このヴィアドロローサ編では,エルサレム旧市街にあって,イエスが死刑判決を受け,茨の冠を被らされ,十字架を背負わされて歩いた道ヴィアドロローサ(Via Dolorosa:苦難の道)の第1留(ステーション):ピラトの官邸跡,第2留:鞭打ちの教会,第3留:イエスが最初につまづいた場所,第4留:マリアの教会,第5留:シモンがイエスに代わり十字架を背負った場所,第6留:ベロニカの教会,第7留:イエスが2度目に倒れた場所,第8留:聖ハラランボス・ギリシア正教会,第9留:聖墳墓コプト教会,第10留~第14留:聖墳墓教会内,各所の写真を載せました.
ヴィアドロローサは次のような道になっている.全行程1kmほどという.
嘆きの壁を見物してからヴィアドロローサへと歩いた.歩いたエリアは当初エルサレム旧市街イスラム地区となるが,ヴィアドロローサ全長の2/3程はイスラム地区であり,アラブ人住民が多い.
そろそろ第1留に近くなった.この辺りはトンネルを抜け出ており,青空が見えている.道は石畳で,周りの建物はやはり石造りだ.
往時ローマ帝国総督ピラトの官邸があった場所には現在カトリック教会が建てられている.普段中を見せてくれるそうだが,ちょうどミサの最中で扉を閉ざしていた.フランシスコ会の教会という.
イエスがシオンの丘のユダヤ教大祭司カイアファ官邸(現鶏鳴教会)で39回のムチ打ちを受けた翌日,ここピラトの官邸に連行された.当時裁判の権限は統治者ローマ帝国にあったため引き渡されたのだった.
そして総督ピラトはイエスがユダヤの王,救世主を自称したが,ローマ帝国にとっては本来問題ではなかったし,有罪には否定的だったそうだ.そしてたまたま過ぎ越し祭(エジプトで奴隷境遇だったユダヤ人がモーセ先導で無事脱出した祝の祭り)の時期であったので,慣例に従い他の強盗犯(バラバ)とイエスどちらか一方を特赦したいが,とユダヤ民衆に意見を聴いた.しかしピラトの意向に反し,民衆は強盗を特赦し,イエスはあくまで十字架に架けよ,の一点張りで,やむなくピラトは十字架の刑を判決したということだ.
この後少ししてイスラエルのユダヤ人はここを追われ,ヨーロッパ各地に散り,2000年間彷徨い,各所でキリスト教徒に迫害されるのであるが,その要因の一つがこのイエスの死刑判決加担だったと聞く.つまりキリスト教徒にとってユダヤ人はキリスト殺し(メシア殺し)の犯人で,1000年経っても,2000年経っても許し難い恨みがあったということのようだ.
死刑判決の後,現在鞭打ちの教会となっているここに連れてこられた.
教会はやはりフランシスコ会の手で,十字軍時代に建てられたという.ただ見たところ比較的新しく見えるので,改築や再建されたのであろう.
さて,ここで今度はローマ兵に鞭打たれ,紫の衣を着せられ,いばらの冠を被せられる.そして十字架を背負わされ,ゴルゴダの丘に向けて歩き始めた.
つまり当時は,死刑判決が下されると,即執行だったわけだ.
天井はいばらの冠を模してあるそうだ.ちょっと分かり難いが,いばらのトゲトゲがあったかな~?
カトリック教会なので礼拝堂には椅子が並べてある.円筒状凹みに,背負わされる十字架を準備中の絵が掲げられている.
鞭打ちの教会礼拝堂床の一部は,敷石で舗装された古い道跡が保存されている.2000年前十字架を背負わされ,歩き始めた道だそうだ.
第2留の鞭打ちの教会を後に,西へと歩いた.やはり石畳の道で,両側に石造りの建物が連続している.
ヴィアドロローサに面して建つキリスト教会があった.入り口上の十字架を囲っているのはいばらの冠だったか?
途中のキリスト教会礼拝堂を覗かせてもらった.装飾の少ないサッパリした礼拝堂だ.
ここはイスラムのエリアだが,14ステーションに直接関わらない普通のキリスト教会もこうして設けられているわけだ.
さらに行くと道は少し下りに入った.
