このアルタイ編では,9/17朝アルタイ市のホテルで目覚め,バスで近くの山を訪れドラルト岩刻画を見物,アルタイの街に戻り,市場など歩き,アルタイカザフ民族博物館を訪れる.そしてさらに一泊後の翌9/18朝,西に向け出発し,途中烏孫石人古墳と隕石を見物し,ブルチンに至り昼食となったときの写真を載せました.
新疆ウイグル(中国)のアルタイ(阿勒泰/Altai)の街はマーカー8の辺りに位置している.
ジュンガル盆地の北端,アルタイ山脈の南麓にあり,一層騎馬民族のエリア的色彩を深める.
9/17朝ドラルト岩刻画のある山に向かうためアルタイ市のホテルを出発した.程なく郊外の村や畑を通過する.十分な水が得られるのであろう,ポプラが茂り,畑にはトウモロコシやヒマワリが実っている.
この辺りの農家は,壁や塀を尽くピンクに染めている.この辺り一帯この色で統一されているが,協定とか条例があるのであろうか?
それと,家畜囲いだけでなく,畑もこのピンク塀で囲っているのが気になる.セキュリティ上であろうか?多分そうだと思う.
背後の盛り土の小山に柱があるのは漢族のお墓の形式だそうだ.アルタイはカザフ族が多数を占めるのだが,漢族も相当住んでいるようだ.何しろ昔から匈奴や突厥と戦う兵士として来たり,屯田兵として定住したり,はたまた近年の中国政府の移住政策で移住した人たちがいるであろう.
手前にいるのは駆けているラクダだ.結構本気で駆けているようで速い.後ろで追い立てている人も見当たらないので,ラクダ同士の遊びなのであろう.
45分ほど走り,ドラルト岩刻画(多拉特岩画)の標識のある場所に到着した.岩刻画は山のあちこちにあるということで,斜面を登り歩き廻る.ちょっとしたハイキングだ.
既に花のシーズンは終わっているがまだ残っている花も幾らか見られる.
最初の岩はガイドWさん記憶の場所に案内してもらい,後は個人々々好き勝手に探しまわった.さほどいっぱいある訳でなく,ある程度面積のある平面的な岩の面に描かれている.描かれた絵にはアイベックスのような野生動物や犬などの家畜があった.私は見付けられなかったが,人物画などもあるそうだ.
描いた人は2000~3000年前の狩猟民族ではないかとされ,自然崇拝の宗教的意図があったと見られるそうだ.中には子供の落書きのようなものも混じってないのかな~と見渡したが,見た範囲ではあちこちの絵はどれも似た作風で,寧ろ同じ人の作品かな~と思えなくもなかった.
見物が終わってバスに戻るとドライバCさんがスイカを出してくれた.バスのトランクに入れてあったスイカが振動でうまい具合に(?)割れたので,ナイフで切り分けてくれたそうだ.瓜も美味しいが,スイカもまた美味しい.自然の中で適度な温度,これ以上望めようか.
下は,ドラルト岩刻画関係の写真
ドラルト岩刻画を見て街に戻り昼食後,ホテル金都酒店に引き上げ休憩した.アルタイ山はモンゴル語で『金山』の意味だそうで,その麓にある街がアルタイ市=金都ということなのであろう.その金都にある金都酒店の部屋は広く,PCも備えなかなかいいホテルだが,夜は少し寒い.もう一つのベッドの毛布を引っ剥がして掛けて寝ると調度良かった.
ロビーに石を皿に盛った偽料理見本は,まあ良くできていて感心した.
アルタイ山脈の襞であろう,小さな岩山が街の脇まで迫っている.ただ街の中はフラットで坂はないようだ.冬になれば雪を被り,きれいなのではなかろうか.いや,大雪が降るらしいのできれいどころの話では済まないか....
いつも同じことを言うが中国の道路は実に立派で,アルタイ市もやはりそうである.本道の脇は並木に花が植えられ,広い歩道がある.日本の道路は狭くて,並木を植えようにもスペースがないのが多いが,ここでは最初から並木の幅を見込んで道路が建設されている.
いよいよ明後日は中秋節だ.道端では臨時の露店が出され,月餅売りの追い込みに余念がない.パッケージに『財福双(の難しい字体)全』と記されているが,多分財も福も両者揃ってくるように,といった意味ではなかろうか.福はともかく,贈り物に財のつく言葉が使われる(好まれる)のはいかにも中国だ.
この日は金橋大酒店で昼食だった.写真は半ば食べてしまった後だがとても美味しかった.またも食べ過ぎてしまった.
切手か何か欲しい人がいたので郵便局に立ち寄ってみた.残念ながら博物館も長いお昼休みがあったように,郵便局もお昼休みがあり,切手は買えなかった.ただ大半の業務は休んで人影がないが,小荷物発送の一部は受け付けるようで,僅かな係員と客がいた.まあ,南欧のシェスタってのと同じか.
