このガリラヤ湖編では,死海からヨルダン川沿い国道90号線を北上し,ガリラヤ湖に来たとき.および翌日ガリラヤ湖の眺め,ガリラヤ湖クルーズを楽しんだときの写真を載せました.
イスラエルのガリラヤ湖6はこの辺りに位置している.ガリラヤ湖は竪琴(キノール)の形に似ていることからキネレット(Kinnereth)と呼ばれることもあるそうだ.
別窓で大きなGoogleマップを開く死海で皆さんが浮遊した後,私たちのバスは国道90号線に入り,ヨルダン川沿いを北へ走り始めた.
死海からガリラヤ湖までバスの走った跡(赤い線)を後でGoogleマップで見ると,ヨルダン川にピッタリ沿っていた.
ヨルダン川沿いの道はパレスチナヨルダン川西岸地区の占領地を走っている.ヨルダン川渓谷沿えであるので海抜0m以下の低地にあるので夏は暑いだろうが,今(冬)はちょうど良さそうだ.
少し走ると金ピカドームのキリスト教会が見えた.右側の三角屋根は鐘楼であろうか,上に縦横同じ長さの十字が見える.正教系の教会であろうか?
何れにしてもイスラエルにはキリスト教徒がいるということだが,キリスト教発祥の地であることをみれば当然,いやむしろ信徒が少ないと言えようか....
それと街道沿いにはゴミが多く散乱している.ここに限らずイスラエルのあちこちでゴミが多い.またハエも多い.ゴミの散乱は他の中東諸国やコーカサスでも目立つが,あと少しすれば改善されるかな.....
バスは砂漠っぽい場所を通過する.その先には褐色の山が長く連なっている.この絵の左側にはバプテスマのヨハネが本拠地とし,またイエスが40日間断食し,悪魔の誘惑を絶ちながら修行したというエリコ(またはジェリコ Jericho)背後の山岳荒野が見える(あの辺り程度で,どことまでは特定できなかったが).そしてその荒野は『誘惑の山』(The Mount of Temptation)と呼ばれるそうだ.
悪魔の誘惑とは
『空腹ならこれらの石をパンに変えたらどうだ』→『人はパンだけで生きるものではない』と応え
『神の子ならここ(神殿の屋根)から飛び降りたらどうだ,天使たちに助けさすから』→『退け悪魔,私はただ主に仕えるのだ』と応じた....とか.
ただ『誘惑』という言葉が私にはちょっと理解できない.普通悪さに誘う,例えばアダムとイブに禁断の実を食べてみたらと唆すケースなど『誘惑』がピッタリだ.でも石をパンに変えるのは誘惑かな....?単に言いがかりと言うか,大きなお世話と言うか....ガイドSさんにちゃんと訊いておくべきだった.
なおバプテスマのヨハネはイエスと同い年だったそうだが,イエスに洗礼後,反体制的な言動が目立ち,ヘロデ大王の息子で当地方領主に処刑されたということだ.
写真左側は広いナツメヤシ畑,右はビニールハウス群,そして手前の白いパイプは注水設備のようだ.
非常に雨の少ない地で,僅かな水で植物を育てる手法はイスラエルで開発され,『点滴灌漑』(Drip irrigationもしくはTrickle irrigation)と呼ばれるそうだ.これは根の近くに注水パイプを這わせ,最適なタイミングで水と肥料を補給する手法だそうだ.地上で水を散布するのに比べ非常に少ない水で済むそうだ.
ナツメヤシが整然と植えられている.これも点滴灌漑であろうか?
なお上述のバプテスマのヨハネであるが,イナゴと野蜜とを常食にしていたのだそうだ.ここで野蜜とはこのナツメヤシの実,デーツのことだとSさんに教わった.甘いし多分ビタミンも多いのではなかろうか.イナゴは以前飲み屋で台湾産の佃煮を私も食べたことがあるが,美味しいものではないと思うが....
それとこうしたナツメヤシ畑とかみかん畑,オリーブ畑....とかはそれなりの面積があるが,トルコとかスペイン....等のように延々と同一作物の畑が続くことはなく,まあ小規模農場だと思う.
これも点滴灌漑であろう.注水に加えて,ビニールやネットでの蒸発や,光照射のコントロールも行われるそうだ.それに乾燥に強い品種改良も続くという.そして農作物は,このような乾燥地帯にありながら自給率85%に上るというから大したもんだ.
