鹿児島めぐり
この鹿児島めぐり編では,2020年11月25日朝志布志港に上陸した私達はバスに乗り,最初鹿屋ばら園を訪ね,次に桜島に向かい岡之原町でランチを頂戴し,桜島湯之平展望所に上り,桜島港に下り,桜島フェリーに乗り鹿児島港に渡り,仙巌園を訪れた.その際撮った写真を載せました.
鹿児島めぐりのGoogleマップ
さんふらあで着岸した志布志港5から鹿屋ばら園6→桜島7→湯之平展望所8→桜島港9→フェリーで鹿児島港10→仙巌園11とめぐる.
鹿屋ばら園
志布志港を離れる
私達のバスは,いかにも港らしい倉庫の多い志布志港を離れていった.志布志市の人口は3万人弱ということで,小規模な市だ.やはり港湾関連事業が多いのでしょうか.
関東と比べてシュロか,ヤシのような木が目立つようだ.空は青くいい朝だ.
ミニチュアお城のような立派な民家が目立つ
大隅半島を横切り町や畑を越えて行くが,切妻屋根の下に入母屋造りを付けたような構造で,白い破風が美しい.
左側のお宅はそれが二層になっており,殆どお城のようだ.いや~ゴージャスですね.なおこうした造りは.鹿児島だけでなく,後に訪れる熊本でも目立った.
そしてソーラーパネルを屋根に載せると折角の威容が台無しになるので,ちゃんと横の空き地に敷設している.意外と仰角が小さいものですね.屋根に載せるとどうしても屋根の勾配に倣わせるので,敷地があれば理想的な角度にできるのでしょう.
火山灰の山
バスガイドさんの話で,この山は非常に長い年月に渡り火山の噴火で降り注いだ火山灰が堆積したものだという.こうした小山は道を行くと頻繁に現れる.
写真のように山の側面は木がないが,これは火山灰の土壌が簡単に剥離崩落するためだそうだ.そのため山の周囲に家を建てるのは大変危険で,普通空き地にしておくようだ.
なお火山灰という語感からサラサラしたものと想像したが,とんでもない.火山が噴火し,火山灰や軽石が多量に地表に降り注ぐが,その際急冷されるため結晶化の時間がなく,鋭い突起や角のあるガラス(非晶質)になるものも多いそうだ,微粒子だが目に入ると大きく傷付ける危険があるそうだ.決してこすらないで,清水洗浄が必須という.これはもちろん現代でも変わりなく,土地の人には常識とされているそうだ.
鹿屋ばら園に到着
鹿屋ばら園に着き,園内のバラをいろいろ見せてもらった.本ばら園は霧島ヶ丘公園の東側丘陵地にあり,8haの広大な敷地に3万5千株のバラが植えられ,日本最大級を誇るということだ.バラは春秋2度の見頃があるそうで,この日は秋バラの終わり頃のようだ,若干遅かったかな~という気もしたが...
バラに関して全く無知であるが,何でも鹿屋オリジナルのバラ『プリンセスかのや』をはじめ,特に春には,多種類のバラが咲き誇るようだ.例えばワイルドローズ(品種改良によって作出された種類ではない原種のバラ),オールドローズ(1867年以前に作出された,原種のバラを親に持つ品種の総称),モダンローズ(1867年以降に作出された現代バラの総称),ハイブリットティー(四季咲き大輪バラ).....等々色々あるようだが私にはさっぱり区別できない.でもきれいだ.
鹿屋の歴史
ところでガイドさんのお話で,鹿屋には現在海上自衛隊航空基地が置かれ,実際ヘリの飛ぶ様子が見えた.主に哨戒機や救難ヘリコプターの航空基地として機能しているそうだ.また太平洋戦争中鹿屋市には3つの飛行場があり,日本最多の特攻隊が出撃した記録があり,鹿屋海軍航空基地からは908名,串良海軍航空基地からは363名の特攻隊員が出撃し,尊い命を失った悲しい歴史があるという.
鹿児島には串良,国分,出水,知覧,万世などの町,さらに九州他県にも特攻基地が置かれ,多くの命が失われた.米軍の沖縄の次のターゲットは本州で,先ず鹿児島に上陸し,北へ北へと侵攻する計画だったと聞く.現在はとりあえず平和が維持されているのが幸いだ.
