イスタンブール旧市街Old City of Istanbul

イスタンブールはアジアとヨーロッパの2つの大陸にまたがる.その中心を貫くボスポラス海峡は,黒海,マルマラ海,そして金角湾に注ぎ込む.イスタンブールは,後述のようにかつてローマ帝国,ビザンチン帝国,オスマン帝国という3代続いた大帝国の首都だったので,過去の遺産も数多く残しているのが興味深い.

ブルーモスクBlue Mosque(Sultan Ahmet Camii)

ブルーモスク正面

ブルーモスク正面

無数のモスク(またはジャミィ)があるイスタンブールの街で最も著名なモスク.正式名は,1616年にこれを建造したスルタン・アフメット1世に因みスルタンアフメットジャミィ(Sultan Ahmet Camii)であるが,内部の模様が青みがかったタイルが使用されているためブルーモスクと呼ばれるようになったそうだ.6本の尖塔(ミナレット)を有するのも特有のことらしい.(普通は1~4本くらい)


ブルーモスク出口付近

ブルーモスク出口付近

床には一面に立派な絨毯(註)が敷き詰められており,観光客が入り口で脱ぎ,手で持ち運んでいた靴を再び履いている.

(註)夏は蚤に注意!とも聞いた.


ブルーモスク内側の回廊辺り

ブルーモスク内側の回廊辺り

丸い柱の上にアーチが連なるイスラム様式が美しい.白い天井に描かれた文様もまた美しい.イスラム教は,例えばタリバンによるバーミアンの大仏破壊に見られるように偶像支配を禁じているため,文様は専ら幾何学模様である.


下は,ブルーモスクの写真あれこれ

ブルーモスク
ブルーモスク ブルーモスク ブルーモスク ブルーモスク ブルーモスク
ブルーモスク ブルーモスク ブルーモスク ブルーモスク ブルーモスク

地下宮殿Yerebatan Sarayi

イェレバタン地下宮殿

イェレバタン地下宮殿

ブルーモスクの少し北に位置し,地下貯水池でイェレバタンの地下宮殿(イェレバタンサルヌジュ )と称される.現在は博物館として内部が見学できるようになっているが,本来はこの柱の上まで水で満たす巨大タンク(長さ140m×幅70m)として機能する.


横を向いたメデューサの顔

横を向いたメデューサの顔

6世紀,ビザンチン帝国時代にコリントス様式の柱336本(うち246本が現存)で作られた.それらの柱の下に横向きや下向きの顔(メデューサ)の彫刻が2,3箇所見られる.これらはビザンチン帝国より前の建造物(ギリシャ風に見える)を,単に柱の高さ調節のための台に転用したためという.


イェレバタン出口近くの売店

出口近くの売店

さすがここまでは物売りが追いかけてこないので土産物もゆっくり探すことができよう.


下は,地下宮殿イェレバタンサライ各所の写真

イェレバタン地下宮殿
イェレバタン地下宮殿 イェレバタン地下宮殿 イェレバタン地下宮殿 イェレバタン地下宮殿 イェレバタン地下宮殿

アヤソフィアHagia Sophia

アヤソフィア遠景

アヤソフィア遠景

ビザンチン建築の粋を集め,325年キリスト教を認めたコンスタンティヌス帝によって聖堂として建築された.その後災害に見舞われたのち,532年ユスティヌアス帝によって現在の姿に再現された.ところが13世紀にコンスタンティノーブルを攻略したオスマントルコはその後モスクに改築,ミナレットを建て壁や天井のモザイク画を漆喰で塗り固めてしまった.つまり東ローマ帝国時代,東方正教会の総本山だったが,オスマン・トルコによる征服後は事実上イスラム教の総本山となった.


アヤソフィアのモザイク画

モザイク画

そのはるか後1931年,漆喰の下からビザンチン様式のモザイク画が顔をのぞかせたそうな.これがきっかけで,いくつかの壁を元の姿に修復し,博物館として公開されるようになったそうだ.右図は南門入り口に描かれた10世紀の傑作,聖母子モザイク画.


