このルーブルアブダビ編では,2018年6月30日ルーブルアブダビ博物館(古代),同(中世),同(近世)と見て回り,アブダビの夕を過ごし,アブダビ空港から成田に帰国したときの写真を載せました.
バスはペルシャ湾,と云っても殆ど本土沿岸近くだが,に浮かぶ小島サディヤット島(Saadiyat)に到着した.駐車場から向こうのネット状ドームのルーブルアブダビ博物館が見えていた.そしてかなり暑い中をそこまで歩く.
ルーブルアブダビに入館した.天井はやはり多重ネットのようになっている.実はこの建物最大の見どころなのだそうだ.そしてよく見ると壁に描かれたシンボルマークも,このネット状天井をベースにデザインされたもののようである.
設計は仏建築家ジャンヌヴェル(Jean Nouvel)氏によるそうだ.日本でも電通本社ビル(東京汐留)設計などで知られるそうだ.
一体どういった目的,用途であったか不明だが,とにかく6,500BCというとてつもなく昔に作られたことが圧倒的だ.ノアの方舟でさえ2,500BCくらいだそうだからすごい.
粘土の素焼きかと思ったが,説明書きによると石膏で,両目(どれか区別難しいが)は瀝青(bitumen)という素材のようだ.
ラガシュ(Lagash)の王子グデア(Gudea)の像で,2,120BC頃黒石で作られているそうだ.ラガシュは古代メソポタミアの都市国家で今はイラクに属するようだ.
グデアはやがて王になり,周辺諸国と通商協定を結び,交易を拡大し,シュメール文化を花開かせたそうだ.そしてシュメール時代の王達の中で最も名前の知られている人物の一人という.
この精巧な作品自体もそんなシュメール文化の一部なのであろうが,実に素晴らしいものだ.旧約聖書ではアブラハム誕生の頃で,既にこうした文明が実際に進んでいたことに驚く.
左は上グデアよりもっと古い2,550BC~2,500BC頃のラガシュ(Lagash)の初代ウルナンシェ(Ur-Nanshe)王を描いた石灰石製奉納レリーフだそうだ.シュメール語の文字も刻まれていたのだがピントが甘かった.なお真ん中の穴は壁に掛けるためのものではないかと見られているようだ.
右はエジプトの神々の中のキング,アメン神(Amun)だそうだ.1,336BC~1,327BC頃の閃緑岩(diorite)製と記されている.左ラガシュのレリーフよりかなり新しい.
アメン神は大気,豊饒の神.太陽神ラーと習合してアメンラー(Amen‐Ra)とよばれ,創造神『神々の王』とされたそうである.
エジプト,ナイルの賜物に関わって表現されたもので,船に乗った埋葬人形(左)と青いカバ(右)である.1,850BC頃の作で,釉薬を用いた陶器だそうだ.
ラムセス二世(Ramesses II,1,279BC~1,213年)の閃緑岩(diorite)製像があった.かなり大きい.
また椅子の側面にはヒエログリフで側款が彫られている.像本体も,側款も細かいところまできれいに保たれている.
ラムセス二世はエジプト第19王朝のファラオで,24歳で即位し,66年間統治し,90歳で没したという.その間,第一王妃ネフェルタリのほか,複数王妃や側室との間に180人の子をもうけたそうだ.
ラムセス二世は失われた領地を回復すべくシリア方面へと向かい,所謂『カデシュの戦い』でヒッタイト王国と戦った.ただこの戦いは決着が付かず,後にヒッタイトとの間で世界初とされる和平条約を締結し,長年の戦いに終止符を打ったという.
ところで2つ上のアメン神と,ファラオは同じようなあご髭を着けてますね.ファラオは神でもあったのでしょうか.
イランのスーサ(Susa)で発見されたガラスブロックでできた射手の像だそうだ.人相がいかにもペルシャ人で,解り易い.510BC頃の作品という.
ガラスブロック(タイル)は一枚同じ色ではなく,例えば衣服の柄などいろいろ絵が描かれている.鈍く落ち着いた色彩だが,焼成しても大丈夫な顔料はどのようなものでしょうか.そうした色の石を粉状に砕いてガラスに混ぜたり,塗ったりするのでしょうか.
