シナイ半島は地理的にはスエズ湾とアカバ湾に挟まれた紅海を見下ろすスエズ運河の南東に位置する.女神イシスが夫であるオシリスを探して横断した地だそうだ.ファラオはこの地に女神ハトホルが支配する聖地を造り,また,金,銅,トルコ石を採掘するため遠征隊を派遣したそうな.
ヌエバはアカバ湾(Gulf of Aqaba)西岸の中ほどに位置する港湾都市で,沿岸リゾート地.ヌエバ港と,ヨルダン領のアカバとの間はフェリー便が運航し,アカバからこれに乗って到着した.
2004年10月7日(木)午後10:00頃(現地時間),エジプトのタバ(シナイ半島のイスラエルとの国境にあるリゾート地)のホテルのロビーで爆発が起き,少なくとも30名(多くがイスラエル人観光客)が死亡.その約2時間後,ここヌエバ(同じくシナイ半島のリゾート地)及びラース・シャイターン(ヌエバ近郊)のキャンプ場においても爆発が起き,翌日「世界イスラム主義集団」が犯行を表明,と外務省のページに記されている.
2006年4月24日,アカバ湾の東側にあるエジプトのリゾート地ダハブ市で,三カ所でほぼ同時に爆発事件が起き,少なくとも3人の外国人を含む,23人が死亡,62人以上が負傷した.続いて26日,国際平和監視部隊を狙った2件の自爆テロがあった.
下アカバ湾を渡ったフェリーはヌエバに到着し,入国審査,税関を通り,内陸のセントカトリーナに向かった.
下はセントカトリーナ市に向かう途中の眺めと到着地セントカトリーナのホテルレストランにて.
ユダヤ教聖典(旧約聖書)で,モーセが創造神から十戒を授かったとされる山なのでユダヤ教,キリスト教,イスラム教の聖地.シナイ山の候補は,シナイ半島に幾つかあったそうである.現在,普通は,カテリーナ山の東北東に山頂(標高,2285m)が位置する今回登った山を,伝説のシナイ山と信じる人が多いそうだ.アラビア語による現地名,ジャバルムーサ(モーセの山:Gebel Musa)一帯は,1996年以降,聖カテリーナ保護区として,自然保護区に指定されているそうだ.山頂に向うルートは,2つで,1つは,聖カテリーナ修道院裏手から,山腹を迂回しながら今回登ったやや緩やかな山道.もう1つは,修道院の脇から,3750段という急な階段を昇るルートがあるそうだ.ただし2つのルートは一緒になり,最後の最も険しいとされる部分はどちらのルートでも同じ.
頂上にはユスティニアヌス帝によって築かれたという古代神殿跡に,1934年に建てられた三位一体の礼拝堂がある.気付かなかったが小さなモスクもちゃんと並んで建てられているそうだ.
下はシナイ山の登りから頂上のご来光まで.頂上で待つ間,真夏とは言えかなり冷える.レンタルの毛布で包まっている人もいる.
下山の途中まで.長い行列を見るととてもたくさんの人が登っていたのがよくわかる.
下山完了し,ホテルに戻る.この後セントカトリーナ修道院を見て,再びホテルに戻り,下段右端のプールに入ってみた.いや~その水の冷たいこと,氷水のようだ.2~3往復で降参してしまった.
セント(聖)カテリーナは294年,エジプトのアレクサンドリアで生まれ.彼女は哲学,医学等を学び,やがて洗礼を受け,クリスチャンになる.4世紀初めの迫害の時代に,彼女は偶像崇拝を非難し,18歳で殉教した.その後10世紀に,彼女の遺体は天使達によって聖カテリーナ山の頂上に運ばれたという伝説が広まったという.遺骨がフランスに移されると,伝説はヨーロッパ中に知れ渡り,シナイ山の修道院はセントカトリーナ修道院として知られるようになったという.修道院を異教徒達から守るという十字軍の活動と密接に関連していたともいう.見学させてもらった礼拝堂は小ぢんまりした印象で,脇にはミイラ化したセントカトリーナの片手が掲げられていた.他の遺骨は修道院内の豪華な石棺に保管されているようだ.片手だけ壁に在ったことに対して,個人的にはいささか違和感というか,作為的というか.....を感じてしまった.
