このナザレ編では,2015/11/21(土)ナザレへの道中,マリアの井戸,聖ガブリエル教会,受胎告知教会,聖ヨセフ教会,ナザレの街の写真を載せました.
この日は赤いマーカーティベリアのホテルからバスでナザレに行き観光.次いでカナまで戻り観光.そしてティベリアまで戻り,昼食後ガリラヤ湖周辺すべてを見て回った.
別窓でナザレ付近のGoogleマップを開くティベリアのホテルで朝目覚めて,レストランで朝食をとる.昨晩と違って朝なので地元の人達は目立たず,中国やアフリカからの巡礼団と思われる人たちが食事していた.
バフェにはコーシェルフードの掟に従う食べ物が備えられていた.ヨーグルト,チーズなどの乳製品はいろいろあり,一緒に摂ってはならないハムやソーセージなどの肉類はない.魚は問題なく,にしんであろうか酢漬けの切り身(上の皿の赤いもの)などがあった.オリーブや野菜類は他国のホテルと同じようだ.オリーブやチーズはやはり塩が効き過ぎているのが多い.
バスに乗るため駐車場に出る.よく晴れており,ガリラヤ湖も対岸のゴラン高原もクリアに見えていた.
ナザレを目指しバスは発進し,ティベリアの街を抜けていく.
暫く標高を上げながら走ると,遥か向こうにガリラヤ湖を見下ろす高台に出た.ヒッティーン(Hattin)の丘と呼ばれる地帯だそうだ.
ヒッティーンの丘は『ヒッティーンの戦い』(Battle of Hattin)があった地として知られるそうだ.その戦いとは,1187年サラディン(Saladin)率いるイスラム軍と,キリスト教徒が建国したエルサレム王国の十字軍とがこの丘で戦い,サラディンが完勝,エルサレムを奪還した,という歴史だそうだ.
このときサラディンはジハード(聖戦)を宣言し,エジプト,シリア等から1万2000人の正規軍と2万人余の補助軍を集め,また十字軍も同規模の兵力を結集し戦ったが,壊滅的な敗北で終わったという.
そしてこの後,キリスト教徒は再奪還のため第3回十字軍を編成し.....と続いていくわけだ.
土曜日はユダヤ教のシャバット(安息日)なので,信心深い人たちは運転を控え,それで道路は空いているということだ.尤もイスラムやキリスト教の国民も多いのでその人達は普通に運転するそうだ.なおイスラムは金曜日,キリスト教徒は日曜日が安息日だが,その日は運転はしないのかな....?
道すがら2本の立派なミナレットと金のドームを備えたモスクが見える.モズレム(イスラム教徒)住民の多い街(いや村程度か)だそうで,ナザレに至るまでに複数あった.ナザレを含めてこの辺りはアラブ系国民が多いそうだ.
但しこの近辺だけはイスマーイール派を起源とするドゥルーズ派というイスラム教徒が多いそうだ(イスラエル全体での割合は僅かだそうだ).ユダヤ人と盟約を結んでいるのが他のアラブ人と異なる点だそうだ.
さて既に他ページで記したことだが,モズレムは兵役義務がなく,また歴史的成り行きから土地の所有も許されているらしい.ユダヤ教徒など他の国民一般は,キブツの農地,住宅地など国にリースされるという.
そして,ユダヤ人と盟約を結んでいるドゥルーズ教徒は一般のアラブ人と違ってちゃんと兵役義務があるのだそうだ.いや~なかなか複雑な国ですね~
バスはナザレ(Nazareth)の街に入ってきた.街は緩やかな起伏ある土地に広がっている.住宅やショップは中層階の建物が多いようだ.
ナザレはイエスが少年期(30歳くらいまで)まで,父ヨセフと母マリアと共に暮らしていた街で,新約聖書でイエスはナザレ人と記されているそうだ.現在のナザレは,アラブ系キリスト教徒が多いそうだが,モズレムとユダヤ教徒もまた多いそうである.
