トルファンTurpan

南疆鉄道でトルファン駅に到着したのは13:35.クチャで乗車したのは1:40なので,12時間ほど乗車していたことになる.トルファン(中国名:吐魯蕃)は山南路の東北部のトルファン盆地にある.漢代より漢族の屯田が行われ,5~7世紀,その移民により高昌が建国,栄えたが,のち唐に併合された,ということだ.

トルファンに到着arrival at Turpan

トルファンのぶどう棚の道

ぶどう棚の道

ぶどうはトルファンの特産品,ぶどう棚の下を通る道を通りホテルに向かう.これは車道で,両側にやはりぶどう棚の歩道も設けてある.歩道に面して小さな食堂や,超市という,文字通りとればスーパーマーケット,実態はコンビニ,が並んでいた.


トルファン賓館に着く

トルファン賓館に着く

白い外装のトルファン賓館に到着した.吹き抜けのロビーに,普通の部屋が並んでいる.かなり大きいホテルで,庭には,後日見物するダンスの会場があり,他のホテルからも観客が駆けつける.


都市化

都市化

近くには農地が広がっている.またその近くには大きな建物も建ち,世界どこの地でも見られる都市化の傾向はこのオアシス都市でも同様だ.


人民解放軍

人民解放軍

現在も大きな力をもっているのであろう人民解放軍の施設がホテル近くにあった.人民解放軍は中国共産党の軍事部門であり,中華人民共和国の国軍でもある.またここ新疆ウイグルでは特別な役目もあろう.総兵力231万人,予備役約50万人,他に人民武装警察150万人.また,人民公社単位での民兵がおおよそ600万程度いるそうである.ただ現状では旧式装備が多く軍事能力はかなり低いとも言われるが,核を保有し,有人衛星を打ち上げる技術を有するなど,やはりポテンシャルは相当高いのでは.....

トルファンの家族Turpan Family

砂嵐の吹く中,ウイグル族エサンジャンさんのご家庭を訪問することになった.ぶどう農家でご夫妻と若夫婦,お孫さん一家が暮らしている.玄関先には中国共産党の名の入った,多分模範ファミリーのお墨付きであろう金看板が掲げられていた.

トルファンの家族トルファンの家族
トルファンの家族トルファンの家族

家に隣接してぶどう園が広がっている.一部杏など他の果物の木や,敷地境界辺りにはポプラが植えてある.家の屋上の一部には干しぶどう作りの室が建てられている.見物した時点では小さなぶどうの実ができ始めていた.トルファンの干しぶどう室は独立した建物であったり,エサンジャンさん宅のように住宅の2階部分に設けてあったりするようだ.レンガ作りで,四方の壁ともにすけすけで風が通り抜ける構造だ.早い話,トルファンは高温にして,低湿度,収穫したぶどうを室に広げておけば干しぶどうになるみたいだ.逆にフレッシュグレープを維持するのは難しいであろう.

最後に干しぶどうの展示即売会となった.茶色系のものからグリーン系のもの,小さい実のものから大きい実のもの,それぞれ味も少しづつ異なり,プライスも違う.意外とバリエーションがあるもんだ.

トルファンのぶどう園トルファンのぶどう園
トルファンのぶどう園トルファンのぶどう園

火焔山Flaming Mountains

火焔山

孫悟空と火焔山

孫悟空が三蔵法師(玄奘)のお供をして,天竺(インド)に行く旅の途中あった,はげしく燃え上がる山,というのがこの火焔山.木が生えておらず,山肌が火焔のように見えることから火焔に形容されたのであろう.火焔山を越えるためには,魔法の扇を使って大風を起こし火焔を吹き消さなければならなかったようだ.風でますます火焔が激しくなるのでは.....と心配しないでもないが,孫悟空は,扇の持ち主である牛魔王の洞窟を訪ねたそうな.しかし洞窟にいたのは牛魔王の妻,鉄扇公主だった.鉄扇公主はどうしてか孫悟空に恨みがあったため,扇を貸さないばかりか,悟空を魔法の扇で吹き飛ばしてしまったそうだ.しかし悟空はそれでもあきらめず,何度も借用を申し入れ,「もし3回あおいで,それでも吹き飛ばされなかったら貸してやろう」という言質を得,ふんばって,ついに扇を借りることができた,というストーリーのようだ.ふむふむ.

なお道端に設けられた観光用案内施設には西遊記関連の絵や彫像が展示してあった.またそこには観光用ラクダも待機していた.

この辺りは標高は低く,高度計では海抜-80mを示していた.それでも雨が降ることは殆どないので水が溜まることはないのだ.


