アレッポを後にパルミラに向かった.
アレッポからしばしばオリーブ畑を眺めながらパルミラに向かう途中ホムスの街で休憩した.ヨルダンは50万バレル/日の原油を産出するそうであるが,ホムスは産出地の1つであるそうだ.ホムスでは86%がイスラム,12%がキリスト教徒,1%がユダヤ教徒であるそうだ.意外とキリスト教徒が多いように思った.ホムスはまた美人が多く,人々が親切な街として知られているそうで,バスドライバのアザムさんがここの出身,もちろん奥さんもここの方だそうである.
下は,ホムス辺りの写真.
ガイドのアサジさんの話では,シリアの農業地帯では200mm~1400mm程度の降雨と,山岳部で30mm程度の降雪があるそうだ.麦,りんご,レモン,オレンジ,オリーブなどが採れるそうだ.ウランを含むリン(P)鉱石を200万トン産出し,大きな輸出品目のようだ.
砂漠を越えパルミラのホテルにバスが到着するとバスの周りに子供たちが集まってきてくれた.
下は,ホムスとパルミラ間の写真.砂漠の真ん中にどんぐり型の建物が見えた.それにしても殆ど草の見えない土地にたくさんの羊が放牧されている風景は,何を食べているのか?といつも不思議に思ってしまう.
夕刻,夕日をそれに照らされるパルミラ遺跡を眺めるためにアラブ城に登った.ただしバスで.黄金色とまではいかないが,パルミラ遺跡が夕陽に映えてきれいだ.また,高さ150mの岩山に建つこの城に上るとパルミラが背後にナツメヤシの林が広がるオアシス都市であることが一目瞭然である.十字軍に対抗すべく建てられたのだというアラブ城が建設されたのは12世紀だそうなので,パルミラが栄えた3世紀頃より遥か1000年も後のことだ.さらに城の上部は,そのまた後世,17世紀オスマン朝のフェクルエドディーンという知事が改修増築したようである.
下は,アラブ城と入り口の土産物屋さん.
紀元前1世紀から紀元後3世紀にかけて,東西交易の要衝として築かれたオアシス都市,でも街の佇まいや市場で陳列された商品を眺めていると,多分当時文明が進んでいたであろうから.....その頃と大きくは変わっていないのかな~などと思ってしまう.
下は,パルミラ市内の眺め.世界的な観光地であるのでお土産屋やレストランが並んでいるがいずれも地味な店構えだ.市場では最盛期のスイカがたくさん並べられていた.定番のナツメヤシ(ディツ)も並んでいる.
ダマスカスの北東,約200kmの砂漠の中にあるパルミラは,紀元前1世紀~3世紀まではシルクロードの中継都市として発展.交易の関税により都市国家として繁栄したようだ.パルミラのオアシスは,タクラマカン砂漠から中央アジアを経て延々と続くシルクロードの終着点に位置し,ラクダでの長旅を続けてきたキャラバンにとって久々に安堵できる休息地であったであろう.一時ローマの属州となったこともあるそうだが,2世紀にペトラがローマに吸収されると,その通商権を引き継ぎ繁栄したそうだ.270年ごろに君臨したゼノビア女王時代にはエジプトの一部も支配下に置いていたそうであるが,ローマ皇帝のアウレリアヌスは,パルミラの独立を恐れ攻撃をしかけ,272年,パルミラは陥落し廃墟と化した.残念ながらゼノビア女王の全盛期はごく短期間だった訳だ.
パルミラ遺跡の中で「エラベール家の塔墓」と「三兄弟の地下墓室」から訪れることになった.
当時の有名な富豪であったエラベール家の塔墓は5階建ての大きな墓だ.内部の各階の部屋の壁には棺を収納する凹みが多く設けられている.内部の石の彫刻はなかなか豪勢な造りで,いちじく葉のデザインは古代ローマ様式と共通のように思えた.当時156の石棺が収められていたそうである.
