このハミ編では,ピチャンを出て,ハミに至り,ハミ王墓とハミ博物館を見物.そして夕方天山山脈北側のパリコンまで行ったときの写真を載せました.
ハミはマーカー4の辺りに位置している.
東西に走る天山山脈東端にあって,新疆ウイグルへの玄関口,甘粛省を通る『河西回廊』からここへと連なっている.シルクロードはハミで二手に分岐し,一方は天山山脈北側を通る『天山北路』,もう一方は南側に行く『天山南路』へと連なっている.
9/14朝,前日の検問公安の指示通り,バスでピチャンのホテルを出て,一目散でハミへと向かった.ピチャンの街外れには平屋の簡素なお店の並ぶ一画がある.自動車修理関連,簡易食堂,超市(スーパーマーケットのことだがコンビニクラス)....などが多い.
こうした集積店舗はピチャンの街外れだけでなく,どこの都市の街外れでも必ず見られる.これは想像だが,テナント料が嵩まないであろうこうした店舗から始めて,やがて街の真ん中に事業を拡張していくのかな~
水源である天山山脈の麓から小高いマウンドが列を成して南に続いている.カレーズの縦穴で,20~30mの間隔で,下の水路(深いところは100mもあるそうだ)まで掘られているそうだ.縦穴は水路掘りやスケール取りのメンテナンスのパイロット,土砂取り出し穴として使われる.
この辺一帯でカレーズの総延長は3000kmに及ぶそうだが,乾燥著しい当地にあっては文字通り生命線であろう.昔はシールド掘削機などなかったので全て人力に頼った訳で,それはそれは大変だったようだ.
砂漠には所定間隔毎に携帯電話の無線中継アンテナや地下埋設有線(光ケーブル)中継所(見えないが多分)などの通信回線設備が設けられている.どこも大きなソーラーセルを備え,設備電力の全量を賄っているように見える.
↑無線中継アンテナ | ↑地下埋設有線(光)中継所(多分) |
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右のスローガン『愛護通信設施』の『設施』は,日本語の施設と同意であろうが,逆並びであるところが面白い.なお『護』は簡体字が使われている.
ピチャンからハミに向かう街道は概ね砂漠(ゴビ灘)を走る.単純極まるかというとそうでもない.小さなオアシスでは抜かりなくブドウ畑が営まれ,天山山脈が支脈の形態を変えながら,さながら動画のようにバスの車窓に映し出されていく.
午後1時半,いよいよ天山北路のスタート点ハミ(哈密)の街に入ってきた.初めて見る現在のハミは近代的で,建設クレーンが幾つか見えて,『経済成長中』を感じさせる.なおハミに至る前の地点は甘粛省を通る河西回廊である.
ところで,以前河西回廊の酒泉で訪れた鐘鼓楼西門に架かる『西達伊吾』は,西に行けば伊吾(ウイグルのハミ)に達すると云う意味だと聞いていた.つまり伊吾とハミは同じと思うが,現在行政的には伊吾はハミの一部のエリアを指すそうである.
頃合いであるので先ずは加格達レストランにて中華料理のランチで腹を満たす.さて次の予定はハミ王墓,ハミ博物館なのであるが,博物館のお昼休みが12:30~16:30ということで,その前にレストラン近辺の散歩で時間潰し.
この近くには電力関連の施設がいっぱいあった.やれ,電力公社,電力賓館,電力公安,...と,昔盛んだった全部丸抱え国営企業のような形態を維持しているように見える.
ところで異常に長い博物館のお昼休みは一体何なんだ?お昼休みで閉館ってこと自体も異様なような...あのシェスタの国のプラド美術館だって開いているし....なお,ここだけでなく新疆では他の博物館や郵便局でも長いお昼休み閉館,半閉館はあった.他国のことなので文句の言える筋合いではないのだが.....つい言ってしまった.
ハミ王国は,中原を抑えて打ち立てた清朝(1644年~1912年)の時代に,この新疆東部ハミ地方を,主にウイグル族の統治を担った王国で,9代の王が1700年代初頭から1930年代までの223年間に渡り支配したそうだ.王国と言われるが,清の対等な同盟国という訳ではなく,属国的立場であったのであろう.