桜島岡之原町
大隅半島西海岸を北上する
大隅半島西海岸沿いの道を北に進んだ.この季節にしては緑の畑が多いように見える.やはり温暖な土地なのであろう.実際8月頃関東に出回る新米は九州や四国産が多いと思う.
先に桜島が見えてきたが,噴火が起こればこの辺りも大きな影響を受けるであろう.
火砕流を通す枯川
大隅半島から陸続きの桜島に入った.この川は桜島噴火時の火砕流を通す枯川だそうで,山裾から海に向け掘られているそうだ.こういった川は何本も設けてあり,大きな事故を起こした雲仙普賢岳のような火砕流に備えているという.
中東で枯川(ワディ)はよく見かけるが,国内でもあることに驚いた.想定以上の火砕流で溢れることがないよう願いたい.
桜島ドライブインでランチ
桜島の南海岸を進み,やがて桜島湯之平展望所上り道取っ掛かりにあるドライブインで休憩した.
桜島全容がよく見える.山肌が赤みを帯びているが,光線の状況では桜色でもあり,これが桜島の語源であるそうな.
桜島2つのピーク
上写真で右側のピークが昭和火口(1946年噴火),左が南岳山頂火口だそうだ.マップを見ると昭和火口が南岳より南に位置しているように見えるのがややこしい.
最寄りの避難壕が5.1kmと,火口より近いので速い火砕流はやはり恐ろしそうですね.
ドライブイン
桜島のお土産品が売られていた.ここでは最も鹿児島らしかろうと芋焼酎を買った.
ガイド氏の説明で,鹿児島と同じように宮崎県も芋焼酎一本槍なのだそうだが,前者のアルコール度数25%に比べ20%と若干弱めに造られているのだそうだ.味がどうのこうのではなく,酒税区分のビジネスへの適用への考え方の差異に基づくのだそうだ.そうなんだ,ちょっと驚いた.
今日のお昼はお弁当
今日のお昼は山の中でもないのに当ドライブイン2階レストランでお弁当だった.包み紙には鹿児島市岡之原町のプリントがあった.鹿児島市本土の仕出し屋さん製でそこから運ばれてくるようだ.
好きな焼き鯖(中央上)が付いていたので結構だ.それにしても毎回鯖を食べてるな....
桜島湯之平展望所
桜島湯之平展望所に上る
バスはつづら折りの道を伝い桜島湯之平展望所に上った.北岳(御岳)4合目で標高373mという.
普通の人が入れるのはここまでということだが,車で手軽に来れていいところだ.
北岳(御岳),中岳,南岳
左から北岳(御岳),中岳,南岳の並びだと聞いたように思う.また昭和火口はこれらの背後になり見えないようだ.一番高いのは1,117mの北岳(御岳)という.
写真中央たくさん並べられた円筒ブロックは大型土嚢のようなもので,初期段階溶岩を止めるもののようだ.桜島は活火山なので近年では天平宝字(764年),文明(1471年),安永(779年),大正(1914年)の頃の大噴火が200-700年周期くらいで起こっているそうだ.大正噴火では大量の溶岩が大隅半島間の海を埋め陸続きになったそうだ.
昭和の噴火(1946年)は溶岩を流した最後の噴火だが爆発的噴火はなく大噴火とはされないという.その後1955年からは火山灰の噴出を伴う噴火が始まり,今日も活動継続中ということだ.
錦江湾を眺める
桜島湯之平展望所からは錦江湾(鹿児島湾)が望める.また周囲は緑豊かで清々しい.樹木は松が多いようだ.大正大爆発で大量の火山灰や軽石が降り,また引ノ平と鍋山の2カ所から溶岩が流れ出て覆われたが,100年近くかけこのように再生したようだ.
桜島港
鹿児島市の風力発電
桜島湯之平展望所見物を終え,桜島港目指し,ドライブインとは反対方向に下った.途中対岸鹿児島市の山の上には白い発電風車群が見えた.山なのでとかく問題になる騒音問題は生じないであろう.
屋根付きお墓
これらは屋根付きお墓という.ちょっとびっくりした.鹿児島人は先祖を大切に扱うので,火山灰で墓石が覆われるのを避けるためだそうだ.また常にお花を供え,絶やすことがないそうだ.
