このベツレヘム編では,2015/11/22(日)エルサレムからマトラケルのキブツへ行き昼食をとり,再びバスに乗りベツレヘム行き,聖誕教会,および聖カテリーナ教会を見物.そして夕刻エルサレムに戻るときの写真を載せました.
太い赤線がエルサレムとベツレヘム間で通ったトラック.図の右上,エルサレムWestern Wallの右,シオンの丘からバスに乗り,国道60号線でRamat Rachchelと記された場所のキブツレストランでランチの後,ベツレヘムに行った.
ベツレヘムからの戻りはほぼ同じ道を辿り,エルサレム新市街赤いマーカー位置のホテルに落ち着いた.
別窓で大きなGoogleマップを開くシオンの丘を一通り見た後,ベツレヘムに向かうためにいつもの赤いバスに乗る.ドライバさんは私たちが観光中の長い時間路上駐車はできないので,他の場所にバスを置くため苦労しているようだ.
乗用車は日本製が多いが,なぜかバスはボルボとかベンツなど欧州製が多いようだ.まあ,他国でもそうした傾向があるが.
標高800mから高度を下げながら国道60号線に入っていった.新市街なのか旧市街なのか区別付かないが,かなり建物が密集している.
街道沿いには新築工事現場もよく通過した.集合住宅であろうか.道路標識の中段に『←Old City』と見えるので,この場所は新市街と云うことになろうか?
バスはラマトラケルのキブツに到着した.ここはキブツホテルレストランの玄関口だ.看板の下に光るキブツ内建物の案内図があり,傍の守衛さんに訊いてみた.すると左端大きなピカピカがレストランのあるホテル,その下長い3列が野菜などの温室,中央の点々群は住民の居宅,右の少し大きな点々群は聞き漏らした.
何れにしてもキブツは農業だけでなく,こうしたホテル経営なども手掛けるということで,このキブツは大きなプールなど備え,エルサレムにも近いのでリゾートとして人気があるらしい.
トレイを持って並び,右側のウエートレスに推薦されたシュニッツェルを装って貰い,他にスープやサラダ,サイドディッシュを載せた.
とても広いレストランだが,時間が時間だけのせいか混み合っている.やむを得ないか.
何にしてもイスラエルはこうしたセルフサービスのレストランが当たり前なのだろうか?多分そのようだが....
さてラケル(Rachel)とは旧約聖書に現れる女性で,ヤコブの奥さんだったそうだ.当時ヤコブには女奴隷の側室もいたが,ラケルは正妻でやがてヨセフ(この名は別にも多い)を生んだということだ.
まあそんな訳でラケルに繋がる遺跡があるようで,その幾つかの発掘品をこうして展示しているようだ.
それと,ラケルを祀った『ラケル廟』(Rachel's Tomb)がこの南側にあり,キリスト教のみならず,ユダヤ教,イスラムにとっても聖なる場所とされているようだ.
なかなか広い庭には色々な花が咲いていた.詳しい人に聞くと,日本では見かけない種類もあるようだ.
ラマトラケルを出てベツレヘムに向かった.途中こうした比較的緑の多い街も通過した.
ベツレヘムはパレスチナ領内にある街だ.イスラエルとの境界にはこうした高いコンクリート製セキュリティフェンス(分離壁)が築かれている.私たち外国人は問題ないが,一般のユダヤ人は入ると危ないそうだ.
壁と検問所はもちろんパレスチナ側にも問題で,以前は朝自由にイスラエル側に来て仕事をし,夕に戻る人が多かったのだが,現在はそれが簡単でなく甚だ困っている状況だそうだ.
ベツレヘムは1967年第三次中東戦争で一旦イスラエルに占領されたが,1995年パレスチナに返還されたそうだ.ガイドSさんは占領地を3つに分類,完全に返還しパレスチナの自治を認めたAエリア,イスラエルが完全支配のCエリア,その中間のBエリアに分けた場合,ベツレヘムはAエリアになるという.
ただその返還後もイスラエル側とは紛争が絶えず,2000~2005年に第2次インティファーダ(Intifada)が起こり,かなり死亡者と被害が出たそうだ.私たちのドライバさんはそれ以前からの繋がりで特別な顔パスを持っており,こうして入れるということだ.
