このベイルート市内編では,2018年6月28日ベイルート国立博物館を見物し,ベイルート旧市街でメッゼの昼食を頂き,また内戦の傷跡を見,ムハンマドアミンモスクを見て,ローマ遺跡など見ながらエトワール広場周辺に至り,ベイルートスークを歩き,ホテルに戻りBBQを楽しんだときの写真を載せました.
ハリッサの高台からベイルートに戻ってきた.写真右下に清掃局の人の姿が見えているが,ベイルートでは朝だけでなく,見たところ昼も夕もごみ収集の人たちが仕事しているようだ.
バスでダマスカス通りに面したベイルート国立博物館に到着した.ギリシャ風のなかなか立派な建物だ.博物館は1920年(1942年との説もあり)開館したということだ.
1975年からのクリスチャン/イスラム内戦時,ここダマスカス通りは東西対立分離帯/グリーンラインとされていたが,実際はかなりのダメージを受けたようだ.そして1990年シリア軍による紛争鎮圧などによる紛争終結後,収蔵品の保護や復旧に大変な労を費やし2000年から展示再開した記録を後に見ることになった.
既にビブロス遺跡のページにも載せたが,およそ1000BCのビブロス(Byblos)アヒラム(Ahiram)王の石棺で,1923年仏考古学者ピエールモンテ(Pierre Montet)氏により深さ10mの地下から発見されている.
ポイントは,上ページでも記したが,石棺の蓋に刻まれた22個の字母から成るフェニキア文字で,ヘブライ文字や,ギリシャ文字,そしてラテン文字の原型となったということだ.
また石棺本体にはライオンなどのレリーフが刻まれている.
こちらもビブロス遺跡のオベリスク神殿で発見されたアビシェム(Abi Shemou)王のオベリスク.1900BC~1800BC頃ビブロス王が寄進したものと見られ,枠取りされたヒエログリフで『ラー神に愛される王』との記述があるようだ.
ヘアスタイルなど明らかにエジプト風だ.レバノンはエジプト支配下にあった時代が長いので当然その文化が入っていたであろう.
アケメネス朝ペルシャ(550BC~330BC)時代の柱頭飾りで,これは牡牛であろうか.ペルセポリスなどで見るのと殆ど一緒だと思う.ペルセポリスには他に頭は鷲で体はライオンというのもあったと思う.
石灰岩や砂岩でなく,大理石のようで,保存状態が良好だ.
上柱頭飾りと対を成すもので,アケメネス朝ペルシャ時代の柱土台.柔らかく滑らかな模様が印象的だ.
レバノンがアケメネス朝ペルシャの支配下になったのは紀元前538~332年らしく,アケメネス朝が存在したほぼ全期間に相当するのではなかろうか.
ビブロスやサイダで祀られたアスタルテ神(Astarte)の玉座だそうだ.アスタルテ神は古代セム人の豊穣女神で,東地中海世界の同種の女神アルテミス,アフロディテ,ビーナスに対応するということだ.
そしてフェニキアにおいては世界の真の統治者であり,古い世界を破壊しては新しい世界を創造する死と再生の女神だったとされる,ということだ.
ところでこれらの玉座は,エシュムン遺跡のページで述べた地母神アスタルテの玉座とはどういった関係にあるのだろう.単純に複数の神が存在したとしていいのかな.
これも一度エシュムン遺跡のページで触れた子供の大理石像.大理石は輸入品でとても高価,富裕層が子供の病気治癒を願って奉納したそうだ.
台座部分にフェニキア文字で名前などが刻まれているようだ.
これは神の玉座ではなく,人の座るサイズであるので王の玉座であろう.横の見事なレリーフはギリシャ神話に基づくものなのだそうだが,するとギリシャ支配下になった紀元前1500年頃のものであろうか?
いやそんな古くはなく,やはりローマ時代であろうか.
ティール(Tyre)のネクロポリスで見つかったという石棺.蓋に男女像があるので夫婦の石棺なのであろうか.それに本体のレリーフ部は殆ど完全な3Dで,いったいどのように彫ったのかと思えるくらい見事だ.
ティール(Tyre)遺跡はレバノン南西部,地中海に面する都市遺跡だそうだ.紀元前2500年,ビブロスやベイルートと共にフェニキア人の都市として成立.紀元前11世紀から紀元前9世紀が最盛期で,後にアッシリアに従属,またアレキサンダー軍に攻め入られ,ローマ帝国の支配下に置かれ,12世紀には十字軍の支配下に,その後イスラム化し...消滅していったという.
そんな中でローマ帝国支配時代の遺跡があまり風化せず数多く残るそうで,この石棺もその中のひとつなのであろう.
バールベック遺跡で見つかったというアレキサンダー大王の誕生シーンだそうだ.ギリシャ文字で名前が振られているので当時の内容がかなり正確に解るのではなかろうか.