富豪の三兄弟(とその他大勢)が埋葬された地下墳墓.パルミラの人口が増えると,必要な墓地も多くなる.三兄弟は地下の分譲墓地を企画し,大当たりし,その結果富豪になったそうな.独自の発想で創業者利益を得た好例であろう.内部の壁面には棺を収める棚がマトリックス状の窪みが無数に設けてあり,所謂お墓のマンション版である.
そう言えば最近の日本の寺でもこのような方式の墓地を提供しているところがあるようだ.なお美しい壁画で有名だが内部は撮影禁止で,写真は地下への入り口のみ.
下は,エラベール家の塔墓と三兄弟の墓の写真
パルミラの宗教的行事を執り行う巨大な神殿.ベル神は世界を支配する神で,バビロニアやレバノンのベール神と同じくフェニキア以来から続くこのあたりの土着信仰だそうである.この神殿はAD32年に築かれたそうである.神殿は縦,横200mの外壁で囲まれいる(いた).その正面には人が通る門,左には生贄の動物を通す小さな門があったそうだ.外壁の内側に入ると先ず巨大な7本の列柱が目につく.柱の中ほどには棚が設けられ,かつてはここに神の像が置かれていたそうである.神殿手前の広場の中央には生贄を捧げた祭壇があり,毎年4月6日のお祭に供されたそうである.
ガイドのアサデイさんが,当時男性が女性にプロポーズし,女性がOKしなかった場合の公開処置ルールについて話してくれた.男性は,上部に可動式(落下式)岩のあるベッドに横になり,女性に対して,「結婚してくれるか?」と訊ねる.No!なら岩は少し落下する.同じ問い合わせを7回まで行うことができ,No!ならその度に岩は少しずつ男性に迫ってくる.しかし,もし7回目の返事もNo!であれば,岩は完全に落下し,男性を押しつぶしてしまうのだそうである.どちらサイドを想像しても,ハラハラしてしまう.7回目の質問を諦めるか,最後の願いを訊きいれてくれることにイチかバチか望みを託すか......ところで,女性側が最初にプロポーズした場合のルールはどうだったか...?聞き漏らしてしまった.
下は,ベル神殿の写真あれこれ
下は,パルミラ遺跡.アラブ城を背後にした列柱通りや水道菅の写真.
一時はローマ軍に対しても連戦連勝したという前述のゼノビア女王が凱旋した門のようだ.
列柱通りはベル神殿から北西のアラブ城砦まで1km余り続く大通り.ラクダの足にかかる負担を軽くするため,他のローマ遺跡の列柱街路のような石畳の舗装が施されていない,ということだ.さすがキャラバンの休憩地だ.現在ベル神殿から記念門までの間は皆無であるし,残っている列柱は150本程度だが,当時は750本もの柱が並んでいたという.各柱の中ほどに設けられた棚には英雄の像が置かれていたそうだ.列柱の外側にはキャラバンと取り引きする商店が立ち並んでいたとされるようだ.
当時の水道管が敷設されている.たしか上水道,下水道両方とも残っていたと思う.この場所自体は砂漠の中であるが,少し離れた場所,現在ホテルが建っている場所によい水場があったようだ.また現在の街の背後に大きなオアシスが広がっているので,そこにも水源はある筈だ.古代ローマのすごさの1つに水道の技術があり,一時支配下にあったここパルミラでも当然その技術はふんだんに活用されたようである.列柱通りの右側に大きな浴場跡があるのも他のローマ遺跡と共通だ.
列柱通りの途中,南北の道と交差するところに四面門がある.古代ローマの属州では都市中心部の交差点に設けられ,他でもよく見られる建造物だそうだ.でも,特にここパルミラのものは壮大で石材は遠いエジプト産の赤い花崗岩を使っているのが他と違うそうであるらしい.でもエジプトからこんな内陸の砂漠まで運ぶのは,それはそれは大変だっただろうね~
下は,パルミラ遺跡の写真あれこれ
下は,パルミラ遺跡と近くのレストランで.顔付き羊料理を出してもらったときの写真.