現在はまあキリスト教徒の街であるが,イエス誕生から2000年の間,東ローマ帝国によるキリスト教の保護,イスラム支配,十字軍による奪回,上述のサラディンによるイスラム支配,フランシスコ会の修道士の帰還,オスマン帝国の支配,同帝国が終わり宣教師が入ってきた....と変遷してきたそうだ.
ところで大分前になるがポルトガルにも同名のナザレ(Nazare:ちょっと綴りが違うが)があり,行ったことがあった.大西洋に面した小さな美しいリゾート街で,4世紀にパレスチナのナザレ,つまり今訪れているこのナザレ(Nazareth)から一人の聖職者が聖母マリア像を持ち込んだことに因むらしい.そちらは良質の砂浜で人気があり,また女性の衣装(スカート,エプロン,スカーフなど)が既婚,未婚,未亡人で異なり,一目で識別できる,といった大時代的な面白い伝統が見られた.
私たちはバスを降り,井戸の広場と呼ばれる場所に来た.そして写真の『マリアの井戸』と称される給水場を見る.建物自体は石造りの比較的近年のもので,正面と背面に蛇口があるが,今は機能してないようだ.
聖母マリアが若い頃,ここには井戸があり,少し離れた場所にある生家から水タンクを持って,ここに水汲みに来たそうだ.2000年前の当時はローマ帝国支配下ではあったが,ローマの首都とかと違って一般家庭に水道設備はなかったようだ.炊事や洗濯用,それに家畜用に結構な量必要で,毎日2回通っていたそうだ.
そのうち遠足の小学生が現れた.先生が順に説明している.長く深い歴史ある街だけに,遠足も有意義であろう....いや子供にとっては退屈かな?
なお上に見える枝はガジュマルだそうで,随分大木だ.よく育つものですね~
小学生に続いて撮影クルーも現れた.テレビか?何れにしても皆女性であることに感心させられた.日本ではこうしたクルーに男抜きというのはあまり見ないような....
マリアの井戸からほど近い聖ガブリエル教会に歩いた.石造りの比較的シンプルデザインの外観だ.十字軍時代,および17世紀の教会のあった基礎の上に,聖母マリアの受胎告知を記念し1967年に建立されたギリシア正教の教会だそうだ.なおギリシア正教以外の宗派は,ここの水場ではなく,この後訪れる受胎告知教会地下の水場で告知されたとしているのだそうだ.まあ聖書の解釈に差があるということでしょうか.
土曜日の午前だったが礼拝中であった.この教会では毎日礼拝があるそうで,そっと見せてもらった.
先ず驚いたのは『正教の教会』なのに椅子(ベンチ)が並べられていたことだ.これまで正教では椅子はなく,すべて立って礼拝し,説教を聞く,と聞いていたし,ソフィアとか,エチミアジンとか,トビリシとか....の正教会では椅子はなかったと思う.認識を改めねばなるまい.
正教会なので聖所(内陣)の前には立派なイコノスタシス(iconostasis/聖障)が立てられている.そこには細かく模様が刻まれ,金箔を散りばめたイコンが掲げてある.イコンは柱や専用台にも置かれ,いずれも光背のある人のようで,天使,イエスキリスト,聖人...など聖書の登場人物がモチーフであろう.
私たちはそっと礼拝堂の後ろを通り,地下室へと向かった.礼拝堂アーチ部分や回廊部分にはたくさんのフレスコ画が描かれている.
こうして見ると,現代のキリスト教,少なくとも正教は偶像崇拝の宗教かな~と改めて知る.
地下に降りると,今は枯れているが井戸の跡がある.ギリシア正教では先ほど見てきた井戸ではなく,これが正式なマリアの井戸とされているそうだ.
そして,この場に大天使ガブリエル(Gabriel)が現れ,水を汲むマリアに『おめでとう,あなたは聖霊によってイエスを身ごもる』と告げられたそうだ.驚くマリアにさらに『神の子で,イエスと名付けなさい』といったそうだ.