ベツレヘムにの街に入るとよりアラブ風,具体的には先ずアラビア文字の看板が多くなり,ヘブライ文字は見なくなる.イスラエル側ではヘブライ文字だけでなく,アラビア文字も結構あるから,結構違いを感じる.
ただベツレヘムはさらに古く今よりおよそ3000年前からユダヤ人と関係深い.つまり当時の古代イスラエルダビデ王(イエスの養父ヨセフのご先祖)誕生の地であった.
また,時代が下りイエス誕生の頃,ユダヤを統治していたヘロデ王(Herod:在位37BC~4BC)はこの地に何かと災いをもたらすことになるのだが.....
駐車場ビルに停まり,ここで降りた.万国旗を掲げるお土産屋さんが並んでいる.
ベツレヘムの人口は25000人くらいで,労働者の20%が携わる観光は主要産業で,市の財源の半分以上が観光によるものだそうだ.やはりイエスキリスト生誕地で,聖誕教会などが巡礼者,観光客を引きつけているそうだ.
なお,上述の聖地ラケル廟(Rachel's Tomb)であるが,元々はこちら側からもルートが通じていたのだが,今はセキュリティフェンスでアクセス不能になったそうだ.これはパレスチナにとっては相当の痛手のようだ.
ちょうど写真中程,スタバと紛らわしい『STARS & BUCKS』カフェがありますよと教えてもらう.ロゴや色使いを上手く(?)パクっていて,笑ってしまう.
本を抱えているので講義を終えた学生であろう.多くはスカーフ姿のイスラム教徒だ.
メンジャー広場(Manger Square)に出た.正面に聖誕教会,その右には手前に張り出すように大きなアルメニア教会,左手樹木の向こう側辺りに聖カテリーナ教会が見えている.この3つが¬の字状に繋がっている.
聖誕教会はローマカトリック,ギリシャ正教,アルメニア教会の共同管理(区分所有)だそうで,まあときどき喧嘩も起こるらしい.
クレーンが見えるが,現在大がかりな改修工事中で,内部には足場が組まれている.
石灰石がメインであろうか,白い石造りだ.最初は326年,ローマ帝国コンスタンティヌス帝が,母ヘレナの助言を得て,イエス誕生の地を記念して建立したそうだ.途中イスラム勢力との攻防で,壊されたり,再建したりで,今の姿になったという.
入り口にきた.バカに狭く120cmの高さで,腰を屈めて通る.謙虚のドア(The Door of the Humility)と呼ばれ,オスマン帝国時代このように改修されたらしい.馬に跨ったままの侵入を食い止めるためだったそうだ.
左の聖カテリーナ教会はフランシスコ派カトリックの教会だそうだ.後で見せてもらうことになってる.
謙虚のドアをくぐると大礼拝堂になっている.ここはギリシャ正教の管轄であろうか,椅子(ベンチ)は置かれておらずだだっ広くなっている.そして床の一部がガラス張りで,写真のようなモザイク画が望めるようになっている.このモザイク画はコンスタンティヌス帝建立当時そのままで,とっても古いそうである.
モザイク画には後述の東方三博士の絵もあった(私は見なかったが)そうで,攻め入ったイスラム軍も同じく三博士を崇めていることから,教会は破壊を免れたということだ.
主祭壇はギリシャ正教の管轄のようで,イコノスタシス(聖障)が立てられ,たくさんのイコンが飾られている.全般に金銀きらびやかなデザインの印象を受ける.ところで大分前より,天井から雨漏りする問題があったそうだ.ただ,何分にもカトリック,ギリシャ正教,アルメリア正教共同管理にため意見がまとまらず,ず~っとそのまま放置されてきたそうだ.
さてこの祭壇や,その手前の大きな礼拝堂には足場が組まれ,工事中なのだが,その改修がいよいよ始まったということなのだ.
2012年ユネスコより,エルサレムからベツレヘムに至る巡礼路の一部などと共に,ここがパレスチナ政府の申請で,同国初の世界遺産(危機遺産)として登録され,メンテナンスの勧告があったそうだ.そんなことからパレスチナ自治政府が介入し,修復作業が実現し,始まったそうだ.