アヤソフィアのドーム内部

ドーム内部

この巨大なドームは地上55メートル,直径33メートルもあるそうだ.天井の漆喰も剥がされ,ご覧のように,キリスト教のフレスコ画とアラビア文字(註)で記されたイスラム教のコーランの一節(またはカリフの名前?)が仲良く同居している.99%の国民がイスラム教徒と云う現在のトルコにあっては,このアヤソフィアの隣に普通のモスクを建て礼拝に用いているようだ.

(註)トルコは現在アラビア文字を用いておらず,一般の人は殆ど読めないそうだ.


アヤソフィアのたて看板

アヤソフィアのたて看板

入場料=700万リラ.トルコリラの通貨インフレぶりが覗える.2002年3月現在では1円=1000リラくらいなので,入場料は700円くらいということになる.トルコのお札は桁が大きすぎて混乱してしまう.2002年/3月の為替レートでは100万リラ=約100円,1000万リラ=約1000円,25万リラ=約25円と比較的わかり易いが,それでもタクシーの支払い時に1桁間違えて払ってしまった.(なおタクシーでは元々お釣りの慣わしがなくチップと見なされる)


下は,アラビア文字やアラベスク模様が美しい6角形(8角形?)の水場や,修復のための足場が組まれているドーム内側など,アヤソフィア各所の写真.

アヤソフィア
アヤソフィア アヤソフィア アヤソフィア アヤソフィア アヤソフィア アヤソフィア
アヤソフィア アヤソフィア アヤソフィア アヤソフィア アヤソフィア アヤソフィア

トプカプ宮殿Topkapi Palace

ボスポラス海峡,金角湾とマルマラ海の出会うところに,15世紀から19世紀にかけてオスマン帝国の中心であったのがトプカプ宮殿 .トプカプ宮殿は様々な建物が迷路のようにつながっていて,豪奢を極めた宮殿の中で,スルタンと家来たちが生活し,統治していたという. 宮殿の外側,第一庭園と呼ばれるところは,樹木の生い茂る見事な庭園だ.第二庭園の右側,糸杉とプラタナスの木陰になる場所はかつての宮廷の調理棟で,現在は帝国のクリスタル,銀,中国陶磁器のコレクションの展示館となっている.日本の,確か伊万里焼だと思う,も少し展示されていた.左側は,スルタンの多くの妻たちと子供たちが暮らした部屋が残るハーレムであるが,時間切れで残念ながら入場できなかった.しかしながら,外から見ても実に美しいと感じた. 現在では,第三庭園には謁見の間,アフメット3世の図書館,スルタンと家族の衣装の展示館,宝物館,中世の手書きの細密画のコレクションがあるそうであるが,十分に見ることはできなかった.この聖域の一番奥中央には聖衣の間があり,オスマン帝国がイスラムのカリフ制度を確立させた時にイスタンブールにもたらされた預言者モハメッドや弟子の遺蹟が祀られている.

トプカプ宮殿入り口

トプカプ宮殿入り口

トプカプ宮殿は1453年イスタンブールを征服したメフメット2世によって建築され,以降オスマントルコ帝国歴代スルタンの居城であった.現在はスルタンの残した秘宝の数々を展示する博物館として利用されている.


トプカプ宮殿ハレム

ハレム

右はハレムであったと云う建物.ハレムは英語などのガイド付きツアーが組まれ,決まった時間に入場できるそうであるが,十分な時間がとれず残念ながら内部の見学はあきらめた.


トプカプ宮殿回廊

回廊

イスラム様式のアーチと丸い柱の連なりが美しい.台所であった辺りに陶磁器,銀製品などが展示されている.


宝物殿入場待ちの列

入場待ちの列

宝物殿入り口で列を成す人々.スプーン3本と交換されたという86カラットのダイヤモンドはじめ,宝石類,宝石を散りばめた短剣,玉座....等々,とにかく圧倒されてしまった.王子様のエメラルドやサファイア等々を散りばめた黄金の揺りかご(ベッド?)なんて,決して寝心地がいいとは言えないだろうが.....(なお写真は禁止で,残念)


聖衣の間入り口

聖衣の間入り口

正面に見える入り口をくぐると,常時コーランを唱えている部屋がある.またその部屋には預言者モハメッドの髪の毛,装束,愛用した刀剣,またモハメッドの弟子の遺品が展示されている(撮影は禁止)
偶像を禁止し,中間介在者を無くし,神との直接契約を旨とする(らしい)イスラム教徒にとっても預言者とその後継者はやはり信仰の対象なのだろうか?....などとしばし考えて見る.