火焔山火焔山
火焔山火焔山

高昌故城GaoChang Ancient City

ろば車で高昌故城に向かう

ろば車で高昌故城に向かう

故城は前述の火焔山の麓にあり,トルファン市街から東に約45kmに位置している.紀元前1世紀~紀元後14世紀の間新彊における政治,経済の中心地の一つであったそうである.5世紀,漢人による麹氏高昌国が成立し,以後640年に唐の太宗によって滅ぼされるまで約140年間存続したそうだ.9世紀末,唐が全面的に撤退した後,10世紀にはウイグル人の「高昌大王府」がおかれた.高昌故城はその後300年間ウイグル人の拠点として栄えたが,13世紀にチンギスハンの遠征軍に襲撃され,廃墟となってしまった,ということだ.

高昌故城の仏画痕跡

仏画の痕跡

高昌故城の遺跡は内城,外城,宮城から構成され,城壁で囲まれていたようだ.前項の玄奘が経典を求めてインドへ向かう道中ここを通り,当時の高昌王,麹文泰に手厚く受け入れられたそうである.玄奘は請われてここに1ヶ月滞在.王に仏法の話をし,高昌王より金銀,衣類,荷馬数十頭など20年分相当の旅費を寄進され,インドよりの帰途再び高昌国で説法する約束をしたそうな.

10年の後,インドから帰途についた玄奘は約束通り,再びこの地へ足を運ぼうとしたが,高昌国はすでに唐によって滅ぼされていたそうで,約束が果たせなくなったのである.建造物は,板枠を作り,土をその中に盛り,一層ずつ杵でつき固める版築工法や日干しレンガでできているようだ.壁が残された写真の仏塔の壁窪み上部には,かすかに仏画の痕跡が残っている.いつの時代に描かれたものであろうか?既に屋根も無く,防備するものは何もないのであとどれくらい持つやら....


下は,高昌故城の写真

高昌故城
高昌故城 高昌故城 高昌故城 高昌故城 高昌故城 高昌故城 高昌故城
高昌故城 高昌故城 高昌故城 高昌故城 高昌故城 高昌故城 高昌故城

アスターナ古墳群Astana Karakhoja Tombs

これも火焔山の麓に位置する.アスターナ古墳群は6~7世紀に繁栄した高昌国時代の貴族の古墳群で,その数は500以上あるそうだ.その中の2つを見た.それぞれ地面からスロープを下った地下の洞窟になっている.乾いた土地柄故,遺体はミイラとなり残っている.また玄室壁面には繊細な色彩の花鳥画が残されていた.

アスターナ古墳群アスターナ古墳群
アスターナ古墳群アスターナ古墳群

ゼベクリク千仏洞Bezeklik Thousand-Buddha Caves

ベゼクリクとはウイグル語で「美しく飾った場所」とか「 絵のある所 」という意味らしい.ここもまた火焔山の麓にあるが,ムルトウク河という渓谷が流れ,川辺は緑豊かだ.千仏洞はその渓谷の断崖途中に掘られている.石窟の中には壁画と仏像があるが,その大部分は破壊されている.破壊された理由は,クチャのキジル千仏洞やクズルガハ千仏洞と同じだ.特に,14世紀,イスラム化が進んだ頃の破壊は大きかったそうである.

後世,ドイツの探検家ルコックは砂の中から千仏洞を掘出した際,見事な壁画を見て,これをイスラム教徒の手から守らなければならない,という大義名分の下,壁画を剥ぎ取り,本国に持ち帰った.しかし第二次世界大戦の戦火の中に焼けてしまい,ドイツには何も残っていないそうだ.ただ,現在千仏洞に僅かに残っている壁画は彩り鮮やかで,精巧な印象を受ける.なお,ここも写真は撮れない.

ゼベクリク千仏洞ゼベクリク千仏洞
ゼベクリク千仏洞ゼベクリク千仏洞

下は,ゼベクリク千仏洞と周辺の風景.

ゼベクリク千仏洞と周辺の風景
ゼベクリク千仏洞と周辺の風景 ゼベクリク千仏洞と周辺の風景 ゼベクリク千仏洞と周辺の風景 ゼベクリク千仏洞と周辺の風景 ゼベクリク千仏洞と周辺の風景 ゼベクリク千仏洞と周辺の風景 ゼベクリク千仏洞と周辺の風景
ゼベクリク千仏洞と周辺の風景 ゼベクリク千仏洞と周辺の風景 ゼベクリク千仏洞と周辺の風景 ゼベクリク千仏洞と周辺の風景 ゼベクリク千仏洞と周辺の風景 ゼベクリク千仏洞と周辺の風景 ゼベクリク千仏洞と周辺の風景


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