先方には月のマークを載せたミナレットのモスクが見えている.多くの住民はこちらで礼拝でしょう.
ヴィアドロローサを行くこの服装は,多分キリスト教の神父さんでしょう.ヴィアドロローサにはよく似合う.
服や長いもみあげは嘆きの壁やシオンの丘でよく見かけた超正統派ユダヤ教徒の人々と同じだが,つばなしの帽子であるところが異なる.
ここは警察の詰め所でしょうか,スマホで暇つぶし的であるが,重装備のお巡りさんが待機している.背中のザックには何が入っているのでしょう.覗いてみたい.
なおヴィアドロローサはこの辺りで南へと向きを変える(左折する).
第3留:イエスが最初につまづいた場所には現在アルメニア正教会が建てられ,写真はその入口だ.
Armenian Catholic Patriarchateの下に,Ⅲ STATIO(N欠け)イエスが重い十字架を背負い,倒れこんだレリーフが刻まれている.
十字架は50kgもあり,運ぶ前に鞭打たれ,身体は相当衰弱しており,極めて大変だった筈だ.
コンパクトなアルメニア正教会の礼拝堂の祭壇には,上入り口レリーフと同じ構図に加え,これを見守る人々が薄くモノトーンで描かれている.中程の髪の長い女性はマグダラのマリアでしょうか.
アルメニア正教会の礼拝堂出口にはいばらの冠が描かれている.トゲトゲがいっぱいで,被ったら頭は血だらけになったであろう.
その下の絵は,礼拝堂祭壇の絵と逆に,薄いモノトーンイエスは立ち,フルカラーで見守る人が描かれている.これはどういう意味だったかな~
ヴィアドロローサから少し引っ込んだ場所に建てられた『苦悩の母マリア教会(Church of Our Lady of the Spasm)』だそうだ.十字架を背負った我が子をここで見たというマリアの悲しみは測りきれない.そんなマリアさまを偲んで建てられた教会だそうだ.
十字架を背負ったイエスキリストと苦悩に満ちた母マリア像があった.これ以上の悲しみはない表情で表現されている.
母マリアが実際出会ったヴィアドロローサの場所は,苦悩の母マリア教会と若干離れた,第3留にごく近いところだそうで,現在前記アルメニア正教会の敷地内,別の礼拝堂辺りらしい.
その礼拝堂がこの写真だ.
別の礼拝堂祭壇の絵はこのように聖母子に天使であろうが,まだイエスが幼子であるので,少なくとも第4留のシーンとは関係ないようだ.
第4留に関する私の記憶はかなり曖昧だ.
写真右小さな入口が,第5留シモン(Simon)がイエスに代わり十字架を背負った場所跡に作られた礼拝堂だ.
ヴィアドロローサこの辺りは写真のように階段のある坂道で,ゴルゴダの丘に向かう.そしてそれでなくとも厄介な50kgの十字架は大変だ.
道路脇入り口を潜るとすぐそこは礼拝堂(Chapel of Simon of Cyrene)になっている.祭壇には大きな十字の4斜方向に小さな十字を配したフランシスコ会のロゴだ.ガリラヤ湖やナザレでもフランシスコ会の教会が多かったが,どうやらヴィアドロローサでも同会関連が一番多いようだ.
色からすると黄銅(真鍮)のように見える.跪いたイエスに,背後のシモンが『私が替わりましょう』と手を差し伸べているシーンであろう.
このシモンという人は,たまたま過ぎ越し祭のため地方からエルサレムに出て来て,ヴィアドロローサに居合わせたユダヤ人(Simonというのはユダヤ人の名だそうだ)巡礼者ではないかとされているそうだ.
第5留から再び西方向に進む.そして少し行くと左側の壁にこの印しが現れる.
この場所に住んでいたベロニカ(Veronica)という女性が,通りに出て汗でびっしょりのイエスの顔を拭いてくれたそうだ.
なおベロニカはカトリックと正教で,後に列聖され聖ベロニカとなったそうだ.
左側ドアが,第6留:ベロニカの教会(Church of the Holy Face and Saint Veronica)入り口で,地下に聖堂を備える,ギリシャ正教会だそうだ.
ただ一般には開放されておらず,私たちも通り過ぎただけだった.
