このビブロス遺跡編では,2018年6月25日ベイルート空港からバスでビブロスへ行き,ビブロス遺跡を見物し,また遺跡周辺を見て回ったときの写真を載せました.
さてベイルート空港を発つとしばらく同市内を通過する.街路樹にはオリーブも植えられている.さらに先に行くとオリーブ林を多く目にするようになる.
添乗Hさんによれば,大まかに言ってベイルートの北ではオリーブが,南側はバナナが目立つそうだ.ただ国土が狭いので例えばトルコとかのように延々とオリーブ畑が続くといった風景を見ることはなさそうだ.
レバノンの国土面積は岐阜県と同じくらいで,西は地中海,東はシリアで,その間をレバノン山脈が走っている.そのため平地は地中海とレバノン山脈に挟まれた海岸線沿いに限られ,主要道路は自ずとその海岸沿いとなるようだ.
道路脇の壁には落書きが目立つ.かなりアーティスティックなものもあり感心させられる.文字はアラビア文字より,ローマン文字が多いが,フォントもまた過度にアーティスティックで,読みづらいよ~
しばらくすると4本ミナレットの大きなモスクが見えた.外壁の色あいからすると比較的最近の建築のように見える.スンニ派,シーア派,アラウィ派,ドルーズ派合わせたイスラムの人は人口の半分くらいらしいが,正確には不明だ.
また少し行くと今度はキリスト教会が見えた.こちらも比較的新しく建てられたように見える.キリスト教徒も,主流のマロン派に加え,ギリシア正教,カトリック,プロテスタントなど多くの宗派が入り組んでいるようである.
ベイルートから続く道路脇には連続的に建物が並び,若干その密度に変化があるものの,これで一つの街を通過し,ついで次の街が出現した,という感覚は必ずしも持てない.しかし確か添乗Hさんの案内などからするとジュニーエ(Jounieh)の辺りだったと思われる.
ジュニーエは海岸から山岳部まで広い範囲にあるが,全部で43万人ほどの人口があるという.1975~1990年内戦時に,多くのベイルート人,多くはキリスト教徒であろう,が流れ込んで来たということだ.
道路左側には美しいジュニーエの海岸が広がっていた.写真がまずくて良く写ってないが(^^;
ジュニーエ海岸部にはリゾート施設,バーやレストラン,スーク,ハーバー,パラグライダー場など楽しめる場所が揃っているということだ.
バスはビブロス(現在はジュベイル(Jbeil)の街)に到着し,駐車場から歩くと直ぐさま列柱通りになった.ここは世界遺産『ビブロス』の範囲に含まれないのか,生活道の脇に立つ石柱や転げる石といった趣だ.
柱を眺めると,レバノンでは産出しないという大理石のように見えるが.....また頂きのデザインはコリント式であろう.コリント式の葉っぱはギリシャの国花アカンサス(葉アザミ)の葉をモチーフにしており,紀元前5世紀頃,古代ギリシャを起源にするとされているそうだ.ただ実際この様式の建造物はギリシャではほとんど見られず,時代が下り古代ローマの建築に数多く用いられているということだ.ちなみに古代ギリシャでは渦巻き模様のイオニア式が多いようだ.
ビブロス遺跡に至ると案内図があり,ガイドEさんと添乗Hさんが先ずは大まかな説明をしてくれた.なお案内図写真には各部名称を追記した.
ビブロスは古代フェニキア人が紀元前8800年頃から住み始め,紀元前3000年頃には神殿を祀り,その後フェニキア(現在のレバノン領域にほぼ相当)の一都市として相当発展したそうだ.古来背後の山で産する高品質レバノン杉で造船し,またそれをエジプトなどに輸出し,また対価として受け取った他国産品を元に諸国と交易して栄えた,ということだ.
なおフェニキアやビブロスはギリシャ人(フェニキアの支配者)がつけた呼び名で,ビブロスはギリシャ語のパピルス(紙)に相当し,またビブロスからビブリオン(本)や,ビブル(聖書)という言葉が生まれたそうだ.
