1779年,トルファン郡の王スライマン(蘇来満)が,父エミン(額敏)を記念して建てたミナレットで,蘇公塔若しくは額敏塔とも呼ばれているそうだ.ミナレットは先細り,頂部は半球形のシンプルな形状で,普通中東とかで見られる上部のアザーンを呼びかけるためのスペース(部屋)は外部からは見当たらない.塔の表面は,レンガ積みが浮き彫りのような手法で幾何学模様が形成されている.塔の高さは44mあるそうだ.見上げると塔の頭部はいくつかの窓も見えるので,やはりここからアザーンを発するのかも知れない.
塔のすぐ脇にはモスクがあり,内部を見せてもらった.メッカの方向を示すミフラーブがあり,床にカーペットが敷いてある広い礼拝堂だ.柱,壁,天井全て木造のイスラム建築様式だ.
下は,蘇公塔周辺の写真
この年配のおじさんは調理した羊頭を専門に商っている.羊頭は若い男性が好んで食べると聞いた.羊となるとちょっと試してみる勇気はないが,筆者がブリかまを好むようなものであろうか.
大きな商品なのでそれほど頻繁に売れるもではなかろう.客待ちの御上さんが,誰か寄ってくれないかな~と周りを見回している.普通の部屋で使うにはちょっと彩度が高過ぎないかな~と心配になるくらい原色が幅を利かせている.
下は,トルファンのバザール写真
バザールで羊頭を見て帰り,ホテルのレストランで夕食となった.この日のメニューは今回のツアーの食事のハイライト,羊の丸焼きであった.痩せてるな~とかいう声もあったが,さすが羊の姿焼きともなると迫力だ.目の前で切り分けられると,ちょっとびびりそうなので一旦調理場に運び,そこでお皿ごとに切り分け,原型が分からない状態にして出してもらった.
夕食後は庭のステージでウイグルの民族舞踊を楽しんだ.バンドの楽器も皆ウイグル伝統楽器だ.元々ウイグル族は遊牧民であろうから,音楽や踊りは得意なのだと思う.
下は,ウイグルダンス
この看板のように,交河故城は東西を2つの河に挟まれた台地上にあり,天然の要塞となっている.大きさは,東西に33m,南北に1600mあるそうだ.漢代は,漢王朝の重要な屯田地として,また辺境防御の任務にあったそうである.麹氏高昌国時代になると,中心は前述の高昌故城に移ったが,交河故城は軍事的拠点として使用され続けたそうである.
ウイグル王国時代も重要な都市であったが,元代末期チンギスハンの遠征で破壊され,廃城となったそうである.これは高昌故城と同じである.やはりチンギスハンは圧倒的だったわけだ.
ここの遺跡を眺めると,どうやら高昌故城と同じように版築工法や日干しレンガでできているようだ.現在の入り口側(南部)は一般居民の居住区,奥の方,北部には寺院や仏塔,最北部には墓が存在している.ただし子どもの墓は中ほどに標識があった.各遺構は唐代の都市建築の特色を残しているのだそうだ.
高昌故城に比べて残存状態が若干良いそうであるが,見た感じでは概ね土塁のような印象を受けてしまう.
下は,交河故城の写真
海抜以下の低地で灼熱のトルファンにおいて昔から果実や野菜の栽培ができたのはカレーズ,地下水道,の発達があったからであろう.資料館の看板では2000年の歴史があるそうである.地下に水道を堀り,天山山脈の雪融け水を延々とトルファンまで引いてきているわけだ.
カレーズはイランなど砂漠地方に共通して見られる重要な土木技術で,一部サイフォンの原理を用い,高いところを乗り越える部分もあるようである.
カレーズは水源からトルファンまで導水するための地下水路と,工事やメンテナンスのための縦孔群から成るようだ.縦穴群の間隔は20~30m,地下水路の長さはトルファン地域のカレーズでは数kmから10数kmが普通のようである.縦穴の総数は1000ヶ所以上にも及び,カレーズの総延長は天山の麓から3,000kmにも及ぶそうである.資料館にはトンネル工事の様子を描いた絵が掲げてあった.大変だったであろうし,今もメンテナンスは手がかかるであろう.
カレーズ資料館の近くにはセールス担当ウイグル嬢が待ち構えていたり,干しぶどうショップがあったりするが,言わば抱き合わせ販売のようなもので,カレーズと際立った関係がある訳では無かろう.
下は,トルファン市街の写真.
下は,さらにトルファン市街の眺め.