このサイダ編では,2018年6月27日サイダ港脇レストランでランチを頂き,隊商宿ハーンエルフランシェを見て,サイダのスークを歩き,石鹸博物館を見物し,海岸通りへ歩き,サイダ海の城塞を見物し,マグドゥーシュ村のカトリック教会を訪ね,そしてベイルートに戻るときに撮った写真を載せました.
エシュムン遺跡見物の後,そこからごく近いサイダ(Saida)の港に行った.この近くにはあまり大きな船舶は現在停泊していないようだ.
サイダはシドン(Sidon)とも呼ばれ,レバノン第3の都市で,人口約20万人だそうだ.内戦時(とその後もか?)イスラエル軍の攻撃にさらされ荒廃したが今は大幅に復旧したという.
歴史的に見ると古くは紀元前12〜10世紀にフェニキアの主要都市国家シドンとして繁栄し,既に見てきた紀元前5世紀のエシュムンの神殿遺跡などからその様子が解るようだ.
ところでイスタンブール考古学博物館に収められているあの有名なアレキサンダー大王の石棺は実に見事だ.そしてそれがここサイダの遺跡で発掘されたと聞いていたが,具体的にサイダのどこであるかまでは解らないも感慨深く思う.
そしてさらに遡れば,サイダは紀元前19,18世紀頃古代エジプト王朝の支配下で最盛期を迎え,やがて時代が下り12世紀頃になると幾度か十字軍の支配下になり,13世紀にはモンゴルに破壊され,17世紀になるとオスマントルコ支配下になり,その後徐々に重要な商業港として栄えていったようだ.
建物の3階か4階の,アラブ風雰囲気入り口のお店に入った.Tawlet Saidaレストランと言うそうだ.女性の地域社会での活動を推進し,サイダの季節食材を用い,伝統的な家庭料理を提供することを旨としているそうだ.
一般にイスラム圏では,女性は家の外で働くことが稀な国が多い.しかしレバノンではお店で働いている人を見かけ,またこのお店はそれをコンセプトとしているので,写真のように食べ物を盛り付ける仕事や,キッチンでは調理なども担当しているようである.
シーフードですよ~という触れ込みで入ったのだが,こうしてフードポットを眺め回して見たが......う~ん,魚がただ一種類あるかな~でもそれ一つか,貝やエビはないな~といったところだ.
さて装ったお皿を持ち,テーブルに座る.上写真スカーフ女性のように,イスラムレストランなのでシーフードも制限が多いことを思い出した.例えばブリやサバのような鱗なしの魚,イカやタコは不可なのだ.アルコールはもちろん無しで,代わりに炭酸水を出してくれた.ところで日本では炭酸水を売っていないが,どうしてでしょうか.
広い窓からはサイダ港がよく見えて,しっかり冷房されているのでゆったりできた.
レストランで昼食後表に出て少し歩いた.アーチ型小さなスーク外れ路上で男性が水タバコを吹かしていた.パイプてっぺんにはタバコ葉がどっさり積まれているようなので,延々と楽しめそうだ.
水タバコ男性は,実は左隣りに入り口がある水タバコカフェのご主人のようだ.カフェの棚にはお客さん用水パイプが並べてある.
ご主人は看板親父として,喫煙を実演しながら客を呼び込んでいるという訳だ.いまのところ客足は鈍いようだが.
私達は近くの隊商宿ハーンエルフランシェに歩いた.途中ミナレットのあるモスクや,政治家や政党の看板が目に入った.こうした看板は概して大きく,笑顔の写真入りが多い.また選挙でなくとも普段から掲示されているように見える.
ハーンエルフランシェ(Khan Al-Franj)入り口に着いた.入口ドアはベイトエッディーン宮殿のそれと同じで,ドアの中に小ドアがある形式だ.ハーンエルフランシェは隊商宿,ペルシャ語でキャラバンサライ,サライ(saray)は城でもあるのでやはり内部の客人を守る防御の仕組みであったのだろう.
ところでハーン(Khan)と付くのでジンギスカンのモンゴル帝国に関係在るのかと思ったが,どうやら関係なくアラビア語でキャラバンサライを指す言葉のようだ.