第6留:ベロニカの教会付近のヴィアドロローサの通りは坂が続く.イエスが汗いっぱいになったのも頷ける.
イエスの顔を拭いた布(ハンカチ)は『ベロニカのベール(Veil of Veronica)』として知られるという.このハンカチにはイエスの顔が浮き上がるという.
第7留は,第6留のヴィアドロローサ通りから南北の通りに交差する点にある.壁に,Ⅶと記された統一スタイルの円盤標識が掲げられている.なおこの南北通りはこれまでのイスラム地区と,先のキリスト教地区との境界になっている.
イエスは比較的急坂となるここで2度目の転倒をする.かなり弱っていたに違いない.
ところで現在聖墳墓教会のあるゴルゴダの丘はエルサレム城壁の内側にあるが,イエスの時代はこの通りに城壁があり,ゴルゴダの丘は城外だったのだそうだ.そしてこの城壁部分に処刑場であるゴルゴダの丘に出る門(裁きの門)が設けてあり,ここで死刑囚に対する罪状が読み上げられ,一般市民に知らしめたそうである.
イスラム地区/キリスト教地区境界であるが,周囲のお店はアラブ風,中東のスークの雰囲気そのものに変わりない.衣料品,アクセサリー,乾物,日用品,雑貨,お土産品,.....など色々並んでいる.第7留はそんなスークの真っただ中に位置している.
地元住民に加え観光客,巡礼団体も歩く.20~30人くらいに分かれ,それが10あまり,つまり300人位の巡礼団を見かけた.やはりクリスチャンの巡礼団となると規模が大きい.
この石壁はギリシア正教の聖カラランボス教会の一部で,通りに面している.
イエスの時代,ここは上記第7留近く,『裁きの門』を出たところ,即ち城外であったようである.
エルサレムにはイエスを死に追いやった人が多かったが,一方支持者もかなりいた.この辺りでイエスは嘆き悲しむ婦人たちに対して『エルサレムの娘たち,わたしのために泣くな.むしろ自分と自分の子供たちのために泣け』と言ったそうだ.
看板の絵から,魚とチキンと鳩肉を売っているのだと思われる.鳩肉はエジプトではよく食されるが,ここエルサレムでも,写真のように看板のアラビア語とスカーフ姿のお客さんが見えるので,少なくともアラブ人は食べるのであろう.
この辺りの建物は3次元的にお隣同士でからみ合っており,とても複雑だ.で第9留:聖墳墓コプト教会への曲がり角で見た眺めがこれで,上部十字架黒いドームが聖墳墓教会,手前下が第9留:聖墳墓コプト教会である.
第9留はイエスが三度目に倒れ込んだ場所であり,当時の処刑場ゴルゴダの丘(現聖墳墓教会)の直前だったわけだ.
十字の下にアラビア語で先ず記されているのが特徴かな.コプト正教会(Coptic Orthodox Church)は特にエジプトに信徒が多いそうなので,アラブ系なのであろう.アラビア語の下にCoptic Orthodox Patriarchateと記されているが,Patriarchateは総主教座のことらしい.
ちょっと怪しげなインテリアの礼拝堂だ.大きな絵が目立っている.
茶色の衝立がイコノスタシス(聖障)であろう.その中央には聖母子像,上には色々なポートレート....など置かれる.天井や壁はコンクリートむき出しで,洞窟教会の雰囲気だ.
聖墳墓コプト教会の中庭にはさらに洞窟教会的な自然石の部屋が作られている.この部屋も礼拝室の一つだったか?
聖墳墓コプト教会に入り組む,いや隣に接した商店街がある.聖地と俗世界がゴチャゴチャ混ぜ込んだ雰囲気で,何とも不思議な感じですな~
聖墳墓コプト教会辺りから聖墳墓教会を見ると,黒いドーム部分が望める.このドームの直径は神殿の丘の岩のドーム(金色)と同じサイズだそうだ.
建物はゴルゴダの丘を覆うが如く建てられており,幾度か増改築が繰り返されたようである.周囲との敷地や建物とのせめぎ合いで,随分と入り組んでもいるのではなかろうか.
