滋賀めぐり
この滋賀めぐり編では,2020年11月28日京都で朝食後ここを発って,近江八幡に至り,同市内や日牟禮八幡宮を見物し,次いで彦根へ向かい,彦根城と玄宮園を見物したときの写真を載せました.
滋賀めぐり付近のGoogleマップ
京都から滋賀県に入り,近江八幡21,彦根城22を見て回る.
朝食後京都を発つ
ホテルで朝食
アーバンホテル京都で一夜明け11月28日朝となった.一階のレストランに降り,手袋を着け,持ったお皿に食べ物を装う.どこの宿もマスクに手袋は同じだ.
またも焼き鯖に
左はロールパンで,その右隣りは焼き鯖だ.他は生野菜やシウマイ,スクランブルエッグ,それにデザートのキューブ状甘味だ.普段はパンにチーズやヨーグルトなので,それに比べパンに焼き鯖とはゴージャスだ.この組み合わせで食べる人は多くないと思うが,美味しいです.
そう言えば思い出した.普通ハラール食品ではないとして魚を食べないイスラム国の中で,トルコには「鯖サンド」があり,市民には人気ですね.ドネルケバブサンドとはまた違った味が楽しめていいと思う.
近江八幡に至る
近江路に入る
朝食が済むとバスに乗り滋賀に向かった.ドライバさん,ガイドさんは京都~滋賀~福井間一緒だ.
そのうちバスは滋賀県に入ってきた.農作地帯では,写真のように麦であろうか穀類や,その向こうに丈が高く濃い色の植物,「ヨシ」が栽培されている.
ヨシはアシ(葦)とも呼ばれ,湿地に生える背の高いイネ科の植物という.琵琶湖には流れ込む川は100本以上ある(出る川は一本とか)そうで,琵琶湖周辺には湿地が多く形成され,そこでヨシ栽培が盛んであったということだ.多年草で地下茎がぐんぐん広がり,芽は7月頃まで成長し,最大5m近くにまで成長するそうだ.
ヨシ池は水の浄化,魚や鳥の生息場などとしても機能し,収穫後の製品としては葦簀(よしず),ヨシ屋根などがあるそうだ.古代エジプトのパピルスもアシ加工品ではなかろうか.近年は中国産との価格競争が厳しいそうだ.
近江八幡市に到着
バスは近江八幡市の駐車場に到着した.その脇には大きな木造住宅が建てられていた.3階建て切妻瓦屋根造りで,各階側面上部にはひさし(寺社建築であれば裳階(もこし)か?)が付いている.
添乗Oさんに頂戴したマップを見ると,旧伴家住宅のようだ.建設したのは江戸初期に活躍した近江商人伴庄右衛門で屋号を扇屋と称したそうだ.寛永年間に日本橋に出店し麻布,畳表,蚊帳を商ったという.若くして家督を継いだ5代目伴蒿蹊は大坂にも出店し,学問にも興味を持ち,本居宣長,与謝蕪村らとも親交ある国学者でもあったそうだ.以後も伴家は栄えたが明治維新等の激動期の頃から傾いていったという.
目の前の旧伴家住宅は7代目伴庄右衛門能尹が伴庄右衛門家本家として文政の頃1827年~1840年に建築し,明治時代になって当時の八幡町に譲渡し,以降小学校,役場,女学校,近江兄弟社(下掲載ヴォーリズの創設)図書館,江八幡市立図書館などに供されてきたそうだ.
近江八幡市の街並み
クラシックな建物の続く街並みは映画の一コマのようである(実際撮影にはよく使われるそうだ).とても美しい.近江八幡市は歴史的には浅井長政や豊臣秀次の出身地で,何よりもかの有名な近江商人発祥の地であるそうだ.
近江商人は大阪商人,伊勢商人と共に日本三大商人だそうで,その近江商人中ここ八幡商人は畳表や蚊帳といった地場産業を育て商材とし,いち早く江戸や京都,大阪に進出したという.ガイド氏のお話では,並みの商人の天秤棒は市場に向かうときは商品でいっぱいだが,帰りは空であることが多いという.だが近江商人の帰りやその途中の天秤棒には別の商品がたくさん載っており,それを捌きながら帰宅したという.近江商人はまた社会貢献も重視し,「ビジネスで売り手,買い手双方満足するのは当然のことで,社会貢献できてこそよい商売」という「三方よし」の経営哲学を旨としていたそうだ.
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ像
街を歩いているとウィリアム・メレル・ヴォーリズの銅像があった.氏は米カンザスの建築家で,英語教師やキリスト教(プロテスタント)伝道のため来日したそうだ.