中に入ると中庭を2階建て建築が取り囲む構造で,一階部分中庭に面した部分はアーチ型柱の回廊,奥側は厩舎やキッチンスペースになっているようだ.一階回廊部は商取引の場で,また二階部分は回廊付き客室スペースだ.これは他国でも一般的なキャラバンサライと同じ形式ではなかろうか.
ハーンエルフランシェは17世紀初め,フランスとの交易促進,コットンやシルクの中継などのため,ファハルエルディーンマーン2世(Fakhr el-Dine Maan II )によって建てられたという.後仏統治下に入ると,同国領事館になり,現在は仏所有のカルチャーセンターということだ.そしてそのファハルエルディーンマーン2世とはオスマン帝国下の自治区であるレバノン首長国の初期指導者で,オスマン帝国から独立を求めるために,他のレバノンファミリーと共に戦った人物という.
なお近年,傷んだ部分はサイダ出身で暗殺されたハリーリ前首相(Rafic Baha El Deen Al-Hariri:スンニ派)が修復したということだ.またサイダの町はスンニ派住民が多くを占めるそうである.
ここはハーンエルフランシェ回廊部分.石造りの頑丈な構造だ.ここで商品を並べ,取引したそうだ.また背後の部屋は倉庫やキッチンで,馬の餌や商品を一時保管したようだ.
ハーンエルフランシェを後にスークを歩いた.そしてその入口炎天下でスイカの露店があった.この分ではスイカが熱くなりそうだが.....買った後で冷蔵庫に入れるからいいのであろうか,多分そうだな.
スイカの隣は小型水パイプの露店があった.床に置く普通サイズではなく,テーブルに置いて使用するタイプではなかろうか.
水でろ過されてタバコの毒性が薄くなるのかな~と思っていたが,実は水タバコの煙には普通の紙巻きタバコより多くの有害物が含まれ,水タバコ一回分の吸引で体内で発生する一酸化炭素の量は紙巻きタバコ1本分の4~5倍になり,まああまりいいことはなさそうだ.
マネキンがなかなかユニークに見える.それと右上角は何だろう?ひときわ怪しげに見えるが.....
やがてスークはアーケード街に入っていった.そしてここは子供用衣料品の露店.店主が家族連れ客に対応中だ.
中東のスークでは必ずあるゴールドのお店.客の利便性のためか,必ず複数店舗が連続して軒を並べている.ここはそんな並んだうちの一軒.ブレスレットやネックレスが眩い.
スークにはファストフードショップも揃っている.ショッピングの合間に食べるのはどこも同じであろう.
スークの先を行くと石鹸博物館入り口になった.アラビア語,仏語,英語での表札で,この期に及んでようやくシャボン(Savon)が仏語だと知った.長生きはするもんだね.
また面白いのは時間帯別入場料だ.午前中は無料,午後は2500LPB(187円くらい),夕方6時以降は5000LPB(375円くらい)と随分差が大きい.やはり考え方に違いがあるのでしょうね.
石鹸博物館は17世紀に建てられたという古い石造りの建築だ.殆ど地下室のような造りであまり窓は見えない.19世紀になると工場はレバノン名門アウディ家(Audi)の所有となった.当時ハマムでの石鹸需要が大きかったそうである.
内戦時アウディ家は他所に避難し,ここは難民の避難所になっていたが,内戦終結でアウディ家は戻り,博物館として修復し,公開するに至ったそうだ.
街でAudi Bankの看板を幾度か見かけたが,ガイドEさんに訊いてみると,正にアウディ財団の銀行だそうだ.ついでに独車Audiも同じ綴りだが,関係あるか訊いてみた.すると,あちらはAuto何とかんとか...の頭文字を繋げたものでアウディ財団とは無関係だそうだ.ふむふむ.
石鹸の原料はオリーブオイル,苛性ソーダ(NaOH),ベイリーフ,砂漠の植物,ローレル油,ミア(ヘルモンやトルコで生育する樹木スティラックスの樹脂から蒸留された伝統的な香水)などから作られるそうだ.
