このオリーブ山編では,エルサレムのオリーブ山エリアへ行き,主の祈りの教会,主の涙の教会,ゲッセマネの園,万国民の教会を見て回ったときの写真を載せました.
このページでは右側ループで囲んだオリーブ山エリアの,主の祈りの教会,主の涙の教会,ゲッセマネの園,万国民の教会を巡る.
オリーブ山観光に関わる簡易マップ
エルサレム東に位置する標高825mの丘陵.古くからオリーブ畑になっていたためこの名で呼ばれるそうだ.ここからは前のページに記したシオンの丘が良く見える.
なおちゃんとしたマップは 別窓で大きなGoogleマップをどうぞ.
11/23(月)午後シオンの丘で鶏鳴教会を見てから,バスでオリーブ山へと向かった.大まかにはアラブ系の旧市街を通過するらしいが....
街並みや道行く人はアラブ風だ.つまりアラブ人の旧市街のようだ.上部天幕の間延びしたダックスフンドのようなアラビア文字はロゴの幅調整に使われているようだ.便利な文字だ.
ヘロデ門の表示のようだ.3言語表示だ.ところでこの矢印の方向からすると,城壁の南側ではなく,今バスは北側を走っているということだろうか?
オリーブ山が近くなり,このような石造りモスクの前を通った.ただパレスチナ側に見かけてきた,金色ドームや高い2本ミナレットなどと比べると華美ではなく,実用的な感じだ.
オリーブ山に着き,私たちは先ず『主の祈りの教会』を訪ねた.イエスが弟子たちにどのように神に祈ればいいのかと訊かれ,祈りの文言,つまりまあ定型文を教えたという場所に建てられたそうだ.
オリジナルは,4世紀,古代ローマ皇帝コンスタンティヌス一世の母ヘレナにより建立され,現在の建物は19世紀に再建されたそうだ.
現建物の一部に,4世紀ヘレナ時代の遺構が残されている.ベツレヘムで見てきた聖誕教会もコンスタンティヌス帝と母ヘレナによる建立(ただしそちらはヘレナはアドバイザー)だったので,この点似ている.
さて当初イエスは,人によって祈り方が違ったり,あるいはユダヤ教分派として新しい祈り方が分からなかったので訊かれ,そしてヘブライ語で答えたのでしょう.
そして後の世,キリスト教にも複数の分派ができ,諸国に布教された今日,オリジナル祈り文を統一見解として諸国語に翻訳した,ということのようだ.
それらの訳文はこの回廊や庭の壁にタイルで掲げられている.
回廊に収まりきれない訳文が教会庭壁に掲げられている.こうして見るとキリスト教は随分世界に広まっているものと再認識させられる.
随分サッパリしたデザインの礼拝堂だ.主の祈りは正教も,カトリックも,プロテスタントも,基本的には共通だそうで,そうした各派の特色を廃してデザインしたためであろうか.
日本語訳は礼拝堂左側壁に掲げられている.劇場で言えばS席クラスのロケーションだ.
『天においでになるわたしたちの父よ,み名が.......ください.アメン』と記されている.
クリスチャンの方には常識であろうが,『主の祈り』の主とは何ぞや,主が祈るのか?主に祈るのか?....基本的なことが解らない.うちの古い辞書(広辞苑第四版)で見てみたら4番目の解釈で
“ しゅ【主】
(4)(Dominus ラテン) キリスト教で神またはイエス=キリストの称.”
と載っている.これではっきりしたかな?
主の祈りの教会を出るとキドロンの谷(Kidron valley)の墓地が広がっていた.
最後の審判の日,ここに神が立ち死者がよみがえる場所とされ,墓地が作られるようになったそうだ.写真手前はユダヤ人,奥の城壁側はアラブ人のエリアだそうだ.
ユダヤ人は大きな石棺の下に,確か神殿の方向に足を向け,アラブ人はその逆方向(とにかくユダヤ人とは逆)に向けて埋葬されるそうだ.これまで他の国で聞いたモズレムの埋葬は右向いた顔がメッカの方角になるように埋葬,だったので何れにしてもちょっと違うようだ.
大分陽が落ちて旧市街は完全に逆光になった.眺めとしてさっぱり良くない.翌日朝もう一度立ち寄ってくれるそうなのでそれに期待しよう.
主の祈りの教会を見た後,坂を下った.次の主の涙の教会まで大した距離ではないが,日が暮れてきたためか人通りは少なくなったようだ.真向かいにはギリシャ正教のマグダラのマリア教会が見えている.
坂の途中に発掘されて古い石棺の墓地跡があった.石棺がとても小型で,火葬して葬ったか,少なくともユダヤ教徒ではなく古代異民族の墓地だった筈だが.....思い出せない.
主の涙の教会が夕陽に照らされて赤味がかってきた.黒いドームは主(この場合上記広辞苑のイエスキリストの意,いや神でも同じか?)の涙の形を模してあるという.
イエスがガリラヤ湖から上京してきた頃,このオリーブ山に立ち,西の神殿の丘を眺めて,やがてこの都は滅ぶであろうな~と予感し,涙を流したそうである.そしてその予感通り,(いつとまでは言ってなかったが)37年後,エルサレムの神殿はローマ軍により徹底的に破壊され,さらにその後ユダヤ人はエルサレムから完全に追放されることになった.
主の涙の教会は小ぢんまりした礼拝堂を持つ.写真手前床はちょっと不鮮明だがビザンチン時代の遺構で,縦線の模様は十字の縦線の一部だ.
