パリコン(巴里坤)Balikun

このパリコン編では,パリコンで目覚めた9/15朝,近くの大河故城に出かけて見物,その後西に向かいパリコン湖を経て,烽火台を眺め,木塁(ムルイ)に来て昼食をとるまでの写真を載せました.


パリコン付近のGoogleマップ

パリコン(巴里坤)は天山山脈の北側マーカー5の辺りに位置している.

ハミで始まった『天山北路』を行くと,最初の目立った街がこのパリコンであろう.

大河故城Ancient City of Dahe Gucheng

大河故城

大河故城

9/15朝,この日は長距離移動のため,早い時間に大河故城に出掛けた.7時半と,新疆時間ではまだ早過ぎるため,管理人が未到着でゲートの隙間から無理やり入場した.

大河故城は唐代の屯田兵のための要塞址で,大河鎮という村にあるため大河故城の名となっているそうだ.近くに大河は見えないが,春先には雪解け水が川となって流れるところもあるらしい(正確には不明).

現在は版築工法(*)で築かれ,周囲180m×210m,高さが10mあったという四角い城壁だけが残こされている.

*版築を辞書(広辞苑第四版)で見ると以下のように述べられている.

土壁や土壇の築造法で,板でわくを作り,土をその中に盛り,一層ずつ杵(きね)でつき固めるもの.古く中国の竜山文化に始まり現在まで存続.

唐の時代にこの辺りを攻めてくる敵は突厥とかのようであるが,崩れた土壁からいろいろ想起するのは知識が不十分なだけに容易ではない.


大河故城の上を雁が渡っていく

大河故城の上を雁が渡っていく

大河故城の土壁を歩いていると,上空を雁(がん/かり)が渡っていった.先頭は逆V字型であるが雁行と称する形の一つなのであろう.雁の向うの天山山脈に朝日が当たってきて美しい.

暫くすると城址管理人がやって来て,ゲートを開けてくれたので,ちゃんと門外に出ることができた.ガイドWさんにはしっかり入場料を支払わせたようだ.


大河故城近く干し草を運ぶ

干し草を運ぶ

一旦蒲類海酒店に引き上げた.途中の野原ではラクダが草の朝食を始めていた.今はまだ何とか野原に草も残るがあと少しするとそれも絶えるのであろう.

ということで,冬に備える干し草を蓄えるのは必須で,畑から家の庭に運ぶトラクターも動き出している.朝からとても忙しそうだ.


蒲類海酒店に戻り朝食

蒲類海酒店に戻り朝食

調理人も出勤し,朝食が用意されたホテルレストランに戻ってきた.私達以外の客は皆中国の人たちのようだ.一人で,ビジネスマン風の人たちが多い.想像するにウルムチ,いや上海辺りからの人かな~それにしてはちょっと洗練されてないかな~とか勝手にいろいろ.....

因みに蒲類海酒店の蒲類海とはこれから向かうパリコン湖の古来の呼称だそうで,読み方こそ難しいものの由緒ある名前だ.


下は,大河故城辺りでの写真

大河故城辺りでの写真
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パリコン湖Lake Balikun

パリコンの街

パリコンの街を出る

蒲類海酒店で朝食後,私達のバスは再び西へと向かった.パリコンの街は小さな街ではあるがそれでも写真のように4車線もあって通りは実に立派だ.

天山山脈(若しくはその支脈)は間近に見えるが,なかなか気の利いた光景だ.


パリコンの鶴の群れ

鶴の群れ

パリコンの街を出て暫く走ると畑作地帯に至る.ここはどうやら麦の刈り入れ後のようである.少し遠いが鶴らしき大型鳥が群れを成しているのが見えて,バスを止めてくれた.う~ん,きっと鶴に違いなかろう....ということにまとまった.

このときなぜか私達の脇に数頭のロバが来てくれた.ロバは南疆と比べると稀であるし,ロバ=馬鹿と世界的にも知られている(気の毒なことだ)が,こううして眺めるととても愛らしい.ロバをばかにするのは止めましょうね.


パリコン湖とカザフ族のゲル

パリコン湖とカザフ族のゲル

ちょっと遠いが左側向こうに見えるのがパリコン湖.ここは標高1585mにあって,東西12km,南北20kmという大きな湖で,昔は淡水湖であったのだが,水が蒸発し,塩分が残り塩水湖に変わったそうだ.ふ~ん,そんなこと有るんだ.....なお,そんな昔は『蒲類海』(泊まっていたホテルと同名)と呼ばれていたそうだ.中国語で,湖はしばしば海と呼ばれるるが,どういう違いか?大きい湖が海か?