聖墳墓教会はカトリック,ギリシヤ正教,アルメニア使徒教会,シリア正教会,コプト正教会,エチオピア正教の共同施設ということだ.共同とは言っても,必ずしも和気あいあいということではなく,むしろ揉め事は多いそうだ.まあ,ベツレヘムの聖誕教会が3宗派共同管理でも大変と聞いてきたので,ここは6宗派なのでそれに輪をかけたようなものであろう.
で一つに,教会入口の鍵をどの派が管理するか揉めたが,いっそイスラムの人に預けよう,と話がまとまったそうだ.以来その伝統が続き,ガイドSさんは頻繁にここを訪れるので,歩いているその人を直ぐ見つけて,教えてくれた.近くのお店のご主人(イスラム教徒)だそうだ.
これが聖墳墓教会入り口ドアで,木製の年代モノだ.フックの当たる部分はかなり抉り取られている.ここに鍵穴が付いており,その鍵を上のお店の旦那が管理しているわけだ.
聖墳墓教会(Church of the Holy Sepulchre)の入り口をくぐると中庭に出る.切った貼った的雰囲気が如実に感じられる.
はて聖墳墓教会の始まりであるが,ベツレヘムの聖誕教会と同じようにローマ帝国で最初にキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝と,その母ヘレナの働きによるものだという.
その後はイスラムとの攻防で破壊や再建,キリスト教諸宗派の取り合いなどで,現在の構成は今から200年前くらいに固まったものだという.関係ないがチャイコフスキーの序曲『1812年』のころか.
中庭から二階窓下に梯子が立てかけられている.各宗派の200年前協定で,以降建物には一切の変更を加えてはならない,との条項があり,そのときの立てかけられていた梯子がそのままの状態に維持されているそうだ.イスラムの鍵管理についても同様な訳で,年季が入っている.
荘厳な雰囲気の聖墳墓教会本堂に入っていった.内部もまた込み入ったレイアウトになっている.建築家は苦労したに違いない.
アーチ型仕切りにはフランシスコ会ロゴが付してある.この先はカトリックの分割管理範囲のしるしであろう.
イエスが十字架に架けられる前にまず衣服を剥ぎ取られた場所だそうだ.聖墳墓教会二階部分外側に突出た小さな聖堂という.剥ぎ取った衣服は連れてきたローマ兵のものとなったとか.
第10留の次の場所で,ここでイエスは,横倒しされた十字架の上に仰向けで寝かされ,処刑執行官ローマ兵によって両手(手首)を釘で打たれ,また両足を重ねて釘を打たれた.朝9時頃であったそうだ.
この辺りは非常に込み合っている.第11留の横,ボックスに収められたマリア像を過ぎ,十字架に架かったイエスキリスト像に時間を掛けてゆっくり進む.
なおこのマリア像は,1778年にリスボンより寄進されたそうであるが,大変悲しそうなお顔だ.
十字架像の前にはテーブル状の覆いがあり,そこに十字架を立てた穴がある.皆しゃがんで覗く.また十字架の背後は金,銀色に装飾された祭壇が設けられている.
覆いの下には,実際ゴルゴダの丘に掘られたという穴が見える.ここにイエスキリストの十字架が立てられたのだ.現在はその象徴として,装飾され,穴の空いた銀製プレートが床に嵌めこまれている.
上述のように十字架に架けられたのは朝9時頃で,罪状プレートには『ユダヤ人の王』と記され,また同じ日,同じ時間に二人の強盗犯がイエスの左右にやはり磔刑に処せられたということだ.
そして昼の12時になるとすべて暗闇になり,継続し,3時になるとイエスは大声でアラム語で『わが神よなにゆえ我を見捨てたまいしか』と叫び,そして息を引き取ったそうだ.磔刑は事切れるまで長い時間苦しむ残酷な刑だ.
十字架を立てた穴近くの様子がガラスパネル下に覗けるようになっている.床下そのままなのか,他所から運んだゴルゴダの丘の岩なのかよく判らないが,今は穴に並んで位置している.
十字架の穴を覗き,お祈りしてから,その前方の広間に来た.ここでグループの皆さんを待つ.
色々な人が参拝している.多くはないが家族連れの姿も見える.こうして小さい時からキリスト教文化に育まれて大きくなるのだろう.
広間脇の燭台には参拝者の立てたロウソクが周囲を赤々と照らしていた.