ユーロペ(Europa)はフェニキア王アゲノルの娘で,ひときわ美しかったそうだ.ゼウスは一目惚れし,白い牛に変身し,ユーロペ姫を背に乗せて誘拐し,エーゲ海を渡るとクレタ島に辿り着き,一緒になったという.
モザイク画は変身したゼウスがユーロペを背に乗せて略奪婚の場面だ.
またユーロペ(Europa)はヨーロッパの語源で,何でも略奪の際ゼウスはユーロペの気を惹くため,眼前の大陸に彼女の名を付ける事を約束したことが始まりとか.
守護神エシュムンの娘イザヤの像で,エシュムン遺跡ではなく,ビブロス遺跡で出土したものらしい....でも不確か,自信がない.
ただ大理石であることや,出来栄えからするとヘレニズムとかローマ時代の作品ではなかろうか.
モザイク画自体の歴史を覚えてないが,先の内戦時ここに銃身を差し込む銃眼としてを開けられたというのが左下の穴だ.
戦争では遺物もくそも無かろうという切羽詰まったときの様子を物語る証拠であろう.
いつの時代だったかちゃんと読まなかったが,とにかく遺体埋葬のための瓶で,骨がよく保存されている.
時代はローマ時代のものだったか....はっきり覚えてないが,大理石の石棺で,個々の体格に合わせたサイズで,顔も実にリアルに彫られている.素材,加工料共に高価で富裕層の需要に応えたもののようだ.
中央下の石版にはギリシャ文字が刻まれている.その上は,はてだれであったか....でも作風は割と最近の作家や,正教会のイコンの雰囲気などと似ている気がする.またそうであれば,左右は十字架か?(ちゃんと説明書きを見てこなかったので全て想像)
時代はローマ時代であったか,遺体埋葬の副葬品には陶器や,装飾品などに加えて衣類もあった.そしてそれが実に鮮やかくっきり模様を維持したまま発掘されたのは驚くばかりだ.
こちらも既にビブロス遺跡のページで載せた兵士ブロンズ像.全てオベリスク神殿で発見されたものだそうだ.何といってもスリムな体型が印象的だ.
一通りベイルート国立博物館を見物し,表に出た.何気に道路の向こうを眺めると恰もローマ遺跡のような石柱と,その上に載る石の梁が見える.まあ,レバノンにはさり気なくそういった場所があるようだ.
ベイルート国立博物館を離れ,レストランに向かった.途中前庭にマリア像を据え,直線主体のスッキリデザインのキリスト教会を通過した.
バスはEl Hayek StreetにあるBou Melhenレストランに到着した.お店前に路上駐車するのだが,狭くて大変だ.お店の人が車外で誘導してくれる.
Google口コミを見ると4☆が付いているので期待できるかな.
Bou Melhenレストランは広いフロアを備え,店内は喫煙自由なようで水パイプで喫煙中のお客さんんが見える.また新しく注文を受けると,ウエイターがパイプと共に着火用焼けた炭を運ぶのだが,脇を通るときかなり温かいのでちょっと驚いた.赤く燃えた炭なので放射熱が届くのだ.
Bou Melhenレストランのメッゼ料理はこんな感じで,他のレストランで食べたメッゼ料理と似ていようか.いろいろなお皿をこれでもかとばかり出してくれる.多い分には問題なかろう.
昼食後バスで昼下がりのベイルート旧市街を進んだ.概して道は狭いが,緑は多い.
ダマスカス通りは上述のように1975年~90年泥沼の内戦時グリーンラインだった筈だが,実際は銃弾が飛び交ったようだ.
この黄土色の建物も戦いの傷痕が多く残されている.建築家モナハラクさん(50)は内戦時他所に避難していたが,終結後故郷ベイルートに戻った.そして焼け跡と瓦礫が広がる光景に唖然とした.その後復興に向け進んできた.一方内戦の事実も残さなくては,との思いに至り,市当局に掛け合っているそうだ.そしてこの被弾した建物は市に働きかけた結果,ベイトベイルート(Beit Beirut:ベイルートの家)として残すことになったそうだ.
ただモナハラクさんは全く手を加えず内戦直後の状態で残すべきと主張したが,市当局は加工を施してしまったようだ.
市当局や政府は,せっかく治まった内戦に関し,そ~っとして触れないでおきたい,一方モナハラクさんは戦争を知らない子供や若い世代に重大な歴史を伏せておくのは問題で,正しい歴史認識を育むのが大事,との考えで,一致は見ないとのことだ.
やがて車窓からは4本ミナレット,青いドームを抱くムハンマドアミンモスク(Muhammad al Amin Mosque)が見えてきた.そしてその玄関口近くで停車し,近づく.