下は,宮殿前広場,正門,展示室,宮殿から見下ろすボスポラス海峡,補修作業を行う人....等々トプカプ宮殿各所の写真

トプカプ宮殿
トプカプ宮殿 トプカプ宮殿 トプカプ宮殿 トプカプ宮殿 トプカプ宮殿 トプカプ宮殿 トプカプ宮殿
トプカプ宮殿 トプカプ宮殿 トプカプ宮殿 トプカプ宮殿 トプカプ宮殿 トプカプ宮殿 トプカプ宮殿

広場や旧市街あちこちHippodrome, Old city of Istanbul

オベリスク

オベリスク

スルタン・アフメットジャミィの前の広場,ローマ時代に造られた競馬場(もしくは戦車競技場で,ビザンチン時代の市民生活の中心だった古代の大競技場(ヒポドロム))跡の上に建つオベリスク.テオドシウス帝が390年にエジプトから持ち帰ったファラオのオベリスクだという.後ろに少し小さなコンスタンティヌス帝のオベリスクも見える.


エジプト古代文字

エジプト古代文字

オベリスクにはエジプト古代文字であるヒエログリフが刻まれている.なお現在かつての競馬場をしのばせるものはなにもない.オスマントルコになってから,その石材はスルタン・アフメットジャミィに使われたと言われている.


競馬場跡広場前の絨毯屋

競馬場跡広場前の絨毯屋さん

いや絨毯だけでなく水パイプや絵皿などトルコらしい品々も多く並んでいるので,言わばお土産やさんかな?


裏手の絨毯屋

裏手の絨毯屋さん

こちらはメーンストリートから離れた,ブルーモスク裏手の絨毯屋さんで,所謂お土産品はあまり見えない,よってほんとの(イスタンブール居住者のための)絨毯屋さん,としておこう.


オリエント急行始発駅

オリエント急行始発駅

現在こそ運行していないが,1889年,あのオリエント急行の始発(いや終着か?)点として建てられたシルケジ駅.


テオドシウス城壁

テオドシウス城壁

かつて侵攻不可能といわれたという,ローマ時代に造られた城壁の跡.トプカプ宮殿からマルマラ海沿岸あちこちに残る.いくつか有名な門が残っているが,破損が激しいため,どこからどこまでが古代で,なにが近代のものかは区別しにくいらしい.オスマントルコ時代の宮殿や厩もあったらしい.それでも,主な城壁はどうやらテオドシウスⅡ世が統治していた5世紀のものらしく,ユネスコでは城壁と城壁を囲む地域を世界文化遺産に指定することになったという話だ.


下は,ヒポドロム広場周辺,マルマラ海沿いのレストラン,路上パン売り,夜9時まで営業している魚市場,アタチュルク空港,など旧市街地あちこちの写真

イスタンブール旧市街地
イスタンブール旧市街地 イスタンブール旧市街地 イスタンブール旧市街地 イスタンブール旧市街地 イスタンブール旧市街地 イスタンブール旧市街地 イスタンブール旧市街地
イスタンブール旧市街地 イスタンブール旧市街地 イスタンブール旧市街地 イスタンブール旧市街地 イスタンブール旧市街地 イスタンブール旧市街地 イスタンブール旧市街地

グランドバザールGrand Bazaar

ヌルオマスニエ門

ヌルオマスニエ門

無数のお店がアーケード内に連ねるグランドバザール.現在は石造りであるが,当初木造で1461年発祥と相当の歴史がある.右図は数多くの入り口の中でメーンストリートに直結するヌルオマスニエ門入り口.