それどころか農作物はヨーロッパにも輸出されているそうだ.ただこのヨルダン川西岸の『占領地での農産物を輸入していいのか?』という意見も強く,禁輸措置,ボイコットが採られる場合もあるそうだ.
なお地下水などの水質はカルシウムなど含む硬水であるが良好で,水道水は飲料にできるそうだ.
やがてヨルダン川側の道路脇に鉄条網フェンスが続くようになった.占領地ながらイスラエルが敷設したフェンスで,ヨルダン川方面から攻め入ってくるテロリストを防ぐのだそうだ.
占領した側が防護のため....というのもなかなか....
なお後日見る,イスラエル内部パレスチナ自治区境界のフェンスは,往時のベルリンの壁のような高いコンクリート製で,ここの鉄条網と較べ遥かに本格的だ.
イスラエルの住宅,戸建ても集合住宅も,は石造りが多いようだ.立派な造りだ.ちなみに地震はないそうだ.仮にあるとすれば崩れやすいかもしれない.
陽が落ちかけてきた頃,小さな街を通過した.ヤシの木の並木など南国風だ.ベイトシェの街と言ってたかな....?
道路脇の墓地が見えた.墓石はみな同じ方向を向いている.エルサレムの方向であればユダヤ人墓地,メッカの方向であればパレスチナ人またはアラブ系イスラエル人墓地....かな?でもその方向は判らない.
大分陽が落ちて暗くなった.目指すガリラヤ湖は近いそうだ.そして右手にヨルダン川の三日月形水面が光って見えた.国道90号線からは初めて見える場所で,入国時ヨルダン国境付近でチラッと見たようにやはり深いが細い流れだ.それでも農業用に,あるいは飲用にとても貴重な水なのであろう.
やがて陽が完全に落ち,右側にガリラヤ湖が見えてきた.暗くてはっきりしないが対岸までは然程遠くないようだ.対岸はシリア,いや占領したゴラン高原であろうが,死海カリアビーチから眺めたヨルダンまでくらいの距離であろうか.なお湖の手前は戦没者公園であろうか,ヘブライ文字で刻まれた石碑のようなものが見える.
ティベリアまたはその郊外になり,宿泊予定ホテル近くになった.歩道の人はTシャツにショートパンツだ.これなら温かいのかな?
ティベリアRimonim Mineralに到着し,チェックインした.後日泊まるエルサレムのホテルもRimonim何とかで似た名前であるが,『ざくろ』の意味で,系列店だそうだ.
荷物を部屋に運ぶのにエレベータ前で待った.2台中1台は普通に動くが,もう一方は何だかおかしい.ボタンを押しても動かないと思ったら勝手にドアが開いたり,上っていったりする.皆で何だ?何なんだ?と騒ぎ,後にこれが噂のシャバットエレベータ(Sabbath elevator)であると知る.ユダヤ教では金曜日の晩から翌土曜日没まで安息日(Sabbath)で,労働してはならない.エレベータのボタンを押すのも労働に相当し,避けなければならない,ということだ.このときは正しく金曜日の晩だったので,自動運転プログラムで運行しているということなのだ.でも各階停止で,またその停止時間も長く,私たちには殆ど使いみちのなさそうなエレベータにしか映らない.
それでもシャバットエレベータなど可愛いものだ.ガイドSさんのお話では,シャバットではバスや電車などの公共交通機関,飛行機,信心深いドライバーのタクシー.....皆止まるそうだ.
このような部屋だった.まあ並の部屋であろう.明るい時は窓からガリラヤ湖が見える.
最初の晩,寒いので毛布を追加したが,翌朝起きて見るとエアコンが冷房になっていた.次の晩それを止めてちょうど良かった.
ガリラヤ湖の湖面は海抜-214mにあるそうだが,海面より少し高いホテルの部屋でカシオを見たら-225mを指していた.私のカシオはいつも低目を指す.尤も校正したことがないが.
夕食時になり,ホテルレストランに行った.安息日シャバットで,ユダヤ教徒の人は調理ができない(労働なのでやってはならない)そうだ.ということで地元家族連れの人々が大挙して押しかけていた.