手前にはカザフ族のゲルが見える.周りに柵があるので定住用のものであろうか?あるいは冬専用の住まいであろうか?この辺りはカザフ族自治領域であるそうだが,中国政府は例えば学校教育に支障の出やすい遊牧生活から定住に切り替えるように推進しているそうで,そうした政策に則ったものかも知れない.


下は,パリコン湖辺りでの写真.

パリコン湖辺りでの写真
パリコン湖辺りでの写真 パリコン湖辺りでの写真 パリコン湖辺りでの写真 パリコン湖辺りでの写真 パリコン湖辺りでの写真 パリコン湖辺りでの写真

烽火台smoke signal tower

道が悪くなる

道が悪くなる

パリコン湖先辺りから未舗装のガタガタ道になった.ガタガタはまあいいのだが,巻き上げる埃が尋常ではない.おまけにセメント工場のようなものもあって煙を撒いている.しばし辛抱だ.

高速道路ではSAがあるのだが,外れるとそれがなく,お手洗いがなくなる(給油で立ち寄るGSは汚い場合が多い)ので必然的に屋外で.....となる.またしてもマナーの悪い日本人の姿を中国の皆さんに晒してしまった.


烽火台は版築工法で修復中

烽火台は版築工法で修復中

ここら辺は旧シルクロードにほぼ沿うそうで,所々で烽火台(別名狼煙台)が見える.漢の時代から清の時代まで,匈奴や突厥などとの戦いの信号伝達の狼煙(のろし)を上げるための台で,所定間隔(2.5kmくらい)毎に建設されたそうだ.当時はスマホどころか普通のケータイも無かったので情報伝達には苦労したわけだ.

私達は修復工事中の一つに立ち寄り,見せてもらった.傍で見ると意外に大きく,高い.今は崩れているが階段も設けてあるようだ.欠けた下部は細い竹枠で囲い,捏ねた土を入れ,上から押し固める『版築工法』で修復作業中であった.捏ねた土に藁など混ぜることはないそうで,意外に思った.滅多に機会のない版築工法をこの目で見られて実にラッキーだ.

昼間は黒い煙の上がる狼の乾燥糞を焚き(→これが狼煙の語源),夜間は白い煙の出る木材を燃やしたそうである.


道は一層凄くなる

道は一層凄くなる

烽火台の先辺りからは,ところどころ道は一層凄くなった.リアルシルクロードを馬車の代わりにバスで体験,と云ったところか.巻き上げる埃は一寸先(ISO準拠では1m先^^)も見えなくする.

一旦出来上がった立派な道路を部分閉鎖し,脇の荒れ地(幾らでも有る)を臨時道路に充て,閉鎖部分を再工事しているケースが多いようだ.再工事は道路下に,新たにトンネルを付加する工事がよく見られる.春先の雪解け水が道路の山側にたまり,洪水となるのを防ぐためという.付随的に野生動物が道路を越えるのを助ける効果もあるかも知れない(例えば青蔵鉄道の橋梁に関しては,中国政府は動物保護を強調している)


下は,烽火台辺りでの写真

烽火台辺りでの写真
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木塁Mori

ビニールハウス群

ビニールハウス群

暫く行くと畑作地帯に入った.樹木もあるし,必要な降雨量が得られるのであろう.その地帯に写真のようなビニールハウス(温室)群があった.ハウス南面は透明シートで,北面は不透明な建材で作られている.野菜が栽培されているそうだが,ハウスの数は膨大で,これほど大量の作物を一体どこに出荷するのだろうか?やはりウルムチなど大消費地かな~


木塁の街に入る

木塁の街に入る

やがて木塁(ムーレイ)と呼ばれる小さな街に入ってきた.既に4:20であるが,ここでランチの予定だ.天山北路の街の間隔は長く,やはりシルクロードの旅を改めて思い起こさせてくれる.


順福飯店で中華のごちそう

順福飯店で中華のごちそう

いかにも漢風の名前,順福飯店で中華のランチを頂戴した.表から眺める限り,まあ大したことない田舎料理...くらいに見えないこともないが,実際は結構美味しかった.疑ったりして済みませんでした.

ところで並ぶ店舗の建て方だが,一階が半地下で,ヨーロッパの都市でよく見られる形式だ.今回の旅行では,ここだけでなく北疆の街あちこちで見かけた.半地下,半二階どちらも階段なしで入れないのはちょっと....とは思う(←いろいろ拘るね).


下は,木塁辺りでの写真

木塁辺りでの写真
木塁辺りでの写真 木塁辺りでの写真 木塁辺りでの写真 木塁辺りでの写真 木塁辺りでの写真 木塁辺りでの写真 木塁辺りでの写真

さて,木塁の後はまだ続く.この日はこれからジムサルまで行くのだ.



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