聖ガブリエル教会表の壁にこのイコンが掲げられていた,左が羽根のある大天使ガブリエル,右が受胎告知を受けるマリアさま,受胎告知の定番シーンだと思う.ギリシャ正教なので下の説明がギリシャ語(多分)なのは難点だ.
マリアにはこのとき婚約者大工のヨセフがいたが未婚で,それはそれはびっくり仰天したであろう.私でさえびっくりなのだから.婚約者ヨセフはマリアから話を聞いて,動転し,また不審に思ったであろう.でも最終的に納得したというから大した人物だと思う.並の男にはとてもできることではない.
受胎告知教会はベージュとピンクの明るい石の組み合わせで洒落たデザインの建築だ.中東で最も大きなキリスト教会だそうで,ファサードには大天使ガブリエルとマリア,および4人の福音書著述者(左からマタイ(12使徒の一人),マルコ,ルカ,ヨハネ(バプテスマと異なる))が各象徴(天使,ライオン,牛,鳶)を連れたレリーフが刻まれている.
最初この教会は,マリアが受胎告知された洞窟跡とされるこの場所に,356年ローマ帝国コンスタンティヌス帝の母エレナによって建立されたそうだ.その後は上述のナザレの歴史の如く,異教徒による破壊等経ながら,1969年にフランシスコ会(カトリック)の手で再建されたそうである.つまり上述のギリシア正教の告知教会(聖ガブリエル教会)1967年建設より若干後のようだ.
教会2階の礼拝堂から出ると,モザイクタイル貼りのテラスに来る.ここからは教会の尖塔が望める.その屋根は『天の女王マリア』の王冠を象徴しているそうだ.
テラス左側,屋根の下にはエレナによって建立された当初の教会基礎部分が残されている.
受胎告知教会本堂外側,入り口側と右側には回廊が巡らされ,各国から送られた聖母子像で,礼拝堂内部に収まりきれない絵が掲げられている(↓下に何枚か掲載).数えた訳ではないが随分多数で,カトリックは全世界に信徒を持つのだな~と再認識する.
中に入ると柱のない広い部屋の中央が半地下のように窪み,さらにその左側が深い地下室状になっている.その地下室部分にマリアが大天使ガブリエルから受胎告知を受けたとされる洞窟があるのだ.
つまりこの教会は受胎告知を受けた聖なる場所を保護するために建てられたと解釈していいと思う.
大勢の信徒と観光客が,その洞窟へ下るため反時計回りに列を作り並んでいる.私たちも並んだ.
並んでいる一階から,ちょうど真向かいの洞窟を見た.列は半地下を挟んでまだ半周分あるわけで,なかなか大変だ.信徒の方には申し訳ない気もする.
ようやく順番が回ってきて,マリアさまが受胎告知を受けた洞窟に来た.一部加工されているが元の岩肌がそのまま残っている.ここはマリア家族の家だったわけで,当時こうした洞窟を住居とするのは普通のことだったそうだ.照明の問題はあろうが,通年エアコン無しで過ごすに適していたのではなかろうか.
この頃日本は弥生時代,竪穴式住居が主流であったらしいから,それと較べて居住性は遥かにいいのではなかろうか.すべて根拠希薄な想像だが.
何も説明がないと判り難いので,洞窟入り口には大天使ガブリエルから受胎告知を受けるマリアさまの絵がロウソクで照らされている(写真右側).
で,肝腎なのは,繰り返しになるが,まだ未婚のマリアが大天使ガブリエル(Gabriel)からいきなり,『そなたは身ごもった....その子はイエスと....』と告げられ,驚愕.圧倒的にドラマチックだ.