セルフサービスのバフェスタイルであるが好きなものが選べるのはいい.ビールはゴールドスターブランドがなかなかいいと思った.小ビンでUS$5くらいだ.
なお調理人さんはシャバットが始まる金曜夕刻までに調理を完了してあるそうだ.家庭で食事を摂る場合も主婦はその時刻までに調理を終え,食卓に並べて置くのだそうだ.いろいろ大変ですね.
Rimonim Mineralで一夜が明けた2015/11/21(土)朝,バスでナザレに向かった.そのとき眺めたティベリアの街とガリラヤ湖の様子だ.
ティベリアの街はイエスの時代,この近辺ではかなり大きな街であったらしいが,現在は比較的コンパクトなように見える.
ガリラヤ湖は南北21km,東西12kmで,霞ヶ浦と同じくらい,琵琶湖の1/4程度の広さだそうだ.上述のように湖面海抜は-214mと低いが,死海と違って淡水湖だそうだ.北のレバノン/シリア国境にあるアンチレバノン山脈の最高峰ヘルモン山(Mt. Hermon 2,814m)に源を発するヨルダン川が流れ込み,そしてガリラヤ湖南端からまたヨルダン川として流れ出し死海に至るそうだ.
ティベリア中心地の少し北にマグダラの集落が見える.何よりもダヴィンチコードでも有名になった『マグダラのマリア』(Mary Magdalene)の居住地だったところだ.イエスと結婚していたのでは?との噂もあるようだ.この辺りは緑豊かで,現在は観光開発が推し進められているそうだ.
ここからは確認できないがガリラヤ湖は竪琴(ヘブライ語でキノール)の形に似ているのでキネレット(Kinnereth)と呼ばれることもあるそうだ.Googleマップで見ると少し似ているかな.ぼんやりしているが対岸にはゴラン高原が見えている.ここも占領地でユダヤ人入植者が住んでいるそうだ.占領前は敵軍がここから砲撃してきたそうで,占領はやむを得ない,そうしたテロ行為がなくなれば返還する,ということだ.
ペテロ首位権教会はマグダラよりさらに北に位置している.ここでガリラヤ湖畔に立って眺めると,湖の大きさに較べてそれなりに波がありそうだ.ただこのときは大したことがなかったのだが,この晩のクルージング(下に写真)では大波の大揺れで驚くことになる.
11/21(土)お昼はガリラヤ湖畔のレストランで頂いた.メインは写真の『聖ペテロの魚』(St.peter's fish)のフライだった.聖ペテロの魚はガリラヤ湖で捕れる淡水魚だそうだ.この地方に訪れる観光客は皆一度は食べるそうだから相当の漁獲量があるのだろう.
醤油があればいいな~と思ってテーブルを眺めたら,ちゃんとキッコーマンが置いてあってびっくりした.この国でもアメリカなどと同じように醤油は割りと一般的なのであろう.
ガイドSさんのお話では,仮にこうした調味料を持ち込むのはコーシェルフード(Kosher food)と言われるユダヤ教の適正食品規定に反するそうだ.コーシェルフードには
(1)草食動物で,割れたひづめを持ち反芻する家畜肉はOK,豚肉などは不可
(2)海や湖の生物では,ヒレと鱗のあるものはOK,蛸やうなぎなどは不可
(3)肉と乳製品の同時摂取は不可.例えばチーズバーガー,ハムサンドにクリーム入りコーヒーなどは不可
(4)醤油の持ち込みなどは食品が穢れると見なされるので不可
など色々規定があるそうだ.家畜や海産物に関してはイスラムのハラール(Halal)とかなり似た面がありそうだ.
さて聖ペテロの魚であるが,名の由来はイエスの時代まで遡る.聖ペテロ(St.peter)は元々ここガリラヤ湖の漁師で,イエスの一番弟子になり,イエス亡き後,布教に努め,バチカンの初代教皇サンピエトロ(San Pietro in Vaticano)として同名の寺院に祀られたその人だ.
当時ユダヤの税法では,神殿税として所得の10%が課せられたそうだ.神殿とはユダヤ教神殿で,他にも通行税,人頭税などの税もあろうから高い気がする.さてイエス一行が後述のカペナウム(レストランから近い)に居た頃,税務署員が弟子ペテロを訪れ,その税徴収で揉めていた.早い話ペテロは金がなかった.するとイエスはペテロに『魚を釣ってみなはれ』とアドバイスし,ペテロが釣り竿を垂れると,銀貨を一枚口に咥えた魚が釣れた.それで納税でき,後にその種の魚は聖ペテロの魚と呼ばれるに至ったそうな.