ブロンズ製翼のある龍で,戦国時代(475BC~221BC)の北中国で出土したそうだ.
この写真では見えないが龍の肌には細やかな線画状模様が付してある.
左は副葬レリーフで,シリアパルミラで見つかったローマ帝国の副葬レリーフ.亡くなったタイム(Taime)とその母ヘデラ(Hadira)と記され,AD200~250年頃製で石灰石に彫られているそうだ.
左はカップを持つ男の副葬ポートレートで,やはりAD225~250年頃のローマ帝国製で,エジプトアンティノポリス(Antinopolis)で見つかり,木の上にワックスペイントで描かれているそうだ.今もいい色合いで残ってますね.
左はローマ式トガ(toga)を纏った演説者で,ローマ帝国時代AD100~150頃製,大理石像だ.
右はパキスタンガンダーラで見つかったクシャーナ朝(kushan:AD100~300)頃の菩薩(bodhisattva)像で片岩(schist)製という.
アレキサンダー大王のインド遠征で,ギリシャ様式がローマとガンダーラに取り込まれ,例えば衣類の襞などにそれが見られる.
大理石に彫られたローマ帝国のレリーフ.エジプトのように顔が皆横向きであるのは何故か,個人的には知りたいところだ.
犠牲の儀式を描写したものだそうで,牛と羊が見える.2つとも現代の犠牲儀式の主たる対象となっているところが興味深い.
左はAD950~1000タミル地方の踊るシバ神ブロンズ像.インドやネパールで今日もほぼこれそっくりのものを見ることがあるが,ヒンドゥー世界からすれば多分当然のことなのであろう.
背後はほぼ同じ頃AD1,100~1,150,仏ボーヴィレ(beauville)バイモント教会で製作された(多分)ローマ式柱と柱頭.
同じ時代の異文化を対比し並べて展示するのはルーブルアブダビの代表的手法の一つだそうだ.
上はコーラン第5巻で,アフガニスタンボーストで,ガズナ朝(Ghaznavid)AD1,111~1,112の頃のイラスト入りコーランだそうだ.
下は説明書きを写し損ねたがチベット文字の仏教経典印刷活版ではなかろうか,絵は仏教の千手観音などのようである.
どちらも図解で解り易くという点で一致している.いやそれどころか,現代でも図解般若心経的な手ぬぐいがあり,春先の四国遍路で使ってみたが読むのは文字のものよりず~っと難しいことが判った.それは万葉文字的に特定の絵に読みを割り振ったためで,この写真のように挿絵としてある分には大いに理解を助けると思う.
写真上の左右端で,左がインドで見つかった仏頭,右が中国で見つかった仏頭のレプリカ(本物は館内手前に展示されている)だ.
その違いを図解で示してくれている.つまり
ヘアスタイル:図のように中国の方がつぶつぶが小さく,2段頭
目:インドでは太く,中国では細い
唇:やはり:インドでは太く,中国では細い
手のサイズ:頭の大きさと比べてインドではやや大きく,中国ではいくらか小さめ
仏像の素材:インドでは赤砂岩,中国は白い大理石,
と,あった.あくまでここに収納された2体に関する比較で,たくさん調べればまた別の結果が得られよう.
唐代AD600~700の公務員(宦官)と,唐代AD700~800のバクトリア(Bactria)馬で,両者彩色磁器のようである.
この辺りはシルクロード関連で展示されている.
東南アジアではよく大蛇が善の立場で登場する.そしてそれが仏教と結びついたのでしょうか.
カンボジアは以前仏教国であったが,アンコールワットに見られるようにクメール王朝の9世紀頃はヒンドゥーが国教になったと思う.それがまたこの12世紀の仏像に見られるように,仏教に変わったということのようだ.ナーガは元々ヒンドゥーの神なので,それを引きずっている,いや融合させたのでしょう.
左:男の頭形花瓶:100~700年彩色磁器(ペルー)
中:フクロウ形花瓶:同
右:あぐらをかいた男形花瓶:同
ということだ.
顔の造形がリアルで,生き生きしており,迫ってくるようだ.