桜島港が見えてきた
どんどん下り,桜島港が見えてきた.この辺りには郵便局,小中学校(島全周あちこちに),食品会社の事業所などが揃っているようだ.なお高校は島になく,対岸の鹿児島市に船で通学するか,あるいはアパート暮らしするそうだ.
なお以前桜島は独立の自治体だったが,鹿児島市と合併後の現在はその一部ということだ.
桜島港に到着
バスは桜島港に到着した.そして私達はバスに乗ったままフェリーデッキに運び込まれる.
好天で停泊中の白い船体が輝いている.
桜島フェリー
フェリーは桜島を離れる
乗り込んだフェリーにはCherry queenの名が記されていた.バスごと乗船したが,バスから出てデッキに行ってみる.桜島が海面から立ち上がる様子がよく見えている.やはり海面から下,海底まで円錐形の山が続いているのでしょうか.
桜島フェリー上部デッキ
鹿児島港までは僅か15分の航行であるが,車内に居てもしょうがないということで上部デッキで過ごすお客さんもいる.ここは全周見渡せて,風も通るので三密対策にも良かろう.
鹿児島港に到着
フェリーは程なく鹿児島港に到着した
鹿児島港は鹿児島市の北から南へ約20km(大きいですね)の範囲に及び,7つの区から成るそうだ. 7つの港区は,種子島,屋久島,奄美大島などの離島や大隅半島との定期船ターミナルとして,或いは生活物資の流通基地や漁業,レクレーション基地として役割を果たしているそうだ.5年前,この桜島港区より南に位置する屋久島行き高速船ジェットフォイル桟橋から乗ったことがあったが,クジラとの衝突やそのための急ブレーキに備えシートベルトが必要だったことが思い出される.
鹿児島市中心から北に進む
Cherry queenからバスのまま下船すると,次の仙巌園に向かうため鹿児島市中心を抜け,錦江湾沿いを北に進んだ.
鹿児島市もやはりヤシのような街路樹が南国的雰囲気を醸してますね.
仙巌園
仙巌園鶴嶺神社
間もなくバスは桜島を望む薩摩藩藩主島津家別邸仙巌園に到着した.そしてまずは駐車場脇の鶴嶺神社(つるがねじんじゃ)が目に入った.
本神社には島津家の当主,島津家分家/玉里島津家(たまざとしまづけ)の歴代当主とその家族らが祀られているという.また御祭神の1人に亀寿姫(かめじゅひめ)がおり,豊臣秀吉に捕らわれた折,秀吉も驚くほどの美貌で,心優しく賢明だったそうだ.しかして当神社参拝で心身ともにきれいになるとのことだ.さらにそのための「美人お守り」も販売されているようだ.効き目のある人は限定されようが.....
集成館事業と反射炉跡
仙巌園に入ると「集成館事業と反射炉跡」と記された解説板が立てられている.
集成館事業は薩摩藩第28代当主島津斉彬公が興した近代的西洋式工場群で,特に欧米列強の艦船から防御するための大型カノン砲製作を重視した旨記されている.
大型カノン砲製作にはそれまでの青銅では不可能で,鉄(または炭素鋼)溶鉱炉建設がぜひとも必要だった.そしてプレート右上のオランダ人ヒュゲニンの図面を頼りに炉建設に取り掛かったようだ.
この溶鉱炉は反射炉と称され,ヒュゲニンの図面はFig.1~Fig.5の5つが解説板に載っている.そして写真左側背後の石垣はその反射炉基部構造の一部分ということだ.
なお右側背後の菊は,たまたま菊まつりの菊飾りである.
集成館事業の反射炉の想像図
上記解説板ヒュゲニンの図面で,Fig.4(左から4枚めの図)が反射炉主要断面図と思われる.ただ炉の仕組みや作用については解説がないので,ネット上の情報を読んで,自らに解説するつもりで,想像に過ぎないが書き入れてみた.
想像を加えた反射炉構造
炉の一回目試作は耐火レンガがうまくできず失敗.2回目で成功したそうだ.たった2回で....すごい!
熱源には寺山(仙巌園近くだ)で焼いた木炭を用いたそうだ.
仙巌園の正門
バスで通ってきた国道10号線に面して建てられている.裏山のクスノキを用いたという木造,瓦屋根構造のシックなデザインだ.