日本各地で各種建築設計を行ったが,ここ近江八幡を拠点とし,学校,教会,YMCA,病院,百貨店,住宅など幅広く手掛けたという(今に残るものも多数).やがて日本に帰化し,華族令嬢一柳末満喜子と結婚し,性を受け継ぎ一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)を名乗ったそうだ.米来留は米より来て,ここに留まるの洒落だそうだ.
ヴォーリズは建築以外にメンソレータムの販売(製造もかも)や,終戦時ダグラスマッカーサー連合国軍総司令官と近衛文麿との会談仲介工作など,多岐に渡り活躍したそうだ.
八幡堀
近江八幡市中心部に八幡堀が流れている.現在同市中心から北西には,安土桃山時代豊臣秀次1585年築城の八幡山城があり,私は行かなかったがロープウェイが結ばれている.言わば近江八幡市は八幡山城の城下町だったわけで,この堀は流通の大動脈,城下町繁栄の要だったそうだ.
現在堀の土手や,水位面少し上には遊歩道が敷かれ,周囲の歴史ある建物を眺めながらここを歩くのは実に快適だ.興味があれば遊覧船も運行している.
八幡堀脇の建築
なかなか格調高い建物がお堀脇に迫って建てられている.中にはお勝手口から階段で川面に続いている家もある.
建物は概ね木造,瓦屋根,白壁で統一されているようだ.
白雲橋を潜る
川面脇のトレイルを歩き,近江八幡市中心部から日牟禮(ひむれ)八幡宮方面に渡る白雲橋の下に来た.川の向こうからは遊覧船がこちらに迫り,橋には徒歩や自転車で渡る様子が見える.
近江八幡の和菓子屋さん
白雲橋を渡ると「たねや」と記された大きなのれんが見えた.ガイドさん推薦の和菓子屋さんということだ.私はこのなかなか素敵な配色のエクステリアを見せてもらっただけだが,確か大福餅が有名....だったかな.
焼き物
八幡堀上流側に進むと,写真のような焼き窯(の見本)や,道路に埋め込まれた焼き物,見本の鬼瓦,陶芸カフェ....などあった.
近江八幡は陶芸の里としても知られるのだそうだ.豪商の大きな館,大きな神社など大量の瓦が必要であったのが要因の一つでしょうか.
古物店
大きな古い住宅が多いので古物商も商売が容易では,と思ったが,やはりネット上で商うより大変でしょうね.
軒先に展示されたベビーカーは格調高い.ただ折り畳めないので車のトランクや,小さな玄関には入れないので,やはり大きなお屋敷住まい限定でしょう.
旧滋賀県蒲生郡八幡高等尋常小学校校舎
上に載せた旧伴家住宅の前方から眺めた写真.
色々変遷してきたが,滋賀県蒲生郡八幡高等尋常小学校の校門と思しき石柱が復元されている.建物本体は確か市の資料館となっている,だったか.....
久ぼ多屋ですき焼き
今回のツアーでは都城に続いて2度目のすき焼きだ.今回は近江牛であるが,もちろん美味しい.久ぼ多屋さんの割り下は甘みが少なく個人的には好みだ.さらにさっぱりさせれば一層いいと思う.
日牟禮八幡宮
日牟禮八幡宮への裏道
日牟禮(ひむれ)八幡宮に続く裏道がある.大きな表参道に比べて,樹木の多い裏道はむしろ魅力的だ.
手前に八幡神社の石標識があるが,これはここで右に行けば同神社が在るという案内で,日牟禮八幡宮とは無関係と思われる.こちらも後に訪れる.
日牟禮八幡宮楼門
裏道を来たがやはり正門である日牟禮八幡宮楼門に回り,礼をする.
随分大きな門は二層入母屋の銅板葺のように見え,下の回廊には屋根がないので楼門形式だ.
柱や梁には細かな彫刻が施され,なかなか手が込んでいる.
日牟禮八幡宮拝殿(左)と社務所(右)
入母屋造りの拝殿は破風のある方向が正面となっている.お寺さんでは側面になっていることが多いように思うが,神社では正面が多いのだろうか.
破風の金貼りが実物ではピカピカし,なかなか美しい.
右手前大きく写っているのは御朱印の場など備えた大きな社務所だったと思う.また拝殿右横には大きな神馬(しんめ)の彫刻が据えられていた.生きた馬では大変過ぎるからであろう.
日牟禮八幡宮本殿
拝殿脇の階段を上ると本殿となる.見ると手前と奥に2つの建物から成り,手前は内拝殿,奥は本殿と呼ぶのが正式なのかも知れない.主祭神として誉田別尊(ほむたわけのみこと),息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと),比賣神(ひめがみ)を祀るという.ただしどういった神々であるかは理解せず.