彩色陶磁器の一つ,ファイアンス焼き(faience)製品という.
絵柄の背景となるストーリーが解ればもっと面白かろうに.
左:聖母子像:AD1500頃(ギリシャクレタ島),木に描かれた油絵.
右:聖母子像:AD1325頃(イタリア),見落としたが多分木に描かれた油絵.
モチーフは同じでギリシャとイタリアなので,正教会様式とカトリック様式の違いということになるのか.特に左の絵はあちこちで見る現代(描かれた時期不明だが)の聖母子像と瓜二つ,そっくりだ.
紙の上に絵の具と金(金箔)で描かれているそうで,ピカピカだ.徳川家光が三代将軍に就いた後で,スペイン船来航を禁止していたが,ポルトガル船は許可されていたようだ.
大きな帆船の船体脇には砲身が並んで突き出ており,単なる商船でなく,艦船でもあったのであろう.
ルネサンス盛期のイタリア人巨匠中の巨匠レオナルドダヴィンチの作品だ.
La Belle Ferronniereと呼ばれた婦人のポートレートと記され,カンバスではなく木の上に油絵で描かれているそうだ.で,La Belle Ferronniereとは『美しき金物商』の意だということで,金物商の妻か娘のことだとか,あるいは特定の女性の婉曲呼称だとか....諸説あるようだ.
ナイジェリアの古代ベニン(Benin)王国エド(Edo)文化ということだ.ナイジェリアというとアフリカ大陸西海岸赤道近くの国で,先ずはこれまであまり聞いたことがなかった地方の文化であることに驚く.ベニン王国はポルトガルとの接触が始まった15世紀末,アフリカ最強の国家で,青銅器(や多分写真の黄銅)などの高い製造技術や彫刻で知られた王国だったそうだ.ベニン王国の王はオバ(Oba)と言われ,祖先祭祀の最高首長として宮廷を持ち,写真のような大勢の臣下に囲まれていたそうだ.
黄銅製と記されているが,彩色したのか色あいが黒っぽく,迫力ある造形をさらに強調しているようだ.
私には何となく現代日本のある種の劇画のように見えて,とてもAD1500~1700頃の作品には感じられない.
フランスの画家ジャックルイダヴィッド(Jacques-Louis David)が1803年に描いたナポレオン一世ボナパルトをカンバス上に描いた油絵.かなり大きい.
1799年,前年にオーストリア(ハプスブルク君主国)に奪われたチザルピーナ共和国を取り戻すべく,1800年春,ナポレオンは予備軍を率いてこの絵のグランサンベルナール峠(Col du Grand-Saint-Bernard)経由でアルプスを越えた.オーストリア軍は予測でジェノヴァのアンドレマッセナを包囲し,ナポレオンはアルプス越えで敵の裏をかこうとしたのだそうだ.ナポレオン軍が到着前にジェノヴァは陥落したが,ナポレオンはなおも進軍を続け,オーストリア軍が態勢を立て直す前に決着付けようと交戦し,勝利したということだ.
カンバスに描かれた油絵.若き日のオスマンハムデイベイ(Osman Hamdi Bey)のようだ.
オスマンハムデイベイ(1842年~1910年)は, オスマン帝国の王族で,芸術分野の専門家であり,また先駆的な画家としても知られたそうだ.加えて彼はまた考古学者でもあり,博物館キュレーターとしてトルコで先駆者と見なされており, イスタンブール考古学博物館やイスタンブール美術アカデミー の創設者でもあるそうだ.
作品下の説明書きを見ると自画像のようである.
左上:1830~1834年,葛飾北斎:美濃の養老の滝
右上:1830~1834年,葛飾北斎:下目黒からの富士山
左下:1858年,歌川広重:富嶽三十六景の一つ甲斐大月の原
右下:1858年,歌川広重:富嶽三十六景の一つ東都飛鳥山
1888年ゴーギャン(Paul Gauguin)の油絵だ.
1880年代ピークに達したジャポニズムの影響を受けているそうだ.
ゴーギャンはポスト印象派の代表格で,晩年故郷フランスを離れてポリネシアのタヒチに住み着き,タヒチの作品を多く残したことで有名.ということでジャポニズムを含め異文化を受け入れることに積極的な画家だったのでしょうか.