足場が組まれ,狭く危なっかしい場所でキャンドルやイコンを販売していた.私たちの多くはただの観光客であるが,信徒の方も多く訪れるので,必需品であろう.
大理石であろうか,緻密に彫刻された数本の柱が纏められた込み入った構造の柱になっている.ローマ帝国の建築技術が活かされているのだろう.
上記柱の間の地下入り口梁には細かく彫刻され,彩色されたレリーフが見られる.私にはちょっと東洋風な香りが感じられた.
梁の上下にはフレスコ画が描かれている.だいぶ傷んでいて,これらも補修工事の対象ではなかろうか.
混みあう階段から地下室を覗き込むとこんな風になっている.写真左側にイエスが生まれた場所があり,そこを見たり,手を触れたり,口づけするために並んでいるのだ.
何しろ狭い場所に大勢詰めかけているので,長い順番待ちだ.中を覗き込んで満足し,『はい次の人どうぞ』と行って立ち去る.
ところでナザレに住んでいたマリアはなぜここでイエスを出産したのであろう?それは当時の統治者ローマ帝国政府が国勢調査を行うため,本籍地(ユダヤ人の故郷,しかもヨセフはダビデ王の末裔)ベツレヘムに来るよう指示があったため....らしい.
なおこの時はタクシーとかないので,マリアはロバに乗り,ヨセフが引いていったという.結構時間が掛かったのではないでしょうか.
その招集命令のため,どのホテル予約サイトを見ても当地のホテルは皆満杯で,マリアとヨセフはどうしても部屋が取れなかったそうだ.そんな折りマリアにはイエス誕生のときが迫ってきて,で困り果てて近くの農家に頼み込み,ようやく馬小屋の片隅を貸してもらったそうだ.その馬小屋の片隅がここだというわけだ.なお当時地下馬小屋は一般的だったようだ.
順番がきて,イエス生誕場所を確かめる.狭いが床は平らに磨かれた大理石で,当然馬小屋ではなくなり,聖地に変わってから改装されたのであろう.
生誕場所はこんな風になっている.燭台を背後に,18世紀にフランスから献上されたという銀の十四芒星が嵌め込まれている.14はアブラハム,ダビデ王,バビロン捕囚等々,イエス誕生までの世代の数だとか.
何れにしても,マリアさまはここで横になり,一夜が明け,6BC12月25日早朝,イエスは無事生まれたそうだ.ほっとしたことでしょう.
12月25日早朝生まれた幼子は布で包み,傍らの飼い葉桶に寝かせたそうだ.それが写真の飼い葉桶だそうで,これにはたまげてしまった,ガ~ン.飼い葉桶なら,丸とか楕円状木の底板の周囲を,これまた木の板複数枚で囲んで,それに竹とか,金属の輪っかで締め付けた容器であろうが.....それが,イエスの桶ときたら,四角い底石の周りに,やはり石の壁を立てた形態だ.....今回の旅最大のサプライズだった.
このとき近くの野原で放牧し,宿営していた羊飼い(普通の)たちに天使が現れ,キリスト(救世主)の誕生を告げたという.羊飼いたちは馬小屋の聖母子を訪ね,祝福して帰ったそうだ.そのときの様子は,4つ上の写真で,私たち観光客をすべて羊飼いに入れ替えたシーンと同等になろう.
聖誕教会地下からの出口はトンネル状部屋になっており,関連する絵画が掲げられていた.
なお羊飼いに続いて,東方の三博士も祝福のためここにやって来たという.つまりユダヤの王となるべき救世主(キリスト)を探して旅していた東方の三博士たちも星から知り,聖母子を訪れ,黄金,乳香,没薬を捧げたそうである.東方の三博士とはマギ(magi)とも称され,本来宗教儀礼を司っていたペルシア系祭司階級の呼称だそうである.ただキリスト教世界ではペルシャのみならずエジプト北部など含む広範囲の三人の占星術師,若しくは天文学者と推測されるそうである.なお上述の銀の十四芒星は三博士たちに告げた星との説もあるようだ.
また捧げた1番め黄金は古来普遍的な高価値な品,2番目は以前イエメンのアルハジャレンを訪れたとき,乳香の木,およびその樹液を固めた白い乳香を見たことがあり,3番目没薬はカンラン科の低木から得たゴム樹脂で,乳香同様古来薫香料として珍重されるそうだ.