下は,アルタイの街での写真
アルタイの市場に行ってみた.さすがここは自由経済エリアで,お椀を片手に商売に励んでいる人も見える.果物,野菜から衣類,雑貨,食肉....と普通の市場と同じだ.『この先は生きたニワトリが売られているので行かないで下さい』とガイドWさんの案内を受ける.新疆ではまだ発生が認められないのだが,耐性の無さそうな日本人観光客の鳥インフルエンザ感染に気を配ってくれているのだ.
レストランでも事前に鳥料理を出さないように指示しているようで,一度ウエイトレスが,事前の指示に反して鳥肉の入った料理をテーブルに置いた時,Wさんは慌てて持ち去るように言い,ウエイトレスがブツブツしていたことがあった.
このおばさんはナンやパンを売る仕事だ.ただし,買い手がいないときは刺繍に励んでいる.大層働き者ですね.スカーフを被っているのでイスラムのカザフ族か?白いキャップの客は回族であろう.カザフ族女性の嗜みの一つに刺繍はあるようだが.
↑ナンを売る | ↑刺繍に励む |
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下は,アルタイのバザールでの写真
アルタイカザフ民族博物館に入った.アルタイカザフ族の遺物や生活や文化を展示している.ちゃんと学芸員が付いて,説明してくれる.で,その1つ目,こんな大きな鹿(の類),見たことがない.また,鹿が家畜となるのは分かるが,そりを引くのは想像を超える.動物の扱いに長けたカザフ族はこんなことまでやる(やらせる)のですな~驚いた.
ところでそりは雪の上だけでなく,雪のない草原の草の上でも滑らせることができると,これは同行の方に教えてもらった.これにもまたびっくりしてしまった.
これはある洞窟で見つかった壁画の複製だそうだ.下側の動物画はドラルト岩刻画とタッチが似ていよう.上のパラパラ漫画のような人物列であるが,これがスキーの動作を表現したものなのだそうだ.炭素年代測定法でおよそ1万年前くらいに描かれたものと見られ,それまで最も古い発祥とされていたスカンジナビアのスキーより古いことが判ったそうだ.
なお,傍らに木製のスキーが置いてあったが,それは然程古いものではなく,やはりこの絵の判読が決め手となっているそうだ.ノルディックスキーでハンティングしたのでしょうか?遊びより先ず食料確保,しかも冬は植物性食料は皆無であろうから,多分そうではなかろうか....
『年代:鉄時代』と記されている.鉄器時代とは書かれてないし,何よりも錆がなく真新しい.鉄器には大変興味を持っているので,周囲にもっと詳しい説明を探したのだが.....見当たらない.近くに近代の鍛冶屋作業模型が展示されていたし,多分鉄時代は比較的最近の時代を指すのではなかろうか.....これに関してははっきりさせることができず残念だ.
写真パネルで展示された腸詰め製作工程の正に詰め作業の様子.随分大きな腸なので,羊ではないし,イスラムなのでもち論豚でもないし....きっと馬の腸であろう.カザフ族は主にお祭とかお祝い事とかではしばしば馬肉ソーセージを食すので,それであろう.
博物館には他にももっともっと展示されていたのだが,打ち切りにしておこう.
下は,アルタイカザフ民族博物館での写真
私建は当初,アルタイカザフ民族博物館ではなくこのアルタイ博物館を見物する予定であった.実際玄関を潜り,Wさんが切符を買いに行ったのだが.....現在,改修工事中で客を入れない,と断念.予めそれを知らせる貼り紙など一切ないし,どうなってんだ~と思うが,そこはやはりちょっと違う考えの国のようだ.
で,アルタイ博物館と同等,いやそれ以上の博物館がありますという添乗Kさんの判断でアルタイカザフ民族博物館となったのだった.アルタイ周辺には似たような博物館が数館あるらしい,と聞いたがそれをまとめて見れるようにしたら,と感じるが....不思議だ.
さて,アルタイでさらに一泊し,翌9/18朝,国道217号線を西に向け出発した.暫く走り,チェムルチェク(地名)烏孫石人古墳と隕石のある場所に到着した.写真の石人は隕石で彫られた烏孫人男性像で,周りにやはり隕石が6個並んでいる.この数は生前殺した敵の人数だそうだ.また,普通の人は普通の石(御影石など)で彫った石人が墓として作られるのだが,隕石は貴重で彫るのも手がかかり,部族の英雄や高位の人物用に限定されるそうだ.
烏孫人は初期には匈奴の配下にあったが,次第に力を蓄え紀元前161年ころからイシククル湖辺りを中心にした大月氏を破って国を打ち立てたそうである.一方この頃は漢(前漢)の時代であり,匈奴とは切り離し,烏孫には何度となく懐柔政策を打って出たそうだ.公主を政略結婚させるなどである.しかし匈奴とは逆に敵対関係が激しくなるなど悪化はしてきたそうだ.