1887年,ゴッホ(Vincent van Gogh)の油絵.
ゴッホはオランダ生まれだが仏居住が長く,ゴーギャンと同じポスト印象派の画家.ゴーギャンと一緒に生活した期間もあったそうだ.
ゴッホは40点(あるいはそれ近く)もの自画像を描き,この1887年の作品はちょうど真ん中あたりの作品になるのではなかろうか.ただ自画像を含め多くの作品を制作したが,生前売れたのはたった一点だけだったと聞くとお気の毒だ.また没後作品が評価され,売れたのに,若くして亡くなったのも残念だ.
ライオネルウェルデン(Lionel Walden)1894年作の油絵カーデフのドック(Cardiff Docks)だそうだ.
鉄道やばい煙の立ち上る光景が描かれる時代に入ったのだ.多分公害が問題になり始めた時代でもあろう.
カーデフ(Cardiff)は英ウェールズにある港町で,南ウェールズ産石炭の輸出で巨大な埠頭を備えていたそうだ.現在もコンテナ,スチール,林産物などの輸出入に供されているようだ.
仏サンドニ(Saint-Denis)で1880年頃制作された日本風装飾の対の花瓶.青銅や銅,ペイントで装飾されている.
日本風と説明書きにあるが,個人的にどちらかというと中華風に近い気もする.
写真が拙く,ガラスに周りの眺めが写ってしまった.それを削除した画を想像して見ると,大まかに言えば,肉体の輪郭の曲線は一切なく,全て直線の組み合わせで表現されている.また色は現物とはかなり異なり分かりづらいが,色そのものはなかなかいいように思う.
ピカソは作風がめまぐるしく変化する画家として有名だそうで,この作品の1909~1910年頃は分析的キュビスムの時代(1909年~1912年)に属し,モチーフを徹底的に分解,記号化し,抽象絵画にもっとも接近した時代である,ということだ.そりゃ分からない訳だ.
バックス(Bacchus)と聞けばローマ神話の酒神で,大桶(vat)と言えば,酒樽でもあろう.とすると,バッカスが酒樽に浸かっているシーンと解釈していいのだろうか.なお作品は大理石製である.
オーギュストロダン(Auguste-Rene Rodin)と聞けば,私は『考える人』が頭に浮かぶ,いやそれ以外知っていない.世間一般では19世紀を代表する最大の彫刻家とされ,『近代彫刻の父』とも称されるそうだ.代表作に『地獄の門』など数多いそうだ.日本でもファンが多く,国立西洋美術館はじめあちこちに作品が展示されているようだ.
アラスカのチュピック(Tupik)文化で,シャーマンが儀式に用いるマスクだそうだ.1890~1910年頃製で,木と,天然顔料,食物繊維から作られているそうだ.なおチュピックはイヌイットの生活圏で,近くにチュピック川,チュピック山がある辺りの一部族なのであろうか.
とても可愛らしく,ゆるキャラとしても通用できそうだ.
アイウェイウェイ(がい未未)氏は中国の現代美術家,キュレーター,建築家,文化評論家,社会評論家で,中国の現代美術が始まった1980年代から活躍し,先導してきたという.難民問題などの社会運動にも力を入れているということだ.またそのため自宅軟禁などにも遭ってきたようだ.
作品は螺旋状円錐の外周をキラキラしたガラスビーズで覆ったような形態だ.トポロジカルにはハリッサの高台で眺め,上ったレバノンの聖母塔とほぼ同じである.螺旋が光の泉が左回り,レバノンの聖母塔階段は右回りである.
ついでにアンペアの法則(もしくは右ネジの法則),つまり電流と磁場の方向の関係は光の泉の方が理解し易いかな.光の泉の螺旋が左回りなので,これをネジとすれば右ネジで,ネジ回す方向(磁場方向)は右回しで,先端方向(電流方向)に進む,でいいと思う.
展示室全部回ったところに中庭があり,出てみる.するとカメラのレンズが直ぐさま結露して,少し待って写したのがこの一枚.館内の空調された空気と外では温度が極端に違うため結露するのだ.