製造は,先ず水と砂漠の植物,苛性ソーダを混ぜる.次にオリーブオイル,香料を混ぜながら5日間火にかける(いや~長いですな).できた柔らかなゲル状のものを型枠に入れ,深さ(厚さ)が均一になるように均す.次いで赤いカットラインとブランドのスタンプマークを付す.カットし,乾燥のため積み上げる.乾燥が済むと完成,拍手パチパチ.
出口付近は高い天井のホールになっており,各種石鹸の完成品が展示されている.また石鹸や記念品なども販売されている.
少しその手前では石鹸製造工程(やアウディ家にも少し触れたか)ビデオを上映しており,一通り見てきたプロセスを復習できるようになっている.
入り口はスークアーケードの続きで,入ると地下室のような感じであった.でも出口は開けた明るい通りに面し,ブーゲンビリアが咲き乱れている.石鹸博物館はどうやら斜面に建てられているようだ.
石鹸博物館を出ると私達は海岸通りへと歩いた.最初に車の修理工場がまとまっているエリアがあった.前述のように新車は関税が著しく高いため,主に欧州からの中古輸入車を補修したり,或いは部品を集めて再生する町工場が多いのだそうだ.
ケージにはニワトリがいて,右のテーブルには玉子パックが置かれている.はて何の商売か?
(1)ニワトリの生んだ玉子を朝採り玉子として売る.
(2)ニワトリと玉子を親子丼素材として一緒に売る.
(3)玉子はあくまで副産物で量が少なく,商品であるニワトリの景品,販促品.
さてどれが正解か.
ビニール袋を下げているので少なくともレバノンのイスラム女性はお使いに出ることができるようだ.結構なことだ.国によっては,例えばパキスタン辺りの地域によってはお使いに出ることは許されない.それどころか街に散歩に出るのもだめな地方さえある.
ところでビニール袋はまだ普通に使われているようで,私もベイルートのスーパーではフリーで頂戴した.ただ日本同様,海岸近くの道路ではビニール袋類のゴミも見えるし,まあ,そのうち有料となり,さらになくなる可能性は高いとは思うが.
トウモロコシに,桃,キウイフルーツか.サイダ周辺では畑やビニールハウスが多く見かけられるので,多分地元産であろう.つまり地産地消ということになろう.
海岸通りに出た.これまで何度か部分的にバスで通った通りだと思う.
海岸通りから海の城塞への橋を渡った.橋は80mあり,石橋だそうだ.海の城塞は1228年十字軍によって建てられた砦だが,元々この場所にはフェニキア人のメルカルト神殿(the Temple of Melqart)が置かれた地であったそうだ.
メルカルトは フェニキアの守護神で,レバノンからスペインまでのフェニキアの関わる文化圏で広く崇拝されていたようだ.
海の城塞に到着した.城塞だけあって,石造りの堅固な建物に見える.
十字軍がこの地を奪い返したとき,イスラム軍サラディン(Saladin)将軍は既にエルサレム征服を果たしており,十字軍の次の行動を城塞建設と読んでおり,元にあった陸上の城を破壊しておいたそうだ.そこで十字軍はやむなく,海上の神殿跡に築くことになったそうだ.
ビブロス遺跡で見たのと同じように,ここでもローマ時代の円柱が切断され,リユースされている.四角い砂岩や石灰岩ブロックの間に大理石円柱を挟むのはどうやら定石だったようだ.力学的に何らかの意味がありそうだ(私には読めないが)
城塞なので入り組んだ通路を入るとアーチの入り口のある大きな部屋があった.会議室だったと説明があったかな.....
左手に高い塔がある.この部分はマムルーク朝(Mamluk Sultanate:1250年~1517年)支配下に落ちたときに建設されたそうだ.文化が異なるため,石ブロックのサイズや窓の形が違っているようだ.
高い塔の上から北側を望むと,階段下に建つモスク跡が見える.この部分は19世紀オスマントルコ支配下にあった時代に増築されたようだ.併せて他の傷んだところも修復されたそうだが,今は再び傷みが激しくなっている.