その歴代の王の中で第7代,第8代と家族の棺が,写真右手のドームを載せたイスラム様式の四角い王廟に祀られているという.
また写真左側のウイグル風八角形屋根と円形モンゴルゲル風デザイン,漢風の屋根,そして失念したがもう1つの民族要素,合わせて4民族要素を採り入れた2棟から成る東屋風廟堂には,目の不自由だった第9代王と一族,重臣が眠っているという.さらに近くの墓所には王室関係者が埋葬されたそうだ.
外壁は彩釉タイルで,内側は白地蘭花タイルで覆われている.ウイグル人専属ガイドのクリさんが説明してくれたのだが,地上のこの白い石棺ではなく,遺体は頭を北に,顔は右向きに傾げメッカの方向を向き,棺の下に埋葬されているそうだ.この写真を撮ったカメラの位置がメッカの方向ということになろう.石棺の上にはプレートが嵌められ,ウイグル語,中国語,日本語の順にでそれぞれ『第8代ウラムムハンメテの墓』と記されている(日本語以外もその筈です).ムハンメテ(モハメド)の名がイスラム教徒であることを示している.
なお新疆ウイグルではこうした案内板やお店の看板などの表記は,上からウイグル語,中国語,外国語の順序で記す約束事(法令とか条例)があるそうだ.この廟堂で日本語表記があるのは,外国人では日本人の訪問者が比較的多く,台湾や韓国の観光客数に勝るから,とのことだった.
廟堂の向かいに初代ハミ王によって創建され,第4代王ユースフが増築したと伝えられるエイティガールモスク(Id Kah Mosque)があった.同名のモスクがカシュガルにあり,しかも有名だ.内部は108本(仏教のように聞こえるが...偶然かな?)の松の木の柱に支えられた5000人収容の広い礼拝堂(撮影禁止)になっており,カシュガルの同名モスクより広いそうだ.エイティガールとは『祭日の活動の場所』といった意味らしいが,その名のように現在は金曜礼拝を含めて日常の礼拝には用いられず,専らイスラムの特別の祭礼に使われているそうだ.
青と黄色タイルで飾られミナレットも含め,外観は落ち着いた色あいだ.また広い礼拝堂内部も,この辺りではあまり採れない(と思われる)松の木柱に驚き,アラベスク模様の浮き彫りが施されているが,全般に質素でさっぱりした雰囲気だった.
エイティガールモスクの裏手に歴代の王の肖像画や王宮で用いられた品々が展示されたハミ王歴史陳列館があった.遺品は,よく見られるヨーロッパ辺りのゴージャスな宮殿の遺品,例えば巨大なダイヤモンドと云ったイメージのものはあまり見当たらず,一豪族の生活を今に伝えるような印象だ.なので,きっと王国内の人心の乖離もあまり無かったのでは....と安心感を抱かせる.
写真は第7代モハメドビシル王を描いたもので,歴代の王の中では最も知られている(清朝政府から信頼されていた)王だそうだ.1868年,清朝政府はビシルに和碩親王の名を送り,上記陵墓造営のための多額の費用と歳月を費やしたそうである.
この絵は何時の時代に描かれたのか不明だが,装束も満族風で,背後に『清』の旗がしっかり描かれているのを見て,改めて属国扱い,前線の突撃隊の役割,...に甘んじざるを得なかった....のかと思わずにはいられない.
また現在の新疆には満族がそれなりに住んでいるが,多くは清の時代に防人として送リ込まれた人たちの末裔になるそうだ.
なお,前ページで記した有名なハミ瓜であるが,最上品は当時ハミ王国のテリトリーであったピチャン産で,これを清国乾隆帝(在位1735年~1796年)に献上し,帝が『ハミの瓜は素晴らしい』と述べたことから,ハミ瓜のブランドが確立したという.当時はまだ中国南方航空も中国国際航空も飛んでなかったし,クール宅急便もなかったでしょうから,馬車で運んだのでしょうか?
下は,ハミ王墓での写真
上記ハミ王墓近くにあり,1988年創建され,2009年現位置に移動したそうだ.上部円形部は青銅器鼎に似せてあり,中国文化と西方,北方文化を融合したハミ文化の象徴....だそうだ(ちょっと連想が難しいが).