ところで告げたガブリエルは旧約聖書のミカエル,ラファエル,ウリエルとともに四大天使の一人,キリスト教ではミカエル,ラファエルと共に三大天使の一人,イスラムでも大天使の一人とされるそうだ.つまりガブリエルはユダヤ教では新たな王の出現,ユダヤ人の解放などを語り,キリスト教で上記キリスト誕生を告知し,イスラムでは,ムハンマドに神の啓示を伝え,平たく言って,ガブリエルは最も偉大な天使の中の天使ということだ.
受胎告知教会の二階は礼拝堂になっている.カトリック教会なのでもちろん椅子が並べてある.軸組工法で大きな屋根を支えており,丸い尖塔部分からは灯りが射し込んでくる.
また正面祭壇の大きな絵は,神(の象徴,目),イエス,精霊(の象徴,鳩)の三位一体と,および上には天の女王マリアさまを表現しているそうだ.
礼拝堂周囲の壁には各国の大きな聖母子像が架り,上部はステンドグラスが嵌め込まれている.なかなか見応えがある.
礼拝堂左側壁に長谷川路可(ルカ)画伯の聖母子像が掲げられていた.純和風であるが,これは別に江戸時代の隠れ切支丹が中東民族の顔を見たことがないため和風の顔立ちで描いたのと同じ,ということではないそうだ.フランシスコ会は諸国の同派組織に,各々自国の作風で描くよう要請した結果だそうだ.
実際,長谷川路可(ルカ)氏は,洗礼名であろうが,大正~昭和にかけて活動した日本画家で,カトリックの宗教画制作に取り組み,フランス留学などでとてもキリスト教文化に造詣深い方だったそうだ.
そしてこの作品は細川ガラシャ夫人(明智光秀の娘,細川忠興の妻でクリスチャン)がモデルだそうだ.着物の袖は真珠で飾られている.イエスもまた明治以前の和風であるが,はてモデルは誰かガイドSさんに伺ったが,そちらはよく判らないということだった.細川ガラシャ夫人には男の子を含め複数の子がいたそうだが,その一人か?なお後年石田三成軍に攻め入られたとき自害したのだが,自殺を禁じるキリスト教であるから大変な苦悩があったであろう.
なおこの作品の制作途中,長谷川画伯はお亡くなりになり,お弟子さんたちが仕上げたということだ.
二階入り口の金属扉には,イエス生涯のレリーフが刻まれている.左上から反時計回りで誕生,両親とエジプトに避難,少年期父ヨセフの手伝い,誘惑の山での修行,山上の垂訓,十字架に架けられる,かな?
チベット仏教などでは時計回り(右回り)が基本だが,キリスト教ではその逆が基本か?いや,そんなこと関係ないのか?
これが最初建設されたコンスタンティヌス帝の母エレナ建立の教会遺構だそうだ.古い遺構の上に再建するのはキリスト教世界では一般的な慣わしで,ここでも守られているわけだ.
諸国から寄贈された聖母子像の一部を載せた.各国と独自色が強く出ていて面白い.
受胎告知教会の直ぐ左隣りに聖ヨセフ教会はあった.写真で少なくとも中央の鐘楼は聖ヨセフ教会の一部と思われるが,受胎告知教会と,修道院と続き長屋のような作り,いやそう見えるだけか?で境界がよく判らない.
聖ヨセフ教会は当初ヨセフの家の跡地に建てられ,さらにビザンチンと十字軍時代の遺構の上に建て直され,そして1914年に現在の姿に新築されたそうである.マリアの家跡(受胎告知教会)とごく近く,それこそ眼と鼻の先だ.つまり二人はご近所同士だったようだ.まあ,2000年前であるから,車や電車もなく,またEメールやケータイもなかったであろうから,ご近所同士で一緒になるのは自然であったであろう.
聖ヨセフ教会前の庭に聖ヨセフのブロンズ像があった.大工だったというヨセフの実直そうな顔立ちが窺えるが,マリアと対比してばかに老けて見える気がする.
イエスとの関係は父ではなく,養父とされるそうだが,そのため絵や彫刻ではことさら生殖能力のない老人っぽく表現されることがあるという.ちょと気の毒な気がするが.....