午後3時過ぎ,事切れたイエスは十字架から降ろされ,聖母マリア,および他の関係者がその遺体を引き取った場所だそうだ.
このときの光景はいろいろな人が描いているが,なかんずくミケランジェロ作ピエタ(Pieta:哀悼)像は超有名作だ.私自身は,サンピエトロ寺院でこれを見たとき,素晴らしいのは間違いないが,亡くなったときイエスは30歳を越え,15歳頃出産したであろう聖母マリアは45歳は過ぎていた筈だが....それが著しく,不自然に若いのに何とも驚かされたものだ.
十字架から降ろされたイエスの遺体はこの石の上に寝かされ,香油を塗って清められ,没薬を添えて麻布に包まれたそうだ.
信徒の方の多くは,ここに手や額を押し当てている.そしてこの塗油の石に,自分の持ち物を載せてお祈りしている.どういった意味合いか解らないのだが.....
塗油の石の背後壁には大きな遺体受け取りの場面の壁画が掛けられている.十字架から降ろされ,塗油の石上で香油が塗られ,そして麻布に巻かれて運ばれるシーンだ.
ところでこの遺体受け取りには,12使徒など男どもは殆ど逃げておらず(壁画では光背のある天使など以外に少数いるが),主にマグダラのマリア,ヤコブの母マリア,サロメといった女性が多く当たったそうだ.
塗油の石のある場所は広間になっており,高い天井だ.隣には大ドームの天井も見えていて,次はその下に行く.
私たちは第13留の広間から大ドームの部屋に進んだ.大ドームの下側は円筒状の大きな部屋(ロトンダ rotondaと呼ぶそうだ)になっている.本殿と言ってもいいように思う.そしてその中央にはイエスの墓が配置されている.
ドームの真下に,上部に円筒を載せた濃い茶色の立方体構造物が据えられている.立方体の周囲には様々な装飾が施され,内部にイエスのお墓がある.
立方体の手前の面には,写真のようにすだれのようなピカピカが下がる入り口が設けられ,ここをめがけて並ぶ.
ここの入り口も狭く,内部の棺のある部屋とその出入り口はさらに狭いので,長い列となっている.第12留:十字架の穴の混みようといい勝負だ.
入り口にたどり着いた.ピカピカ銀の鎖の縄のれんの上には丸い枠に嵌められた13枚のポートレートが掲げられている.中央は2つの十字架を両手に持つイエスの絵柄で,残り12枚は皆立派なひげの男性だ.数からして12使徒であろうか?
銀の縄のれんを潜ると,色々レリーフの刻まれた大理石の壁の前室となる.ランタンが下がり,キャンドルが灯り部屋は薄明かりに包まれている.
そしてここには先程より一層狭い出入り口があり,前の人が出てくると交代で中に入る.
ここがイエスキリストの墓所だ.室内は狭く,同時に最大3人くらいが入れる.前に人と交代して入ると急ぎお祈りして,シャッターを押して,元に戻った.一見広く写っているが超広角レンズのためだ.
イエスはこのお花の下に埋葬された.ただ,イエスは三日後に復活したのでここから抜け出たのであろう.ところでここの墓を覆う丸い石のドアは開かれていたのだが,復活した場所は神殿の丘にある聖なる岩の上....と,この辺はちょっと混乱して解らない....
聖墳墓教会にはいろいろな人の礼拝所が設けてあるが,ここはマグダラのマリアの礼拝所.イエスの墓室の左前方に配されていた.祭壇のレリーフはモダンなデザインだ.
基本的に共同管理6宗派共通のこのイエス埋葬地の筈だが,コプト教会だけは意見が一致しないのか,過去の政治的経緯からなのか,よく判らないが,とにかく礼拝堂は別だ.上記墓室入り口の反対側に取って付けたように,右写真のコプト礼拝堂が設けてある.まだいろいろ事情があるんですね~
ヴィアドロローサを一通り巡り眺めてきた.ギリシャ正教の礼拝所を眺めて終わりにしよう.
この礼拝堂はちょっと重めの色彩のカーペットに,その先に同系色のイコノスタシス(聖障)が立つ.天井絵も落ち着いた彩色だ.
ということでヴィアドロローサはこれにておしまい.