ひよこを抱くめんどり(下の写真)のある祭壇背後のアーチ型窓の下部にも新しい十字架が設けられている.
ビザンチン時代の十字架縦線と,窓の十字架縦線が一致するように,つまりライフル銃照準のようにして狙うと,その先がちょうど聖墳墓教会のドームとなる.ようになっている.
う~ん,この写真はちょっとずれているかな~金色の岩のドームだけはバカに目立つ.
祭壇下に掲げられたこの『ひよこを抱くめんどり』は,イエスはエルサレム崩壊を予測したが,人々が滅びないよう,あたかもめんどりがひよこを抱き寄せるが如く,保護することをシンボライズしているそうだ.
大分暗くなって主の涙の教会礼拝堂を引き上げた.先方のマグダラのマリア教会のねぎ坊主は少し高く聳えるため,夕陽に輝き,きれいだった.
主の涙の教会から次はゲッセマネの園に足を運んだ.道脇には大きなブーゲンビリアの木が茂っている.標高800mくらいで,関東より少し暖かいかな~と感じる程度だがよく育つものだ.
ゲッセマネの園に来た.古く大きなオリーブの木が植えてある.以前はこの辺り一帯がオリーブ畑だったが,何しろ一人ひとり別々に,しかも一人当たりのスペースが多く要るユダヤ人墓地がどんどん拡張され,その煽りでオリーブ畑は減ってきたそうだ.
イエスの時代から受け継がれてきたという古く大きなオリーブの木がある.ゲッセマネ(Gethsemane)とはオリーブの油搾りを意味するとのことだ.オリーブの木の寿命は長いそうだが,この木はイエスの時代からあったとの言い伝えがあるそうだ.
炭素年代測定法で少なくとも1200年前からあることは確認されているそうだ.大きな幹は空洞でスプリットされ,内側に穴も空いているようだ.2ヶ月前屋久島で見てきた古いヤクスギのようである.そして空洞は想定しようがないわけで,もし空洞でなければ2000年以上と測定できるかも,ということだ.
またググッてみたら,日本でも小豆島あたりでは樹齢1000年のオリーブの木があるという記事があり,驚いた.まあそんなことからオリーブは永続性(や平和,勝利,友情など)のシンボルとされ,古い木の実ほど味がまろやかで美味であるそうだ.ただ樹齢50年以上では収穫量は減ってくると,他国で聞いたことがある.
万国民の教会はゲッセマネの園の横に接し,また真ん前が道路で,前庭が殆ど無く,ファサードを撮るとこんな風に写る.でも正面外壁のモザイク画初めなかなか綺麗な教会だ.
古代ローマ皇帝テオドシウス一世が4世紀に建てた教会に起源するカトリック教会という.イエスが処刑前夜,最後の晩餐の後3人の弟子(3高弟ペテロ,ヨハネ,ヤコブ)を連れてここに来て,最後の夜を苦しみながら岩に掴まり神に祈ったとされ,『苦悶の教会』(Basilica of Agony)の別名,いや本来の名と言うべきか,があるそうだ.なお,弟子3人は直ぐに居眠りしてしまったことは,別ページにも記した.
そして,暫くしてそんな弟子を揺り起こしているとき,岡っ引きを引き連れたユダがやって来て,やあ,先生,と言いながら手にキスした.キスする相手がイエスであることの符号だったので,岡っ引きはすかさずイエスを縄に掛け,そしてカイアファの官邸(現在の鶏鳴教会)に連行したのだ.
万国民の教会玄関の庇部には,天井が高く,また開放的で気持ちがいい.『教会内部ではどうぞ説明なきよう』,との注意書きが掲げてある(写真右上)が,実際こんな遅い時間にミサが執り行われていた.
なお現在の建物は1925年,世界12か国からの献金で再建されたそうだ.それが名の由来であろう.
教会の礼拝堂をそっと覗かせてもらった.カトリック教会らしいインテリアだ.ピカピカの柱など特に見事なものだ.
礼拝堂には,この写真中央祭壇背後に『岩にもたれて苦悶するイエス』や,脇に『ユダの接吻』,『イエスの逮捕』といったシーンのモザイク画が掲げられている.
道路の反対側に立ってみるとよく見える.すでに暗くなっているがライトアップされているのでちゃんと見える.信徒もこんな遅くまで参拝するし,観光客も訪れるので,配慮しているのであろう.
教会屋根には十字架の両側に2匹の鹿が配されている.十字架はいいとして2匹の鹿はどういった意味合いなのでしょうか?いろいろ探してみると,涸れた谷に鹿が水を求めるように,私の魂は神を求める....といったことであるとか.
ところで真ん中の十字架を法輪に替えたデザインであるが,チベット仏教寺院の屋根上に必ずあるオブジェとそっくりである.例えばラサ,ジョカン寺の法輪と鹿であるが,法輪を挟んで2匹の鹿がこれを見ている構図である.その意味合いは,法輪は仏教の教義を,鹿は釈迦が説法した地に多く棲み,聞き入っている様子だそうだ.
ということで,まああまり似ているとは言えないかもしれないが,デザイン的共通性は興味を引く.
万国民の教会を引き上げる頃は既に夜になっていた.イエスの上記最後の祈りは月明かりの中であったそうだから,ちょうどこんな夜空の下であったのではなかろうか.
いろいろ見物できていい一日だった.