元々ここには小規模なモスクがあったそうだが,20世紀の規模拡大で『誠実な預言者モハメッド』に改名されたそうだ.現在レバノンで最大規模という.拡張工事はレバノンの内戦で停止していたが,2002年から再スタートし,2008年に完成したそうだ.設計はパレスチナ人建築家ラーシムバドラーン氏で,リヤドのグランドモスクも手がけた実績があるそうだ.
青いドームはラピスラズリの色だが,ラピスラズリではなく,代用顔料かも知れない(想像).また4本のミナレットは69.5mでベイルートの街のどこからでも見えるという.
以上ムハンマドアミンモスクはレバノンの歴史を表現する為にマムルーク朝,オスマントルコ朝,レバノン独自のスタイルを混ぜ合わせた建築様式となっているそうだ.
ムハンマドアミンモスクの直ぐ脇は何やら新築工事中だ.そしてその先には十字架を掲げた2つのキリスト教会が見えている.容易ならざる歴史を垣間見る思いだ.
モスクの横には,内戦で取り止めになったモスク建設を2002年から再開させたハリーリー元首相の廟もあるそうだ.残念ながら2008年竣工前の2005年,暗殺され,目にすることができなかったのはお気の毒だ.
さらに左方向に目を向けるとベイルート港が見える.貨物船やグレーのUN艦船が停泊している.
ベイルート港はフェニキア時代から,ビブロス港やシドン港と同じように栄えてきたのであろう.現在ベイルートはレバノン全人口の1/3以上占める集中度で,扱い高も圧倒的に多いようだ.
ムハンマドアミンモスク礼拝堂に入れてもらった.正面にミフラーブがあり,その右に三角屋根の説教壇が設けてある.天井ドーム内側にはイスラム様式幾何学模様が描かれ,重さ6トンという大きなシャンデリアが下げられている.
この方がムハンマドアミンモスクについて説明してくださった.先ずカーペットには横線と繰り返しアーチが描かれ,線上に並び,ミフラーブに向かって座る.アーチ一つを占めることなく,もっと詰めて座るそうだ.ミフラーブはメッカの方向を向くが,祈るのはメッカではなく,あくまで天に居る神(アラー)であると,上を指差しながら強調された.
金曜礼拝などでイマームの説話があるそうだが,イマームはレバノンで何人くらい居るのか訊いてみた.すると意外なことにベイルートだけで正確には知っていないが七十数人ということだ.これまで漠然と国で数人と思っていたので驚いた.今後参考になりそうだ.
ディスプレイに当日5回の礼拝時間が出ていた.他所と違うのは,朝一の礼拝時間に幅があることだ.この日は3:33AM~5:29でおよそ2時間の幅があるようだ.アザーンは早い方の時間に合わすそうで,その上に表示された3:22AM57秒であろうか.
なおアザーンは私(この説明者自身)ではなく,もっと若い男性を指し,こちらの方で,いい声ですよ,と紹介があった.
ところで明けの一回目礼拝時間に幅があるのも初めて聞いたが,5回のお祈り時間が多分毎日自動的に変化して表示されるのであろう.他所では聖職者が計算した数値を一週間単位で手動で書き換えているモスクも多い.そのうち他所もこのように現代テクノロジー応用で作業が簡単になるであろう.
ムハンマドアミンモスクからエトワール広場周辺に歩くことになった.モスクから直ぐのところにこのような巨大鏡餅のような物体があった.給水タンクでしょうか.
シンプルデザインのキリスト教会があった.マロン派教会でしょうか?
街を歩いているといきなり円柱のローマ遺跡が現れた.頭部模様はコリント式のようで,また素材は大理石ではなかろうか.
こうした遺跡を見るにつけ,長い歴史やローマ帝国の勢力が思い起こされる.
エトワール広場に向かうこの辺りは銀行や官公庁の並ぶ街だそうだ.
建物は石(石灰岩か)づくりの歴史がありそうなものが多く,コンクリートとガラスの現代建築は少ない.遺跡に限らず保全に努めるエリアなのであろう.
やがてエトワール広場に出た.中央には時計塔が立ち,レバノン杉ではないものの木が生え,ここから道が放射状に伸びている.パリのエトワール凱旋門のある広場,シャルルドゴール広場に倣ったものであろう.
広場に面したオープンカフェにはやはり水タバコを嗜む人(女性)がいて,なかなか様になっているような.
レバノン国旗を掲げ,エトワール広場に面したこの建物は国会議事堂だそうだ.上から見るとパイ状の形になっているのでしょう.
レバノンでは宗教各派の人口構成比に応じた議員枠が定められているそうで,同国の複雑な事情に鑑みた仕組みなのでしょう.
オスマン帝国に支配された頃(1516~1918年頃)の遺跡で,ハマム(お風呂)の跡だそうだ.短い円柱はこの上にあった床の支えで,短円柱で挟まれた空間に上方から熱い湯を流し,座る床のある部屋はスチームで満たされたということだ.ハマムの部屋は多段式であるが,温度の違いがあったのであろうか.なおボイラー部分は写真上部の辺りにあったようだ.