グランドバザールのお店

グランドバザールのお店

お皿やら,水パイプやら様々なみやげ物を並べたお店.(このような感じのお店多し)


グランドバザールの絨毯店

グランドバザールの絨毯店

世に知られるトルコ絨毯のお店.いや,トルコ絨毯と決め付けてはならない,例えば中国(中国の方すみません)で大量生産された安いポリエステル絨毯が並べてあるのかも知れない.第一,トルコ絨毯と称しても材料がシルク,ウール,コットン,さらにラクダの毛,化繊...,織り方や繊維密度もいろいろあるのだ.(絨毯工場で講習を受けた受け売りだよ~)


グランドバザールのドネルケバブ店

グランドバザールのファストフード店

食品関連店は数少ない.そんな中でドネルケバブのお店.ビーフや羊肉やチキンを写真のように串刺して回転しながらあぶり焼きし,焼けた表面から右手の大きな包丁で削ぎ,それをフランスパンにレタスや人参と一緒にサンドイッチして食す.言わばトルコ版ハンバーガーである.私的にはマックより美味しいと思う.


下は,グランドバザール内いろいろなお店の写真

グランドバザール
グランドバザール グランドバザール グランドバザール グランドバザール グランドバザール グランドバザール グランドバザール
グランドバザール グランドバザール グランドバザール グランドバザール グランドバザール グランドバザール グランドバザール

イスタンブールの歴史History of Istanbul

(1)ビザンティウム

紀元前3000年頃,エーゲ海沿岸には既に様々な民族が住み着いていた.そんな中で紀元前660年,遠征中のメガラ人,ビザスがボスポラス海峡沿いに新しい街を作った.それがビザンティウムの始まりだという.

(2)コンスタンティノープル

人口の膨れたビザンティウムは,コンスタンティヌスの街”コンスタンティノープル”と呼ばれた.395年にローマが東西に分裂,476年に西ローマが崩壊すると,コンスタンティノープルを首都とする東ローマが唯一のローマ帝国となった.ギリシャ語を話すキリスト教徒が多数のここでは,かつての異教のローマ帝国と決別するために,ビザンティウムの名から”ビザンティン帝国”と呼ばれるようになった.

6世紀,ユスティニアヌス1世のころ,アヤソフィアを始め,壮麗な建造物が次々と建てられた.しかしその後,セルジュクトルコやモンゴルによって,ビザンティン帝国は脅かされ,次第に衰退へと向かった.

1204年,ヴェネツィアとローマ教皇の策略によって,第4次十字軍がコンスタンティノープルを攻略し,ラテン帝国を築いた.しかしビザンティン帝国は首都をニケーア(イズニック)に移して国力を保ち,50年後にコンスタンティノープルを奪回した.

14~15世紀には,オスマントルコがイスタンブールの西部アドリアノープルを攻略し,ビザンティン帝国の領土はほとんどコンスタンティノープルを残すのみとなった.1452年,オスマントルコのメフメットⅡ世は,ボスポラス海峡沿いに要塞を建造し,海峡を通る船に両岸から大砲を発砲して支配するとともに,コンスタンティノープルを弱体化させた.

巨大な大砲を持つオスマントルコはコンスタンティノープルの城壁を次々と攻撃し,さらにメフメットⅡ世は,当時鎖で封鎖されていた金角湾を掌握するために船を進めた.

(3)イスタンブール

1453年5月,ついにコンスタンティノープルはオスマントルコに占領され,イスタンブールと名前を変えた.イスタンブールでは,モスク,宮殿,学校施設など,次々とイスラム建造物が出現した.

一時期はバルカン半島,アラビア半島,北アフリカ全域を支配した巨大帝国オスマントルコだが,ギリシャ独立戦争,クリミア戦争を経て次第に疲弊していった.20世紀に入ると民主主義運動が起こり,1908年には青年トルコ党が主権を握った.

第1次世界大戦で,ドイツと手を結んだが,連合国側に敗戦し,オスマントルコはあっという間に崩壊へと向かった.1919年,フランス,イギリス連合軍がイスタンブールを占領し,オスマントルコの領土の大部分は連合国に分配されることとなった.その時,ムスタファ・ケマル(後のアタチェルク)は学生や農民を動員し,祖国解放を進め,アンカラを拠点に次々とギリシャ軍を破っていった.1922年イスタンブールにかろうじて残っていたオスマントルコのスルタンが逃亡し,翌年にはローザンヌ条約によって新たな国境線が確定し,アンカラを首都とするトルコ共和国が誕生し,現在に至る.なおギリシャ.ローマ.オスマントルコの歴史を残すイスタンブールの旧市街は,ユネスコの世界遺産にも登録されている.



Cannergy'sホームへ