それでも漢との関係は,後漢,北魏の時代まで同盟し国を維持してきた.ただ北魏の5世紀頃になると,烏孫国は周囲の国に侵され,やがて消滅してしまったということだ.
石人の近くに『天外来客』と気の利いた言葉の掲げられた隕石の山があった.黒ずんだ隕石を叩くと鐘のように相当甲高く『カ~ン』と鳴り響く.鉄(Fe)とニッケル(Ni)が多く含まれているのだそうだ.普通の石とは随分違うことに大いに驚いた.日本では博物館行きで,叩けば当然傷つく(実際凹んでいる)のだが,中国政府はかなり鷹揚だね,との評価が漏れる.
添乗Kさんによれば,烏孫や後世の部族には『流星説話』が伝わるそうだ.天は強大なゲルで覆われ,その上に住む神様は時々人間界を覗くためにゲルの裾を捲り上げる.そこへ天から流星(隕石)を地上に降らせ,人間の願い事を聞く.そしてうまくこのタイミングで願いを掛ければ叶えられる,ということだ(願掛け部分に関しては日本にもあるかな?).また落ちた隕石はとても重く,帯電しており(ビリっときたのか?),聖物として扱われた.比較的隕石の降る地方なのではあろうが,隕石の石人が高貴な人物に限定されたのは頷ける.
隕石の近くに展望台があった.頂部には木枠に隕石をシンボルとして載せてあった.
ここから上記写真の集積隕石を眺めると,ちょっと不自然に堆積している様子が見て取れる.小さな石は周囲から集めてきたものだそうだ.(←余計なことのように思うが)
また大きな石は地上へのハードランディングで割れた状態のようで,これは動かすべきでないだろう.これだけの塊が猛スピードでぶつかるときの様子はどんなでしょう?質量は小さいが速度が凄い(つまり運動量mvは大)ので衝撃が大きく,近所の人々はさぞかし驚いたことでしょうね.
周囲を展望すると,広い平原に村が見える.畑があり,草原に家畜も見える.畑作と家畜を生業とする人たちのエリアなのであろう.
こちらは左が男性で,右はその奥様という古墳.肉眼では凹凸が浅く見難いが,人相やヘアスタイル,手に携えたものなどから判別できるそうだ.やはり隕石でできていて,最初の石人墓よりたくさんの隕石で点々と囲まれているが,一部は持ち去られているようだ.つまり生前やっつけた敵の数は相当多く,将校クラス,或いは王族だったのではと見られるようだ.
なお石人の顔は,これに限らず必ず東向きに置かれ,周りの石は,丁度指輪の宝石を石人とすれば,リングの上に並べるが如くに配置されている.これが当時の古墳形式というわけだ.
下は,烏孫石人と隕石の写真
烏孫古墳を離れ,少し行くと荒れ地に大きな墓地があった.必ず門が設けてある.全般にかなり立派で大きい.埋葬は他ページに記したように顔をメッカの方向に向けて葬るが,門も一定の方向に向いている.ガイドWさんの解説で,石人と同じように東向きだったか.....かな?う~ん,よく思い出せない.
犬を連れた羊飼いは外国でも見かけるが,犬連れのカウボーイは初めてだ.カッコいい.牧羊犬の働きも実に見応えのあるものだが,この写真の茶犬の働きも素晴らしい.カウボーイとのコラボレーションで牛の後ろや横から追い立てて,牛の移動をコントロールする.羊と違って相手が大きいし,たまに蹴飛ばされそうになりながら健気に走り回っている.いや~見事なもんだ.
バスは西行きを継続した.道は良く快適だ.道の周りには,強風を和らげるための防風林が多重に植えられているところもある.また将来の道路拡張に備えるためか,防風林が道路から離して設けられているところもある.
やがてブルチン(布爾津)の街に到着した.街には新しいホテルがいっぱい見える.リゾートホテルで夏には大勢の客が来て滞在するそうだ.ただ冬は寒く雪も多いので,客はほぼ途絶え,かなりのホテルは閉鎖し,従業員はその間休みだそうだ.そんな訳で宿泊料金は当然高くなるそうだ.
私達はブルチンのホテル友誼峰大酒店四星楼レストランで昼食となった.友誼峰はアルタイ山脈の新疆では最も高い峰で4374mだが,残念ながらここからは望めなかった.よく晴れていれば見えるのであろうか?なお,アルタイ山脈の最高峰は友誼峰の少し北西のフィティン峰だが,モンゴルとロシア国境に位置するようだ.
四星楼レストランはやはり美味しく,身の締まった魚料理も好評だった.近くのアルキス川の冷たい流れに棲むビャンユ(扁魚)という魚だそうだ.とても珍しいことに近くには釣具屋さんが見えたが,想像するに夏のリゾート客が釣りを楽しむのであろう.
下は,ブルチン辺りでの写真