このドッグリバー編では,2018年6月28日ドッグリバーを訪れ,各種碑文や丘からの景色を眺めたときの写真を載せました.
ルブリストルホテルで6月28日朝が来た.レストランで朝食後バスに乗る.バスは一方通行の道を行き,必ずこの落書きの前を通る.落書きはグラデーションのある込み入った絵で,感心する.
バスはベイルート市街を抜け,郊外に出て,北へと向かった.通勤時間帯なのでベイルートに向かう道は混んでいるが,私達と同じ北へと離れる方向も結構混雑している.
なお車のナンバープレートは普通の車は白,タクシーは赤,観光バスなど業務用は青ということだ.またナンバーは普通のアラビア数字と,左向きアラビア文字の数字(あ~ややこしい)併記されているのが多いが,必ずしも併記されすアラビア数字だけのタイプも見える.どちらでもいいのかな....
バスはドッグリバー遺跡(Ruines of Nahr el-Kalb)に到着した.遺跡は道路横の岩壁に刻まれた碑で,見物場所は狭い.通る車に注意しよう.
はっきりした年代は不明ながらアッシリア王の図だということだ.少なくとも最初のものは紀元前千年頃の時代,この辺りはアッシリアの支配下に置かれたことを示していると説明板にあった.
こちらも円錐状ヘルメットに右手を上げたポーズで,やはりアッシリア王を表しているということだ.
私には見分けが付かないがアッシリアの文字である楔形文字が刻まれているようなのだが.....う~ん分からない....
石灰岩のようで,さすが2000年,3000年細かい文字まで残すのは難しそうだ.いや私には顔部分も,う~んこれが顔部分かな~と半信半疑で観察したくらいだ.
ナポレオン3世(Napoleon III)は1808年~1873年の人であるが,この石碑に関わるのは1860年~1861年のことのようだ.
つまりフランスの最初の植民地支配の記念碑で,1860年~1861年ナポレオン3世が介入したときの記念であるようだ.
それにしても価値ある古い石碑に上書きするとは実に横暴極まりない.何ということを.
なお仏植民地支配の記念碑としては,他に2つ下のアンリグロー仏将軍の石碑などがある.
ナポレオン3世石碑の説明板に,このような絵とヒエログリフが下に描かれていると説明されている.エジプトの国の境界に関する記述らしいが....よく分からず.
その普通見分け付かないファラオに関する絵やヒエログリフは,考古学者が丹念に調べて解明したものだそうだ.すごいですね.
オスマントルコから独立してアラブ王国が興った時代,フランス軍指揮官として働いた将軍の石碑ということだ.
1918年10月ダマスカス,ホムス,アレッポ(Damascus, Homs and Aleppo)制圧の石碑のようであるが,英仏軍によるものでしょうか.
1943年,フランスの支配からレバノンが独立を果たした記念碑である.それまでの石碑はアッシリアやエジプト,フランス....など外国人がここに来て刻んだものであるが,ようやくレバノン人の碑が現れてホッとした.
その前の1941年,フランスはキリスト教徒保護を名目に先ずシリアからレバノンを分離させ,そして1943年に独立した.独立に際して有力宗派間で国民協約を締結,大統領はキリスト教マロン派から,首相はイスラム教スンニ派から,国会議長は同シーア派から選ぶことなど,レバノン政治バランスをとる最も重大なことが決められたのだそうだ.これは現在も暗黙の了解で継続されているのはよく知られている.
200段だったかの階段を上る.途中狼(或いは犬)の形をし,強い川風を受けると狼(犬)の吠える声に聞こえたという大岩があったという.今も在るはずだが.....岩が欠けたりして形が変わったのか見つけられなかった.つまり吠える声の源は川で,犬川,ドッグリバーの名の由来になった....だったか.またその鳴き声は当地を守る声であるともされていたそうだ.
丘の上に出ると海岸線に流れ込むドッグリバー(写真下から1/3くらいの横の線)が見えた.今は,この丘から見ても,間近に見ても川幅は狭く,また水深も浅く,渡るのは大して困難には見えない.しかしアッシリアとかの古代には渡るのは大変な川で,戦略上極めて大事な要所だったのだそうだ.
まあ,それでここを抑えた場合,大成果として誇ることができ,そして石碑に刻んだのであろう.