--------------------- イエス一家のその後 ---------------------
ところで,イエスが生まれたこの頃ユダヤを統治していたヘロデ王(Herod:在位37BC~4BC)はエルサレム神殿再建を果たすなど功績もあったが,大変猜疑心が深く,妻子や縁者を多く殺害.ベツレヘムで救世主(キリスト)が誕生したと聞き,兵士に命じてベツレヘム一帯の2歳以下幼児の皆殺しを企てたそうだ.これを天使の告知で知ったヨセフとマリアは,イエスを連れてエジプトに逃れ,ヘロデ王の没する4BCまで2年間そこで過ごしたそうだ.その昔,1000年近く前アブラハムの孫ヤコブ一族が飢饉のためエジプトに移住したのと似てますね.
聖誕教会直ぐ隣りに聖カテリーナ教会が建てられている.この教会はフランシスコ会の手で,1882年に建立され,その後現代風に改築されてきたそうだ.昔パレスチナゲリラ立てこもり事件が起きたことがあるそうだ.
本堂屋根上にはマリア像が,前には聖書学者ヒエロニムスの像が建てられていて,足元は協力者パウラのサレコウベだそうだ.ヒエロニムスは上記誕教会を建立したローマ帝国のコンスタンティヌス帝より若干後の世代で,ギリシャ語新約聖書をラテン語に,ギリシャ語とヘブライ語原典の旧約聖書をラテン語に翻訳した人だそうだ.
当時世界では,ギリシャ語やヘブライ語と較べてラテン語を理解する人が圧倒的に多かったそうで,キリスト教を広めるに多大な貢献をしたということだ.
回廊はすべて石造りの重厚なデザインだ.アーチ型窓から望むオレンジなどの庭木が瑞々しい.
美しい礼拝堂だ.カトリックのインテリアデザインにしてはさっぱりしているように思う.本来聖誕教会で行われるのであろうが工事中のため,イエスの誕生日,クリスマスミサはこの礼拝堂で行われ,世界に向けて発信されているそうだ.
ところで教会に名を冠した聖カテリーナであるが,ローマ帝国時代,エジプトの生まれで,非常に才知に長け,皇帝と論争するほどだったそうだ.偶像崇拝を非難し,18歳で殉教し,天使がカテリーナの遺体をシナイ山(聖カテリーナ山)に運んだという.その場所には現在聖カテリーナ修道院が建てられており,以前訪れたことがあった.小ぢんまりした礼拝堂の壁際にミイラ化した聖カテリーナの片手が掲げられていたのには驚いたものだった.
上述のようにヒエロニムスは聖書の翻訳に精魂傾けたわけだが,主にこの地下室を書斎にしていたようだ.地下室は家畜小屋(主に羊だそうだ)としても使われており,それらと一緒にいたといってもさして違いなさそうだ.ヒエロニムスにはパウラと言う名のローマ婦人がいたそうだ.彼女に先立たれた後も骨を傍に置き,翻訳に励んだそうだ.前庭立像の足元サレコウベはその象徴であった訳だ.
ヒエロニムス書斎からさらに進むとちょっと怪しげな小窓があり,覗き見すると私たちが先ほど見てきた聖誕教会地下イエス生誕場所が見えた.これには皆一様に驚いた.聖カテリーナ教会は聖誕教会の結構離れている場所と思っていたが,間近で,ちょっと地下を行けば通じることが判った.
聖カテリーナ教会の絵やステンドグラス,彫像などはとても美しい,その中の幾つか上げておこう.
聖カテリーナ教会見物を終えて,引き上げた.メンジャー広場まで戻ると既に陽は傾いていた.
広場先には月のマークのモスクのミナレットが,その右に十字の鐘楼のキリスト教会が見えていた.
メンジャー広場を過ぎて道路に突き当たると,そこに交番があり,中にこの二人の写真が掲げられていた.
2004年までPLOを率いたヤーセルアラファト(Yasser Arafat)議長と,それを継いだマフムードアッバス(Mahmud Abbas)議長だ.