Eさん,Hさんのお話,他で読んだことを年代別に以下の一覧にしてみた.
ここがビブロス遺跡入り口で,ガイドEさんが皆の入場をサポートしてくれた.この入り口門は最近の建築であろうが,遺跡の建物に倣って石灰石ブロックを漆喰で固めた構造だ.いやこの地方では現代も普通に採られる構造と工法なのかもしれない.
遺跡入り口門をくぐると,眼の前に案内図で十字軍砦と記された大きな建物への階段になっている.後で上るがとりあえず横へ回ることにする.
ところで十字軍砦(Crusader Citadel)とは記されているが,上記リストに記したように,一時は十字軍側の砦になったものの,サラデーンやバイバールなどイスラム側の手に落ちた期間が長かったようだ.聖地エルサレムから近かったので,どちら側にとっても何とか奪取すべき地であったのであろう.
さてこの十字軍砦は1100年頃に要塞化されたそうであるが,周辺に築かれたグレコローマン時代の建物や列柱通りの円柱をリユースし,壁に組み込んでいる.壁のみでなく内部の床梁にもなっている可能性もあるか.
ビブロスだけでなく,レバノン全土でも石灰石は多いが,大理石は産せず,グレイの円柱素材は元々ギリシャやイタリアなどから運び込まれたものだそうだ.
紀元前6000年頃,日本では縄文中期か,からのフェニキア人住居跡だそうだ.石灰石ブロックと目張りの砂利で囲まれた地下室といった感じだ.上部屋根がどういったものか解らぬが,所謂竪穴式住居か?
フェニキア人は家の下に遺体を埋葬する習慣があったそうで,多分臭うからか,それとも居住スペースが徐々に減るせいか....とにかく頻繁に新住居に引っ越したそうである.ということで,住居跡がバカに密集しているように見える.
元々ここにあったのではなく,L字型神殿(内容は不明)の上にあったものを移設したオベリスク神殿だそうだ.移設したのは仏考古学者モンテ(Pierre Montet)氏,ドゥナンド(Maurice Dunand)という.(世界遺産なのに...)
林立するオベリスクは26本あったが,一部はベイルート国立博物館に展示されているそうだ.いずれも紀元前2686年頃からのもので,エジプトと密接な関係,或いは被支配時代のもので,素材は砂岩や石灰岩,サイズはまちまちであるが,大きいものでも高さ2.5m程度,本場エジプト辺りのそれとは比べ物にはならないコンパクトさだ.
少なくとも一部のオベリスクにはヒエログリフで王の名前やエジプトの太陽神ヘリシェフ神(或いはラシャプ神)が刻まれているそうである.
これは後日ベイルート国立博物館で撮影した青銅戦士像だ.博物館には群像として多数展示されていて,皆一様にスリムな体型だ.実はこれらの青銅戦士像は全てここオベリスク神殿から出土したものなのだそうだ.
ベイルート国立博物館の展示ラベルには『金メッキ(金箔貼り)ブロンズ,ビブロスのオベリスク神殿で出土,青銅期中期』としか記されてない.概ね裸で,円錐形のヘルメットもしくはエジプト式王冠,それにエジプト式ショートパンツを着けている.
日本では縄文期であろうこんな古い時代に,よくこのような繊細なブロンズ像を造ったものですね~
茶色い鞘の中に豆が入っており,一粒がダイヤモンドの1カラットに相当し,その単位のベースになったという木,カラットの木,正しくはイナゴマメ(蝗豆)の木が生えていた.レバノンとは目と鼻の先キプロス島キロキティア遺跡で同じ木を見かけたことがあった.
実際の豆粒はかなりバラツキが大きいそうで,そのまま計量原器として使うことはできないようだ.多くの豆の平均を用いたのかな.