さてボヤ~としか写ってない多重メッシュの天井だが,ステンレス鋼とアルミニウムで多層メッシュが作られ,どの層にも共通に重なる穴から,木漏れ日のように光が下に入る.私は多層の層間の掃除が大変そうだな~などとつい思ってしまった.
灼熱の中庭から館内に入り,ガイドブックや記念品販売のショップの前を通り,表に出た.
パリのルーブルほど展示品は多くないが,人混みがなく,快適に見せてもらうことができた.なかなか素晴らしい博物館だ.
ルーブルアブダビを出て,デュシタニホテルに戻る途中,果物のスークに立ち寄った.種々青果やドライフルーツが並んでいる.ほぼ全部輸入品であるが,デーツだけはかなりアブダビ国産だという.確かに道端ではネットの掛けられたデーツが実っていた.好きなので1パック買い入れた.
バスでデュシタニホテルに戻り,部屋に落ち着く.そしてゆっくりお風呂に入る.次いで荷物をパッキングする.こうしたときよく忘れるので要注意だ.
時間になり一階のレストランに行き,夕食を頂く.前の晩と似たようなものが並んでいた.フードポットには料理名が日本語でも併記されていた.常時なのか,日本人客が居るときだけなのか不明だが....世界一般では,昔日本語表記が多かったところも,現在は中国語やハングルに取って代わられたところが増えているそうだ.例えばネパールなどでは,英語以外は中国語やハングルだけのところが多くなったようだ.
で,夕食は美味しかった.
夕食後バスでアブダビ国際空港に行った.ガイドRさんにはお礼を述べお別れする.
さすがアブダビはイスラムの国で,全身黒いアバヤ姿の女性を見かける.でもここで改めて思うに,今しがたお別れしたガイドRさんなど普通の洋服の人はアブダビの国民ではないということだったのでしょうか.なおこれから乗るエティハド航空のユニフォームはごく普通の洋服であることはもちろん知っている.私の知っている限り,CAがイスラム服なのはイラン航空だけかな.....パキスタン国際航空はコーランが流れるが服装は普通だったような...
さて安全検査を通り,エティハド航空のカウンタで並ぶ.そして順番が来た.何とかかんとかで30分後にもう一度来てくれ,ということで,30分後もう一度行く.するとオーバーブッキングで私の席がないという.そんなバカなと云うことは置いておいて,どうしたものか...ここで添乗Hさんが,自らの確保済みシートを私の席にするように交渉し,一先ずまとまる.
私は搭乗券を確保できたので直ちに搭乗ゲートに向かった.
Hさんはその後エティハド航空と交渉.何とかシートが確保でき,ゲートで落ち合う.取れなければ翌日お会いしましょうということだったので,これで一安心だ,ありがとうございました.
さて後は搭乗し,成田に向かうだけだ.
エティハド航空EY878便は離陸し,帰国の途に就いた.そして程なく食事を出してくれた.ちゃんとワインも付けてもらえてありがたい.
エティハド航空EY878便,B787-9機は順調に飛行し,やがてフライトマップを眺めると本州上空に差し掛かった.
B787-9機が本州上空に入ると,ランディングに備え窓を開けるよう指示があり,機内が明るくなる.
EY878便は成田空港に無事到着した.ボーディングブリッジからは成田もアブダビに負けずいい天気で暑そうに見える.いやそれは実際その通りだった.
成田空港で入国審査に行くがこれまでとルールが変わったようで,やかましく日本旅券の人はこちらへ....とがなりたてている.そっと案内すれば解るのに....で,それに従い進むと,直ぐに審査完了,入国スタンプは廃止されたようだ.
荷物を受け取り,添乗Hさん,同行の皆さんに御礼を述べる.いろいろありがとうございました.そして通関に向かう.
成田第一ターミナルからは京成電鉄アクセス特急に乗った.この時間帯は空いていてありがたい.
京成の窓には成田周辺の緑豊かな大地が広がっている.また,相当暑いのだがモヤや砂ホコリがなくクリアだ.まあ,当たり前の風景なのだが改めていい光景だと思う.
もう終わってしまったか,ちょっと残念かな.かなり楽しかった.