ.

公園前の大きな駐車場に着くと園内に向け歩いた.松などの常緑樹や,桜や銀杏の落葉樹が多く植えられている.折しも落葉樹は赤や黄色に染まり美しい.


大阪城

大阪城南外堀に建つ一番櫓

南外堀に建つ一番櫓

南側の大きな凹凸ある外堀の一つの内側角(いや隅か)に,二層屋根,白壁の建物(隅櫓というそうだ)が建っている.堀の石垣はj型に美しく積み上げられ,櫓の建つ角部は特に大きな石が積まれている.創建は徳川幕府再築工事の終わり頃1628年で,以降幾度か補修や改良工事が行われたと見られるようだ.

石垣に凹凸を設け,その角にピッタリ合わせて櫓を置くのは2面に銃眼を配置できるなど防衛上有利なためらしいが....よく理解できなかった.

二ノ丸南側の石垣にはこの一番櫓から七番櫓まであったのだが,一番櫓と六番櫓以外は戊辰戦争(明治維新)と1945年(終戦の年)空襲で焼失してしまったという.(なお他の堀にもいくつかの櫓が残されている)


大阪城二ノ丸北側の空堀

二ノ丸北側の空堀

二ノ丸を進むと北側には空堀が巡らされている.二ノ丸北側に掘られ,本丸と隔てる場所にあり,水の張られた内堀と概ね続いた配置である.しかし内堀には水があり,空堀にはない.内堀の底に比べてこの空堀は数m浅いようである.

防御上水の張られた堀が有利と思われるが,土木工事的難度が高過ぎたのか.....それとも,敵に甘いと見せておいて誘い込み,一気に空堀上部から攻撃したのか....


大阪城非常に大きな石塀の石

非常に大きな石塀の石

上記空堀の架けられた渡り橋の先に桜門と呼ばれる門があり,そこを潜ると本丸を隔てる大きな石塀が立ちはだかっている.石塀を構成する石が巨大で,最大のものは蛸石の名が付き,花崗岩で高さ5.5m,幅11m強,厚さ(奥行き)0.5m~0.9m,重さ推定106~140トンと巨大だ.なお蛸石の名は表面の模様が蛸のよう....とのことだ.そう言われれば左下の模様がそれらしいような....

ところでこうした巨石はいかに運搬したのでしょう.花崗岩は大阪城近くでは産出せず,小豆島などの産地から船で陸揚げされ,地面では修羅と呼ばれるそりというか台座というかそうした木製台の下に木製円筒コロを敷き,台ごと移動したのではないかとの説があるようだ.とにかく驚きました.


大阪城天守

大阪城天守

桜門から北に進むと天守が見えた.城郭も広大で立派だが,天守も立派に見える.大阪城(大坂城)の発端は豊臣秀吉が天下統一の本拠地を大阪とし,築城を始めたのが天正11年(1583年)ということだ.当初その城郭規模は現在の4~5倍で,金色に輝く天守を据えたそうである.ただその後大坂夏の陣(1615年)で落城し,徳川幕府再築へと続いていったようである.


大阪城の所有者変遷

大阪城の所有者変遷

入り口には城の所有者変遷の記録が記されていた.上述のごとく豊臣家が天正11年(1583年)着工,完工が天正13年(1585年)で,31年後1615年大坂夏の陣で落城し,徳川方に奪われた.

徳川方は1626年再建したが,40年後落雷で消失したそうである.当時避雷針に関する技術がまだ育っていなかったのであろう.

そして現在ここに聳えるのは1931年(昭和6)五層七階鉄筋コンクリート構造で大林組が復元し,平成の大改修で1997年(平成9)に改修が施されたものだそうだ.そして看板にあるように1931年から既に89年経過し,大阪城天守としては最長寿となったわけだ.

なお天守復元は,近い過去の徳川方の外観ではなく,初代豊臣方天守をモデルにしたそうである.大阪市民には多大な寄付を募ったが,やはり太閤さんの天守で納得できたということだ.解ります,タイガースファンの心境と同じではないでしょうか.


上に行くと大阪の街がよく見える

上に行くと大阪の街がよく見える

エレベータと階段で上に行くと大阪の街,それに向こうのきれいな山並みがよく見えた.往時高い建物はなかったであろうが,連なる山は今同様くっきり望めたであろう.もちろん敵方の動きもよく監視できた筈だ.


大阪城には金鯱が輝く

金鯱が輝く

最上階では四方に金鯱が輝いて見える.なかなかゴージャスだ.金の鯱は五層天守のどの層にも載っているようだ.

これは想像だが,金鯱全てがソリッドなゴールドではなく,金メッキとか金箔貼りとかではないでしょうか......全部金だと盗難のリスクが大きすぎるであろう.


大阪城内部は博物館

大阪城内部は博物館

大阪城内部は博物館,若しくは資料館になっている.一部は写真禁止だ.

この例は豊臣方真田幸村軍と徳川方軍の対峙する場面だ.将兵や馬のミニチュア模型が凛々しく格好いいが,装備は弓や刀で格調高いながら鉄砲の時代にしてはちょっと遅れてはいないか....と意地悪く思ったりしなくもない.

豊國神社

大阪城桜門から去る

桜門から去る

大阪城見物を終え,桜門から本丸外に出た.

出るとき振り返ると巨大石蛸石とその先に天守が見えていた.

この空堀橋は敵方が攻め入りそうな場合には堀に落とし込まれたのでしょうね,多分.


豊國神社

豊國神社

桜門からすぐ近くに豊國神社の鳥居があり,社を覗いてみた.大阪城郭内に在るのが興味深い.

「豊臣秀吉公」「豊臣秀頼公」「豊臣秀長卿」を御祭神とする神社ということだ.有名な石山合戦にて石山本願寺の宗徒が11年という長期に渡り織田信長の猛攻に対抗し続けた場所で,さすがの信長も攻略をあきらめ和睦を結ぶに至ったほど要害堅固な土地であった,と当神社サイトに記されている.

当時は宗教団体も相当強力な軍事力を備えていたのでしょうね.織田信長が尽く僧侶,学僧,上人,児童まで首を刎ねたとされる比叡山焼き討ちに比すれば和睦したのは素晴らしい,と現代でも言えることではなかろうか.


大阪南港へ

大阪南港へ向かう

大阪南港へ向かう

大阪城見物を終え大阪南港へと向かった.途中淀川の支流か,あるいは港湾地区の運河か,吊橋を渡った.陽は低くなりいくらか赤みを帯びてきた.今日一日いい天気で良かった.


大阪南港に着く

大阪南港に着く

そして大阪南港に着いた.私達の乗るさんふらあの桟橋は間もなくであろう.

遠目ながら見える水面も穏やかなのでフェリーも揺れずに済むであろうと期待できそうだ.