最もパレスチナ的写真だと思うが,背景の建物はモスクではなく,十字架のあるキリスト教会なんですね~
道路標識はアラビア語と英語だけで,ヘブライ語はない.エルサレムでは3つが併記されているので,ちょっと違いがある.その背景にある意図は十分に感じられるが.
バスはベツレヘムの街をスタートした.街は丘陵に広がっており,麓の暮れ行く様子が望めた.
そしてこの眺めている斜面がミレーの『落ち穂拾い』と云う有名な作品の舞台だそうだ.ガイドSさんが話してくれるまで,そんなこと夢にも思ったことがなかった(漠然と,中世ヨーロッパの寒村風景と...).
さて旧約聖書レビ記で定められた律法によれば,地主は畑の作物収穫時,故意に刈り残しし,貧しい小作人や寡婦に落ち穂として拾わせよ,とのことだ.今は写真の通り住宅がいっぱいであるが,旧約聖書時代は殆ど畑だったそうだ.例えば横浜港北ニュータウンは,30年で畑から住宅地に変わったが,ベツレヘムは3000年で宅地転換,桁外れに長い年月だ.
具体的な登場人物はこうだ.未亡人ルツが義母ナオミを養うため,遠縁の地主ボアズの畑で落ち穂拾いする,ということだ.ミレーの絵は3人拾っているのでルツの友達も一緒だったようだ.ボアズはそんなルツに好意をいだき,姑ナオミの口利きで結ばれ,それがダビデの祖先となったのだそうだ.
ベツレヘムのお土産屋さんを覗いた.イコンなどに加えて特産だというこうした木彫品があった.イエスと12使徒の最後の晩餐シーンだが,ダヴインチのと違って,テーブルはなく,床に半ば寝そべって食事している.実はこれが当時の食事スタイルだったそうである.
ただこのスタイルは食べ難いとは思う.なので,例えばヒマラヤのオーガナイズドトレッキングではシェルパが5000mくらいまでテーブルを運び上げてくれる(やり過ぎかも).
お土産屋さんの前に出るとアザーンが響き,そして間もなく歩いていた何人かの男が薬屋さんの前に座り,お祈りを始めた.この日の4回目,4:45PM日没のお祈りだ.
バスはエルサレム新市街に入ってきた.大都市にしては照明は控え目で,道行く人も多くはない.
この辺りは日本の首相を含めて,各国首脳の泊まるホテル,例えば東京ではオークラ級やそれ以上,が揃っているそうだ.
買い物するためエルサレムのスーパーに寄った.写真のようにキブツ産生鮮食品から酒類,加工食品,台所用品....など他国のスーパーと同じような品揃えだと思う.
関東のスーパーでは混み合う時間帯だと思うが,ここは空いていた.入り口では若い男性の警備員が立っており,見慣れない物を手にしているので訊ねたら,金属探知機ですと教えてくれた.この辺はやはりエルサレムだ.
スーパーでは,安くて美味しいですよ~とSさん推薦のこのワインを買った.gamlaはゴラン高原にある古代ユダヤ人都市名だそうだ.現在は占領地なので,そこの名を冠するのは大胆というか強引な気もする.
もちろんシェケル(NIS)の値札だが,円換算で2000円ちょい,レジでは,ツマミのポテチなどと合わせてカードが使えるので好都合だ.
ホテルの部屋で飲んだがなかなか美味しかった.イスラエルのワインは最近名を上げているそうだが,いいと思う.カナのワインと違って甘くなく,むしろ辛口で気に入った.
やはりざくろ(Rimonim)を冠するRimonim Shalomホテルに到着した.広いホールだ.新市街の不便なロケーションにあって,大きな病院が傍にあるそうだ.
こちらはポーターが荷物を持って運んでくれるというので,買ったワインを持って部屋に入った.この部屋だ.ちょっと小さい写真だが,奥のテーブルには水とジュース,チョコレートが並べてあった.ただwifiはティベリアのRimonimと違って,有料だそうだ.今どき有料とは....まあ,要らないだろう.
部屋の窓を覗くとエルサレム新市街の夜景が広がっていた.主に住宅であろうか,色温度の低い赤い照明が多い.古代からの都市にふさわしいであろう.窓をチラッと眺めて楽しむガムラワインも悪くない.