セントカテリーナ修道院は,現在東方正教会との繋がりが深く,現在もギリシア出身の修道僧が多いとガイドのムズタバさんが話してくれた.シナイ山北東麓に位置し,先の登山での行き帰りでもこの脇を通過した.自分のような異教徒でも中に入れてくれるが,やはりユダヤ教,キリスト教,イスラム教,特に東方正教系の巡礼者が多いのであろう.もちろん日常の礼拝には地元の人が多いと思われる.
修道院中庭と,修道院近所の子ら
下は,修道院手前のバス駐車場からセントカトリーナ修道院までの眺め,修道院中庭の様子
セントカトリーナを出て,山間の道路をスエズ湾に抜ける.美しいスエズ湾の海岸線に沿ってしばらく北上するとモーセの泉と称される井戸群に着く.観光資源としての整備計画は大分前からあるが,実際実行に移されることがなく,かなりほったらかしの状態のようだ.モーセ時代の井戸数は現存の数より多かったそうである.
下は,セントカトリーナからモーセの泉に至るまでの写真あれこれ.所々ナツメヤシの繁るオアシスの集落を通過するシナイ半島横断路を抜けるとスエズ湾に出る.美しい海だ.周りは砂漠なのにシェラトンホテルがあったり,あちこちに別荘街が見られる.カイロ市民,と言っても裕福層に別荘地は地中海に面するアレキサンドリアに多いが,地価の安いスエズ湾地域の分譲住宅/マンションも増えているそうだ.ただアレキサンドリアは大都会なので食料などの調達が容易であるが,この辺だとカイロから持ってくる手間がかかる欠点があるそうだ.モーセの泉で,安価なアクセサリーを売り込む娘に,写真のモデルと引き換えに,と言ったら快くポーズをとってくれた.(下段右端)
スエズ運河はフランス外交官レセップスの指揮によって1859年4月に着工,10年の歳月をかけて建設され,1869年11月に開通.150万人のエジプト人が動員されたそうである.全長は163km,幅34m,深さ15mとなっている.全長は163kmのうちかなりの部分は天然の湖で,それを繋いだ構造であろう.スエズ運河は地中海側と紅海側の水位の違いがあまりないため,行ったことはないがパナマ運河とは違って途中に水位の差を調整するための門は要らないそうだ.それでも,通過する船舶は全長163kmをゆっくり通航するため,運河部分の通航だけで約12時間,運河へ入るまでの待機時間,すれ違いのためのアンカー下ろし,で1日がかりの仕事になるそうだ.
立ち入り禁止のスエズ運河の見える場所までバスが入ってくれた.ガイドが「きっと見つかりますから,すぐ逃げることができるようバスから出ないでください」と言われ,バスから眺めた.その通り見つかってしまって逃げようとしたが逃げ切れず,ガイド/助手ガイドやドライバががんばって交渉し何とか切り抜けてくれた.特に普段居眠りの多い助手ガイドが,警備の兵士を相手にべらべらまくしたてていたのが印象的だった.イスラム原理主義運動が活発なエジプトでは,運河や航行船へのテロはエジプト経済に致命的な打撃を与えかねない.そのため運河へのテロを警戒する兵士が厳しく警備しているのであろう.重要産業の観光に対するテロ警備が厳しいのと同様だろう.なお同乗の武装ツーリストガードは業務範囲外なのであろう,立ち入るな!とも,つかまった後も何も言わず終始無言であった.
ガイドのムズタバさんによれば,全工期を通じて12万人の命が失われた.....でも,多すぎるから聞き違えたかも知れない,と調べたら,主にコレラによって亡くなったと推定される,ということだ.激しい労働で体力が弱まり,抵抗力が衰えていたのであろう.
バスが大陸側に抜けるにはナトリウムランプ照明のトンネルをくぐる.なお入り口側,出口側ともに運河の視界の外であったのは,前述のように厳しく軍の警備下に置かれたスエズ運河であれば当然か.
下は,スエズ運河とその前後の写真あれこれ.運河はそれほど大きくはない,と思った.