きれいな館内部は自然,地質陳列庁,古代文明展庁,文化庁などに分けられて,恐竜時代から清代まで展示されている.英語も併記されなかなか見学し易い.
ハミ博物館のシンボルの元となっているのがこの前漢時代の『羊形柄銅鏡』.前漢は紀元前206年~紀元8年なので,相当古い.我が国古墳でよく出土する銅鏡(中国製が多いようだが)は3世紀頃のものが多いようだが,それらより昔ということになろう.
柄の羊は立体的で大きな角だ.このように大きな角の野生種か或いはアート的にデフォルメしたものであろうか?特に口周りや短躯に特徴あるこの体型は子馬のようで実に可愛らしい.一方ハミ博物館のシンボルはオリジナルと著しくかけ離れ,せっかくの出土品の良さを台無しにしているように思えてならない.
話は逸れるが,中国国家旅遊局が雷台漢墓出土『馬超龍雀』(銅奔馬)を小細工せず,そのまま国レベルのシンボルに採用したのはやはり大したもんだと,ついここの担当局と較べてしまう.
7000年ほど前に遡る美しい石器のコーナーに続いて青銅器コーナーがあった.色々な青銅器に混じって鉄器も展示され,この写真右上2点は鉄刀だ.青銅器に比べるとFeであるので錆はかなり進行している.時代は『早期鉄器時代』と記されている.青銅器と一緒に並べてあるので,青銅器時代に重なる時代なのであろうが,中国で『早期鉄器時代』は紀元前770~紀元前400年春秋時代のこととされているようだ.ヒッタイトの鉄精錬はこれより少し古い(紀元前800くらいから)らしいが,それでも相当古い時代から精錬し,鉄製品を作り上げたもので,感激した.
ここは新疆での出土品であるが,同行者で中国史に詳しいOさんによれば,中国全土での鉄器使用はヒッタイトより古いという説もあるそうだ.それもぜひ見てみたいものだと思う.
羽毛のある肉食系恐竜の一種のようだ.この化石自体はとても小型であるが,全体の風貌が恐竜の先祖を感じさせるに十分だ.一億数千年前のものらしいが,あまりに長くて想像できない.新疆もまた他の中国北部同様化石は多く発掘されるそうだ.
これはハミ博物館の余興だ.この近くで産する小石を集めて皿に盛りつけ,各種ウイグル料理に仕立てたものだ.よく出来ている.
下は,ハミ博物館での写真
ハミから進行方向を反転し,主に天山山脈北側を辿りパリコンへと向かった.バスの左側に,高いところには雪を抱く峰が見えることになる.
天山山脈から比較的離れたところはゴビ灘の平原が広がっている.ただ道は山の間の渓谷地帯も多く通過し,ドライバCさんは大変だ.
天山山脈麓の丘陵地帯ではある程度標高があり,草原(パリコン草原)となっている.こうした場所では羊や牛などの放牧が営まれている.一帯は遊牧民であるカザフ族の自治区になっているそうだ.また自然林も育ち,不思議に見えたハミのエイティガールモスクの松柱の存在理由もこれで解けた.松はカラマツの仲間のようである.
途中給油したガソンリンスタンドでは標高2135m(カシオ)を指し,車外に出るとかなり寒く,驚いた.
午後8:45,パリコンの街に入ってきた.シルクロードの時代から大きくは変わっていないのではと想像させるひっそりさだ.北京時間の新疆は9時前でも空に少し明るさが残っている.
ほどなく蒲類海酒店に到着した.ここも新しく,部屋は十分に広い.バスルームの間は例によってシースルーなのはやはり何となく違和感がある.
到着が遅かったので,先ずはホテルレストランで夕食となった.そして期待の名物料理『薄餅羊肉』を出してもらった.羊肉と野菜の炒めものに,餃子の皮のような『薄餅』が入ったもので,まあまあ美味しかった.羊肉は骨付きで,骨が相対的に大きいので私には少し食べにくかった.
下は,パリコンへの写真
さてこうして9/14の日程は終了した.明日朝は近くの大河故城を訪れる予定だ.晴れてくれ.