時節柄七五三詣りのご家族参拝者が目立つ.
どの建物も一貫したコンセプトでデザインされているように見えた.
日牟禮八幡宮とは別の稲荷神社
上述の石標識に従い歩くとすぐに稲荷神社が現れた.お稲荷さんというと,朱塗りの鳥居が多重に続くイメージがあったが,ここはそうしたたくさんの鳥居は並んでいない.どうやらこれがむしろ一般的なようだ.
キツネを祀った神社くらいに思っていたが,普通「スサノオ」と「オムオオヒメ」との間に生まれた神様宇迦之御魂大神(ウカノミタマ),若しくは「イザナギ」と「イザナミ」の間に生まれた神様が祀られているらしい.ここは誰であるか定かではないが,何れにしても商売繁盛,五穀豊穣,心願成就などのご利益があるのでしょう.
さらに別の神社
稲荷神社のすぐ近くにはこのような神社もあった.こうして眺めると近江八幡市には神社が多いようだ.京都並みかな...
彦根へ
近江八幡市から彦根へ
バスで彦根へと向かった.畑では何であろうか,それぞれ色合いの異なる冬野菜が栽培されている.なかなかきれいですね.
琵琶湖に流れ込む川
琵琶湖が見えて,そこに流れ込む川を幾つか越えた.流れ込む川は119本もあるのに,流れ出す川は瀬田川(京都では宇治川,大阪では淀川と呼ばれる)たった1本ということだ.近年京都に送水するため川が1本掘られ,2本とも言えるそうだが.ということで,バスで横切る川はすべからく琵琶湖に向かっているとしていいそうだ.
さて瀬田川は他の119本分の流量があるのでしょうか?さもないと琵琶湖の水位がどんどん上がりそうで....
彦根城
彦根城中堀
バスは彦根城いろは松駐車場に到着した.私達は中堀に架かる橋を渡り佐和口に向かった.石垣上の白い建物は現在開国記念館になっているようだ.中堀には夜間ライトアップ用フロートが配置してあった.夜もきれいであろう.
日本の城で,往時の天守が現存しているのは12城あり,その一つだそうだ.また天守が国宝指定されている国宝5城にも名を連ねているそうだ.この城は昔より小高い彦根山にある「井伊家の城」として知られ,また近年「ひこにゃん」登場で城の名を轟かした.ひこにゃんの働きはすごい.
彦根城城主「井伊家」は徳川幕府14代にわたって治めた領地30万石彦根藩藩主であった大名で,上位の家格だったという.特に13代当主井伊直弼の名はよく知られるところだ.
表門橋を渡る
次いで内堀に架かる表門橋を渡る.その先左側は現在管理事務所,右側の櫓は何だったか....内堀を渡り,侵入する敵を監視する櫓であろうか.
天秤櫓
表門から石段を上ると堀切(ほりぎり)と呼ばれる切り通しになり,側面は石垣で固められている.
そして底には木製の橋が架かっている.橋の片側には天秤櫓(てんびんやぐら)と言われる櫓が築かれている.
表門まで侵入され,いざこれから本丸に入ろうとする敵はこの橋を渡るか,あるいは高い石垣を登り越える必要がありかなり困難だ.ここが本丸侵入を食い止めるべく最後の砦だったようだ.
天秤櫓の橋
これが堀切に架かる木製の橋だ.木製というところに美しさを感じる.
上述のように本丸侵入を防ぐ場所なので,いざという場合はこの木製橋を下に落としたそうだ.そして落し易い構造になっているのであろう.ちょっと見ではその仕組は判らなかったが.
天秤櫓正面
天秤櫓正面が陽に輝いて美しい.
なお天秤櫓の名は,橋の両隅に2階建ての櫓を設けた形態が天秤のように見えることに由来するようだ.
本丸坂を上る
本丸に入ると天守の位置は少し高いところにあるので,幾らか石の階段を上る.階段は曲げられ,また緩やかだが,ステップ毎の段差や幅をバラバラにし,駆け入る馬の調子を妨げたようだ.まあこれはお城建築の定石のようであろうが.
石垣の向こうに天守が見えてきた
階段の途中,石垣の合間から白い天守が見えてきた.私達はここでお~っと感激した.敵もここまで侵入すれば,半ば成功したと思ったことかも知れないですね.
彦根城天守全容
階段を上りきると彦根城天守全容が見えた.結構広い平面に石垣の基礎,その上にお城が築かれている.この平面の広さにはちょっとびっくりした.
彦根城は今からおよそ410年前の1604年(慶長9年)に着工され,20年後に竣工したそうだ.この広い平面の本丸には現在天守だけであるが,往時は藩主の御殿「御広間(おんひろま)」や「宝蔵」,「着見櫓(つきみやぐら)」などもあったのだそうだ.