現代までフェニキア人(レバノン人)が住んでいた家だったが,モンテ氏の発掘開始に当たり,他に引っ越したそうだ.そして博物館として改装準備中ということだ.なお他にも住民がいて,合わせて20軒ほどが立ち退いたという.
民家にしては石造りの随分しっかりした建物だが,外壁をペイントする予定だそうで,ちょっと残念な気がする.
古代から定住にとって水源は最も重要なインフラであろうが,ここにその井戸があったそうだ.1930年まで水が湧いていたが,その後枯れたようだ.地下水道途中に住宅が増えて,取水が増大し,ここまで届かなくなってしまったのか?
紀元前1900年~1600年頃とされる王族の墓所があった.多くは石棺で深く埋葬されたようである.
地面に置かれているのは発掘された石棺である.写真中央のように大理石のものや石灰岩のものがあり,様々だ.もちろん中は空っぽであろうがこのように原っぱに放置されているのは,これまでの3600年に比すれば大したことなかろうが....些か気にはなる.
尤も一番大事なアヒラム王石棺はベイルート国立博物館に保管されていた.
なお背後にはローマ時代の列柱通りの大理石製円柱が見えている.
これがベイルート国立博物館に収められたアヒラム王の石棺.随分大きく,ライオンであろうか立体的な彫刻やレリーフ,それにひときわ有名なフェニキア文字が刻まれている.
棺の素材は色あいからするとレバノンで多い石灰岩であろうか,これまでよく持ちこたえて今日に伝えてくれたものだ.
上記アヒラム王石棺の蓋の周囲に刻まれたフェニキア文字部分だ.刻まれた文言は,どこの世にもある墓暴きから守るための強い呪いが込められたアヒラムの墓碑銘と称される碑文らしく,『呪われたアヒラム王の石棺』と呼ばれることもあるとか....でも不確かだ.
内容に関してはともかく,このフェニキア文字は類似文字の中で最も古く,22個の字母から成り,それぞれ互いに異なる一つの子音を表し(つまり表音文字),母音を表す字母はないということだ.これは母音字母がないのは現代のヘブライ文字と同じではなかろうか.またフェニキア文字は右から左に書かれるそうで,これまた現在のヘブライ文字やアラビア文字と同じ方式だ.なおヘブライ語やアラビア語はセム語系と分類され,右から左に読み書きされるようだ.日本語もトラックなど時々右から左に記されるケースが見られる.また母音が無くとも文脈から判断できるのは現代のヘブライ語などと同じだそうであるが,フェニキア文字を元にしたギリシャ文字では母音が加えられ,また左から右に書かれたようだ.
文字の形態そのものは素人目には現在のラテン文字アルファベットとは全く似ていないが,22個の子音字母体系が以降の文字の先祖だということだ.つまりそれまでのエジプト神聖文字(ヒエログリフ:3000字)や楔形文字(500字)が複雑で文字数が多く,また文字体系も複雑であったが,フェニキア文字は圧倒的に文字数少なく,シンプルな体系で,後の世に広まったのは分かる気がする.
ところで漢字はヒエログリフ以上に文字数が多く,また複雑(いや多少記号化で簡易か)だが,長い間廃れず使われ続けてきた.....どうしてだろう?
ローマ円形劇場のミニチュア版である.別の場所にあった遺構を1/5サイズに縮小し,ここに移転したそうだ.まあどこにでもあるローマ劇場ではあろうが,発掘功労者の仏考古学者であってもそのような行為は果たしていいのでしょうか....
なお元々のフルサイズ円形劇場の石の建材は,その大半が十字軍砦の建築や改修工事に流用されていたため,原型を留めない(例えばステージや背後壁なし)ほど失われていたそうではある.
十字軍砦を背面から眺めるとこのように幾層か増築されていったように見える.またいかにも砦で,窓は少なく攻めにくいであろう.実際はそれを打ち破り,また再び奪還したりが繰り返された訳だが.
十字軍砦のアーチ型回廊を歩き,そして石の階段を上り,屋上まで行ってみた.周囲に高い建物がなく,敵の動きを監視するに好都合だ.