北側の海辺には集合住宅が並び,砂浜が広がっている.いい海岸だ.
南側を望むと先ず今渡ってきた石橋が目に入る.多分そのため海流が遮断されるのであろうが,海底に砂の淀みや堆積の様子が窺える.その前に歩いた旧市街付近は比較的低い建物が多いが,意外に多く緑の木立も見えている.
なお石橋の城連結部分は,現在石の固定橋であるが,城塞として機能していた時代は跳ね橋だったそうだ.まあ,海上城への橋であれば当然であろうが.
海の城塞見物から戻ったところに小さなテント休憩所があった.私達も,この目のくりくりした可愛い子も橋の袂に戻るとここで一休みした.
海の城塞から離れ,少し南下しそして内陸に入りマグドゥーシュ村を訪れた.そして『私達の待っている聖母マリア教会(Our Lady of Awaiting church)』または別名『マントラの聖母マリア教会(Our Lady of Mantara church)』を見せてもらった.
広々した駐車場を備える広場を歩き,礼拝堂に入った.本教会はメルキットギリシャカトリック教会(Melkite Greek Catholic Marian shrine)ということだ.メルキットとは何でもビザンチン儀式キリスト教会ということだが,大まかにはカトリック教会としていいのであろうか.
本教会は,イエスがここサイダで宣教中,聖母マリアがここの洞窟で帰りを待っていたと云ういわれに基づくそうだ.サイダは現代までの間サラディンや,マムルーク朝,そしてオスマン朝など異教徒の支配を受けてきたのでクリスチャンは迫害された時期があり,上記マリアの待つ洞窟は隠されてきたが1721年たまたま発見され,聖地として崇められ今日に至っているのだそうだ.
祭壇正面にはキリスト像や最後の晩餐壁画が描かれている.ちょっと写りが悪いが晩餐シーンではユダだけが腰を上げ皆の背後に回っているのがとても分かり易い.
主礼拝堂側面にはずらりイエスの生涯に関わる壁画が掲げられている.信徒にはとても分かりやすい具象的な絵柄だ.
私達の待っている聖母マリア教会本堂手前下に聖母マリアの待つ洞窟入り口があった.ここが巡礼の聖地になっているのであろう.
聖母マリアの待つ洞窟の一画にこのディスプレイがあった.きっとイエス誕生シーンで,イエスの周りに家畜が集い,東方の三博士が駆けつけた様子だと思われる.
聖母マリアの待つ洞窟には礼拝堂も備え,現に礼拝中の方も何人か居られた.主祭壇には聖母子像が掲げられ,教会の名称にもぴったりだと思われる.
高さ28mという高い塔の上に,イタリア製高さ8.15m,肩幅3.5m,重さ6トンのブロンズ製聖母子像が据えられていた.1963年に除幕されたそうだ.
聖母子像と主礼拝堂の間に墓地が置かれている.まだできてから長くない教会のためか墓地は十分な土地が確保されているように見えた.
私達の待っている聖母マリア教会を見せてもらい,またバスに乗り込んでマグドゥーシュ村のある丘を下った.丘からは逆光の中に地中海が霞んで見える.
丘を下り海岸通り近くに成るとバナナ畑を通過した.規模は小さいがバナナが実る光景は,デーツの実る光景と共に嬉しい眺めだ.
バスはベイルート市内に戻ってきた.集合住宅で西向きの部屋はもろに西日を受ける.そこで厚い布地カーテンをバルコニー外側に日除けとして下げている窓が多く見られる.
新しい建物は冷房がしっかりして必要ないのか,それとも全面ガラス張りでバルコニーがないためか,日除け布は掛かっていない.
バスはルブリストルホテルに戻り,部屋に入った.いろいろ見て回ったが天気が良くて幸いだった.
部屋で一風呂浴び,そしてホテルレストランに降りた.そしてこの晩もステーキをミディアムレアで焼いてもらい,美味しく頂戴した.
さて明日はドッグリバーやベイルート国立博物館などまた楽しみがいっぱいありそうだ.