天守は3階3重屋根構造で,天守としては比較的小ぶりで,屋根には切妻破風(一番下の左右など),入母屋破風(一番上など),唐破風(丸屋根の下など)設け変化を持たせている.
構造は,通し柱を用いず,各階ごとに積み上げていく方式で,櫓の上に高欄を付けた望楼を載せた古い形式ということだ.通し柱無し構造は現代の建築法には適合しないのではなかろうか.
なお彦根城は一度も戦場になることなく,明治を迎えたそうで,幸いなことだったと思う.
彦根城天守内部
天守内部に入り,一番上に行ってみた.梁には製材されないままの曲がりくねった木材が用いられ,腕のいい大工さんでないと組めない(あちこち合わない)ように見えた.
なお柱や部屋に面した梁は四角く製材されたものが多い.
めちゃ急な階段
階段は殆ど梯子である.ただ手すりが付いているので助かる.これがなかったら上り下りできない.
西の丸の庭
天守背後に在る西の丸の庭も広い.一部紅葉しなかなかきれいだ.
西の丸から見下ろす彦根の街と琵琶湖
西の丸から眺めると,彦根の街と琵琶湖がよく見渡せる.敵の動きを察知するにいいロケーションであることが判る.本丸の天守はもっと高い位置にあるので,さらによく見渡せたと思う.
玄宮園
玄宮園に入る
彦根城を後に玄宮園(げんきゅうえん)に入った.玄宮園は江戸時代には「槻之御庭」と呼ばれており,1677年(延宝5年)4代藩主井伊直興により造営されたそうだ.
所々樹木が色付き美しい.
玄宮園の池
玄宮園は広大な池が中心で,あちこち散らばる池中の島,入江に架かる9つの橋など色々な景観が楽しめる回遊式庭園となっている.池の水は湧水の豊富な外堀(ここは歩いてない)からサイフォン管で導水し,岩島から水を落として滝に仕立てているそうだ.凝ってますね.この導水法は多分お城の水確保にも使われたのではないでしょうか.
シンプルな橋の向こうに天守が見える
静かな湖面に緩やかな円弧を描く橋が映される.その先森の丘には天守が望めていかにもお城の庭園だ.
入り江の東屋
入り江には数棟の東屋が建っていた.茶室風にも見えるが,少なくとも一つは船小屋で,園内で風流に舟遊びに使われたり,また庭園北側水門を開け,大洞(おおほら)の弁財天堂や菩提寺参詣に使われたそうだ.
井伊直弼像
玄宮園を出たところに井伊直弼像があった.像の側には詠んだ歌が刻まれている.
井伊直弼は1815年,第13代藩主井伊直中の14男として生まれた.幼い頃から和歌や槍術など文武両道に優れていたが,兄が13人いて,また側室の子であったため,藩主の座が回ってくることなど予想もできず,1831年父直中が亡くなると三の丸尾末町の屋敷に移り,17歳から15年間300俵の部屋住みとして過ごしたそうな.その邸宅を自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え,「埋木舎(うもれぎのや)」と呼んだそうだ.
ただこの不遇の時代に,直弼は国学,禅,茶道,歌道,絵画,能楽,兵学,居合,槍術等を徹底的に学んだという.周りからは茶道の「ちゃ」,歌道の「か」,鼓の音の「ぽん」をとり「ちゃかぽん」と揶揄されたそうだが.しかし,1846年,兄の第14代藩主井伊直亮の世嗣ぎであった井伊直元(直中の11男で兄にあたる)が死去したため兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定し,1850年(嘉永3年)直亮の死去にともない,家督を継ぎ藩主になったそうだ.やはりちゃかぽんと揶揄されながらも諸事励み修めたことが効いたのでしょうね.
ところで世田谷の豪徳寺(曹洞宗)は招き猫発祥の地で知られるが,井伊家と深い関係があるという.1633年(寛永10年)当地は彦根藩の支配下となり,後に寺は彦根藩主井伊家の江戸における菩提寺となったそうだ.そして寺名は2代藩主井伊直孝の戒名「久昌院殿豪徳天英大居士」に因み豪徳寺としたそうだ.実は井伊直孝が鷹狩から自宅に戻る際空が激しく荒れてきて,大きな木の下で一時待機していた.すると一匹の猫が寺の前でこっちへこっちへと手招きし,直孝はそれに従いそちらに移動した.そして直後に大木に落雷し,直孝は難を免れた,ということだ.関西のガイドさんだったが世田谷にも詳しかった.いい話だ.
さて次は福井県だ.