この魚はタイのような形をしているが,家庭でもよく飼われるシクリッド(Cichlid)の仲間で,卵を口に含み,孵化する習性がある.また小石を口に含んだり吐いたりする行いもあり,Sさんは『たまたま砂浜に落ちていた銀貨を口に含んだまま釣れたのかも...』とも.
なお12使徒の一人,福音書家で知られるマタイは弟子入りする前,当初は税務署員だったそうだ.人々から集めたお金の中から,予め宗主国ローマ帝国から下りてくる徴収税額を納めるのだが,それを超えるお金は賃金で,そのため執拗に金を取る徴税人が多かったそうだ.なので罪人や遊女と同列,民衆からは宗主国の手先と敵視されていたが,イエスはそうした立場の人たちに先ず教えを説いたということだ.
銀貨は4ドラクメ(drachma)で,イエスとペトロ二人分の神殿税に相当したらしい.1ドラクメ=労働者の1日の賃金くらいだったそうだ.つまり一人あたりの神殿税は賃金2日分くらいに相当したそうだ.
なお後年の舞台,12使徒のまた別の一人,裏切りのユダが受け取る銀貨としてもドラクメが使われる.
11/21(土)夕刻,ガリラヤ湖クルーズの船着場に行った.この時間でも冷えることはないが,風はありそうだ.私たちは乗るべき舟が到着するまで少し待った.
甲板で大音響の歌声を上げ,激しいダンスを舞う白い装束一団の乗った舟が接岸してきた.十字の模様の入った帽子に臙脂色の服装の,多分僧職と思しき人も見える.Sさんによると,エチオピアからのキリスト教巡礼団だそうだ.いや~それにしても大した盛り上がりようで,たまげてしまった.
エチオピアは正教系で,キリスト教徒が人口の60%あまりを占めるそうで,かなり多い.
私たちは舟に乗り込んだ.ものすごい揺れで両手を持ってもらいながら乗る.そして舟はガリラヤ湖に繰り出した.やはり揺れが半端ではない.たまに西の山(丘陵)から吹き下ろす風でこんなことがあるそうで,特に岸に近い辺りでは酷いようだ.エチオピア衆の盛り上がりに続く圧倒的サプライズだ.
ガリラヤ湖に関わるイエスの奇跡の一つは,上述の銀貨を咥えた魚を釣り上げたことだが,実はもう一つある.ある時イエスは弟子たちに,対岸まで,舟でのお使いに出したそうだ.しかしちょうどこの日のような風と波で,舟は大揺れで戻れなくなり,立ち往生したそうだ.するとイエスはそれを察知し,ガリラヤの湖面を歩いて救援にやって来たということだ.ペテロも真似してみたが,もちろん沈んでしまったという.まあ,日本にも忍法水渡りの術,甲賀忍法,池渡りの術,くノ一水渡りの術....などに若干似た話はあるかもしれない.
ガリラヤ湖からティベリアの街を眺めた.派手なネオンとか見当たらない穏やかな夜景だ.それでもイエスがこの辺りで布教した頃と比べれば圧倒的に明るく輝いているであろう.
私たちと岸の間には別の一曹が走っている.私たちの舟と同じようなタイプで,甲板上の灯りが東京湾納涼屋形船のような趣だ.多分さっきのエチオピア衆は納涼屋形船のノリで盛り上がっていたに違いない.それに較べて私たちは慎ましい,天ぷらもビールもなく,ひたすら手すりにしがみつきながら大揺れを凌いだ.
私たちはガリラヤ湖クルーズを終え,陸に上った.そしてSさんには,『皆さんの信仰心が試されましたね』と告げられた.信仰心が足りず揺れたのか?あるいはそれなりにあったので,無事に戻れたのか?解釈がまた難解だ.
先ほどのエチオピア衆は埠頭で何やら宗教的集いを催しているようだった.白いスカーフに服の装束は如何にも巡礼団だが,先程の音楽とダンスの盛り上がりも果たして宗教的(キリスト教的)行為の一環なのであろうか....? 印象が強烈でつい詮索が留まらない....