明治4年(1871年)の廃藩置県の翌年,薩摩藩最後の藩主29代島津忠義夫人達がここに居を移し,また明治21年忠義本人も移り,その後明治28年(1895年)に建てた門という.
それにしても島津家29代目とはまた随分と長く続いたお家柄ですね.
仙巌園正門の丸十紋と五七の桐紋
仙巌園正門にはお馴染みの「丸に十の字」の門(丸十紋),それにその左右に五七の桐紋がレリーフが刻まれている.
「丸に十の字」はあまりにも有名だが,桐紋もまた菊の御紋に次ぐ高貴な紋章ということだ.現在では日本国政府の紋章として用いられているようだ.
「丸に十の字」はまた島津製作所のロゴとしてもよく知られる.バスガイドさんに訊いたが解らないということで同社のホームページを見てみた.多分よく質問が届くせいか「創業者である島津源蔵は,薩摩藩の島津家との血縁関係はありません」と記されている.ただし島津源蔵の祖先井上惣兵衛尉茂一が,薩摩の島津義弘公が京都の伏見から帰国途上に,豊臣秀吉公から新たに拝領した播州姫路の領地に立ち寄った際,惣兵衛は領地の検分などに尽力し,その誠意に対する感謝の印として,義弘公から"島津の姓"と"丸に十の字(くつわ)の家紋"を贈られた.そしてその家紋が社章になった,ということです.いや~いい話ですね~
仙巌園の錫門
朱色(漆でしょうか?)の門本体に屋根が錫で葺かれているので錫門ということだ.錫(Sn)は鹿児島の特産品だそうだ.錫のコップなどとても柔らかく変形しやすいが,屋根葺き工事はやり易いのではなかろうか.
建設は江戸時代で,藩主と世継ぎ(長男)しか通ってはいけない特別な門だったそうだ.現在は私達観光客がぞろぞろ通る.
獅子乗大石灯篭
庭園中央にあり,最も大きな灯籠で,笠石の大きさは8畳分と巨大だ.上に乗っている獅子は空から飛び降り,ここに着地し,桜島を振り返った姿だそうだ.
28代斉彬公がろうそくに替えてガス燈の実験を行ったとか.斉彬公の先進性を物語るエピソードですね.
仙巌園から眺める桜島
仙巌園からは錦江湾を間を挟み桜島全部を望む.また背後は緑の茂る山である.
仙巌園はこうした錦江湾を池に,桜島を築山に,山はそのまま庭園の一部と見立て,全体を巨大な庭園と位置づけたわけだ.
仙巌園の御殿
19代光久が別邸として庭園を構えてから,歴代の藩主に受け継がれてきた御殿.明治17年(1884年)に改築され,当時の3分の1が残されているそうだ.
とてもおもしろいのは写真でSの字を直線で置き換えた直角が2箇所ある回廊で,ここの雨戸は複数枚連続した引き戸を左右端に都合2組備え,各引き戸を中央部まで引いて閉めるそうだ.角部には(写真右から1/3)上下両端がテーパーになっている丸棒があり,これで連結引き戸をターンさせるということだ.でもターンのメカニズムよく解らなかったな~
望嶽楼
仙巌園が出来た頃に琉球国王から贈られた東屋だそうだ.長崎海軍操練所にいた勝海舟を迎えた28代斉彬公はこの東屋で会談したそうである.
ちょっと不鮮明だが右側上部に金文字で「望嶽楼」の額が架かっているが,王羲之の文字(の模写)ということだ.こうした書も建物の造りも沖縄風味(いや中華風味か?)が採り入れられているようだ.
池や枯木の庭園
池には裏山から引かれた水が引かれ,池端には枯木がきれいに手入れされている.裏山そのものも木が生い茂り素晴らしい.
裏山の千尋巌
11mあるという巨岩に「千尋巌」の3文字が刻まれている.「とても大きな岩」の意だそうだ.こうした岩に文字を彫るのは,一体どうしてなんだと思いながらも中国ではしばしば見かける.さすが日本では保護優先であまり見かけない.
島津家27代齊興公が3,900人もの人手で約3ヶ月の期間をかけ彫ったということだ.特に中国風味好みということではなく,薩摩藩士の雇用確保のための公共事業として行ったそうである.