またスチームバスの横にはお湯や水のお風呂も備えていたようだ.
ハマム近くにこのような小さなモスクがあった.礼拝堂やミナレットのデザインがオスマン風に見えるように思う.ハマムと同時代に作られたかな.
ベイルートスーク入り口に来た.I love Beirutの看板が目印になっている.
ベイルートスーク(Beirut Souks)は同市最大のスークであったが,内戦で徹底的に破壊され,そしてその後再建され,今日の姿になったそうだ.
スーク入り口には古いモスクの一部という建物が保存されている.戦いで残った部分だそうで,保存していくようだ.
さてベイルートスークに入って驚愕した.つまり私のスークの概念は,アラブ世界の色濃く,込み入った路地に食料品やら日用品,衣料品,雑貨....いろいろ乱雑に並べ販売され.....といったものと決めつけていた.
しかるにここは全くモダンでおしゃれなショッピング街で,しかも高級ブランド店が多い.
スークにはいろいろな客が集まる.例えばこの家族連れなどだ.ベビーカートを押し,キックボードを走らすに十分な平で幅広い道があるのだ.私の固定観念のスークは曲がりくねった狭い路地でこんな光景は想像できない.いや~一体全体どうなっているんだ.
どこのショッピング街もそうであろうが,ここも婦人用アパレルやアクセサリー,スイーツなどのお店が多いようだ.
ただスーツや時計など紳士用ブランドも結構軒を並べており,客層もかなり広いのでしょうね.
スカーフの人もそうでない人もテーブルに座り,お茶を楽しんでいる.こうした広いカフェはやはり昔のスークでは考えられなかったことであろう.
スーク外れのカフェでお茶と水タバコを楽しむカップルが見えた.
そして通りの向こう,ベージュの建物は壁に砲弾の傷跡が残り,窓は外れてしまっている.ほぼ復旧したが,スークの外はまだ一部そのままのようだ.
右側は上記傷跡の残る建物で,その左は古い建物が撤去され,北京オリンピックの鳥の巣のようなモダンデザインの新しい建築が進行している.
ベイルートスークを歩いた後,バスでホテルに戻ることになった.途中,新築工事中に内戦の戦火でひどくやられたというホリデイインベイルートの前に立ち寄った.
壁には大きな砲弾の跡が今も生々しく残っている.経営者は今も結論が出せないのか,工事途中でやられたままの状態でここ28年間放置されているということだ.
バスは高い鐘楼を備えたキリスト教会前を通過した.キリスト教会とモスクは結構近くに建てられているし,当然住民も混じり合って生活しているであろうに.....この先の平和を願いたい.
一旦ホテルに戻り,荷物を部屋に置き,バスで近くのスーパーマーケットに行ってみた.
表もこのようになかなかおしゃれな感じで,中もヨーカドーやイオンとか,或いはカルフールやテスコとは全然異なって,直線的商品配置ではないのだ.でも野菜や果実,菓子類,肉や鮮魚....一般的なものはすべて揃っているようだ.クレジットカードも普通に使えた.
スーパーからの戻りは歩いてみた.途中このような落書きがあった.右下にサインとその日付が記してあるので,描いた人はアーティストの意識なのであろう.実際なかなかだ.
そしてまた次の作品が現れた.アーティストは一緒か,それとも別の人か.
いずれにしてもこのサイズに仕上げるには相当時間がかかったと思われるが,人通りのなくなった時間帯,つまり夜間に描き上げたのか,いやそれでは良く見えないな.....
この辺りで曲がるとホテルへの近道の筈だが....でも自信がないので,道端の防護壁内にいる警備の兵士に道を訊いた.ベイルートの街あちこちには銃を持つ兵士が警護している.中には軽タンクを脇に置いているところもあった.ガイドEさんによると,ベイルートではタンクや装甲車は普通に見られる光景だそうだ.
なお写真は撮らないよう予め注意を受けていた.兵士や警官を写してはならないという他に,そちらから見ると構えたレンズが,一瞬狙撃しようとしている銃だと見られ,撃たれるケースもあるそうだ.
ルブリストルに到着した.これがその前の狭い道で,バスドライバーさんはいつも大変だ.
これでこの日の観光は全て終わった.階段を上り部屋に入るとゆっくりお風呂に浸かった.
この日,ルブリストル3回めの夕食は,いつもの一階レストランではなく,屋上プールサイドでBBQだった.生野菜,ミンチしたラムやビーフ,野菜などの串焼き,デザートの甘い物など頂戴した.美味しかった.
さてこれでレバノン見物は全部終わった.明日は朝食後アブダビに飛ぶ.やはりちょっと短かったな~