聖ヨセフ教会に入ると直ぐ主礼拝堂になっていた.カトリック教会にしては比較的地味なインテリアデザインに映る.そして礼拝者は少ないながら,土曜日なのにミサが執り行われていた.白い装束の神父さんの背後には十字架と聖家族の像が見えていた.
礼拝堂横にはヨセフと若きイエス像,そしてその前にはマリア像,上に聖家族像が描かれている.
ところで結婚前のマリアが受胎告知を受けたと聞いたヨセフは,マリア以上にびっくりし,また落胆したでしょう.実際一旦は婚約解消を考えたそうである.まあ普通そうでしょうね.
だがそこへ天使が夢に現れて,『ダビデの子ヨセフ,恐れず妻マリアを迎え入よ.マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである』と告げ,それを納得したらしい.大物だ.そう言われれば,イスラエル王国第2代目王ダビデ(1000BC~961BC頃)の末裔の一人がヨセフらしいのだが,それがただの年取った大工(失礼!)なのであろうか...?なお大工というのは,この地方の建築や歴史を勘案すると石工のことであろうとガイドSさんの解説があった.
マリアの受胎告知教会と同じように,聖ヨセフ教会地下にもヨセフの住居兼大工仕事場だったという洞窟が残されている.現在その一部には礼拝の祭壇が祀られている.
まあ,マリアさまに比べると聖ヨセフの名を冠した教会等も少なかろうし,甚だ地味な存在で,何と慰めていいか....
小学校6年生くらいであろうか,若きイエスに大工仕事を仕込んでいるヨセフ,それにそれを見守るマリアの姿であろう.ちょっと不思議だが,4つの福音書には,生まれたとき,そして30歳くらいでティベリア付近で信仰を説き始めたときの間,つまりここナザレで過ごしたイエス少年期の記録は一切なく,完全な空白期間だという.つまり30歳くらいまでのイエスは,ごくただの人だったのか....らしい.
聖ヨセフ教会の高窓にステンドグラスがあった.あまり見かけないシーンでいろいろググってみたら,マリアとヨセフの結婚指輪交換のシーンらしい.それは珍しい場面を絵にしたものですね,と思う.神の子を宿したマリアに対しても寛容だったヨセフの心情を物語る場面であろうか,はて?
まあいろいろあろうが,それはそれとして,ヨセフは納得しマリアと予定通り結婚したのだ.そして月満ちてイエスが生まれると,養父として面倒をみることになる.そうした普通の男には真似のできない寛容さと慈悲深さを持ち合わせたヨセフであるから,後の世列聖され,聖ヨセフ(St. Joseph)となったのであろう.
ナザレの街は前述のように緩やかな丘陵にあって,坂道が多いようだ.そんな通りをスカーフの女性や観光客が通り行く.この街は割合は定かでないがアラブ系モズレムが多く,また巡礼者,観光客が多いのだ.
まあ受胎告知教会から近い位置なのだが,同教会の敷地からだとケラれる尖塔も,ここからはよく望める.まあ大きな建物だと改めて感心する.
逆に受胎告知教会からナザレの街を眺めるとこんな風景も見える.意外と緑豊かなエリアもあるのだ.
塀から個人の家の庭を覗いてみた.ブーゲンビリアが咲き乱れ,たわわにオレンジが実ってる.乾燥地帯なのに,なかなかどうしてスゴイものだ.
標識やお店の看板はでヘブライ語,アラビア語,英語,いろいろ入り混ぜて客を呼び寄せているようだ.
お土産店ではユダヤ教燭台メノラー(menorah)が並んでいる.7分岐燭台で,基本形は同心円を半月状に分けた形だ.モーセの時代に作られた移動聖壇で使用され,後にエルサレムの神殿でも使用され,ユダヤ教の象徴とされるそうだ.高品質のオリーブオイルを使うのがいいそうだ.