地中海南方面,ジュニーエの辺りまで望める.直ぐ近くの海岸はリゾート地になっているように見える.
十字軍砦北側海岸にはビブロス港が見えている.古代フェニキア時代ここからレバノン杉やその樹液を積み出し,パピルスや染料,鉱物など輸入,中継したようである.また戦時にはここから兵が上陸したのではなかろうか.
また右端青いドームはモスク,レバノン国旗竿の先にあるのは後に訪れる聖ジョンマルク教会である.
ビブロス遺跡周辺はもちろんお土産屋さんが軒を並べている.しかし前述にように今はジュベイル(Jbeil)の街なので,市民のためのお店,例えば日用品,衣料品,食料品....といった店舗が揃っている.所謂スークと称していいだろう.ただしコンビニはなぜか見当たらない.ジュベイルだけでなくベイルートなど他都市でもコンビニはあまり見ないように思われた.
概して雨が少なく温かい地方なのでオープンカフェが多い.観光客も地元の人も開放的雰囲気の中でレバノン料理を味わっている.
右の黒服男性は水タバコの準備をしているアテンダント,その左上は水タバコパイプを手にしているお客さんだ.オープンカフェではもちろん,屋内のレストランでも水タバコを吸っている人は多い.水タバコに関しては分煙とかないようだ.それと他のアラブ諸国と比べて女性の水タバコ喫煙者がとても多いように感じられた.
オープンカフェの酒棚には見事なほどの種類の酒を揃えている.これも他のアラブ諸国ではモズレムが大半を占めるのでとてもこうは行かないであろう.だがここレバノンではクリスチャンと相半ばするので,こうしたディスプレイも全く問題ないのであろう.
ジュベイルのスークの一画にこれまた歴史のありそうなアーチ型の門があった.城門の一部であったのであろうか.門の上にはマリア像(聖母子像)が置かれている.
レバノンのクリスチャンは他国ではあまり見ないマロン派が多数を占めるそうだ.マロン派は一部正教会タイプの典礼に従うがカトリック教徒ということだ.カトリックであればマリアさま信仰が多大なのは他のカトリック国の様子から容易に類推できる.
なお普通の民家でも小さなマリア像を据えてあるのは幾度か見かけた.
ビブロス遺跡を見物し,ゲート近くに戻った.そして目の前のモスクからバカでかい音でアザーンが流れてきた.間もなく日没なので,その直後のお祈りの呼びかけであろう.間近なのでとにかくでかい音声だ(スピーカーの)
1115年頃,攻め入り,勝利した十字軍が聖ヨハネ教会(St. John's Church)として建立したそうだ.聖ヨハネはヨルダン川でイエスに洗礼を施したあのヨハネだそうだ.南側の壁はローマ様式,入り口のある北側の壁はアラブ様式となっているのが特徴だという.言われてみるとたしかに入り口ピロティはアラブ風だ.ただ当初の聖ヨハネ教会は18世紀にマロン派の聖ジョンマルク教会(Church of St. John-Mark)に改宗したそうで,併せて建物も改修されたのかもしれない.
北側壁にフェニキア文字で何某か記されていた.どういったことか説明があったと思うが思い出せない.文字の形はもちろんローマンアルファベットとは全く異なる.もちろんガイドEさんも読むことはできないそうだが,この教会の聖職者の方は読むことができるそうだ.
礼拝堂を覗かせてもらった.上述のように現在はマロン派教会ということだが,正教会タイプの典礼....に関わりそうなイコノスタシスやイコン類は見えない.参拝者が直接正面奥に望めるキリスト像や,ベンチの配置など,普通のカトリック教会と同じように見える.
一通り見物が済むとまたスーク通りを通って駐車場に戻った.通りを行く女性はスカーフの人もそうでない人もいて,典型的レバノン光景を感じさせる.あの内戦時は多分こうしたシーンはなかったであろう.