このジムサル編では,9/14夕刻木塁での昼食後ジムサルへ行き一泊,翌朝9/15北庭都護府の遺跡と西大寺を訪ね,その後ジムサル近隣の風景を眺めつつ次の観光地に向かうときの写真を載せました.
ジムサル(吉木薩爾)はマーカー6の辺りに位置している.
天山山脈北側の麓にあり,かつては防衛上の要衝で,仏教文化上でも大事な土地であったが現在は小さな村の趣き.
木塁で昼食後,まだ明るいが時刻的には夕方,ジムサルへと向かった.概ねこの区間は高速道路が整備されていたので快適に進む.
そしてこの道路周辺は見渡す限りの畑が展開され,小麦やトウモロコシが植えられている.畑の所々に農家が見えると云うことはなく,ひたすら広い畑が続く.驚異的だ.農家は村のような形態で,それなりの戸数がまとまっているようだ.農作業は車やトラクタで出掛けるのであろう.共産化した後で生まれた集団農業の形態を引き継いでいるのであろうか.
そうこうしているうちに,ジムサル(吉木薩爾)出口となり,バスは下りていった.
午後8時前,庭州大酒店に到着し部屋に入った.まあ並みクラスのホテルであろうか.
夕食まで間があるので近所を一巡りして戻ったら暗くなり,ネオンが灯されていた(写真右側).
ホテル近くには北庭商貿城というショッピングモールがあり,その辺り一帯にはまだ人集りが多い.広場や歩道には露店も多く出店し,野菜や果物,乾物といった品々も多く並んでいる.
路地に入ると新疆らしくシシカバブ屋さんや,回族など民族料理の店が並んでいる.
9/19は中秋の名月(中秋節)だそうで,月餅の販売がたけなわだ.中秋の名月に月餅を贈る慣わしは極めて盛んで,親族や知人あちこちに贈り,また貰うということだ.贈答用は見栄えの良い包装代が嵩み,高価になるそうだ.月餅は日本の月見団子同様,中秋の名月のとき以外食べることはあまりないそうだ.ただ空港辺りではよく売っているので皆無と云う訳ではなさそうだが....外国人向けなのかな?
私達は,少し先の19日にガイドWさんに月餅を振る舞ってもらった.中国の家庭では一家でたくさん貰うので,甘いこともあってとても食べきれず,大半は腐ってしまうことが多いそうだ.私には甘すぎることはなく,なかなか美味しく頂戴した.
下は,ジムサルへ行くときの写真
9/16朝庭州大酒店をチェックアウトし,バスで北庭都護府に出かけた.当初前日9/15夕方訪れる予定であったのだが遅くなり,行けず,この日に繰り延べになったのだ.
9:25バスは北庭都護府に到着した.しかしチケットオフィスの係員やカートのドライバなど出勤前で,入れす.ガイドWさんによれば前年まではゲートは無かったそうだ.しかし今回はしっかりしたゲートで,前日の大河故城のように不法にゲートを潜るわけにもいかず暫し待つ.30分後係員が揃い,チケット入手し,入る.
先ず北庭は庭州の北の部分を指す地名で,大まかには現在のジムサル辺り一帯を指すようだ.そして北庭大都護府は唐代,西突厥(中央アジアを支配した民族)と対峙するためにここに設置された行政機関で,管轄範囲は,東は2日前訪れたハミ,西はアラル海(現在はウズベキスタン領),北はエルティシ川からバルハシ湖,南は天山山脈まで,と随分広かったようだ.
702年の設置で,漢族に加え,当地の民族も行政官や軍人としてあたったが,788年吐蕃(チベット族)に攻略されたそうである.比較的短い期間だったわけだ.それにしても西突厥から守る機関が全然違う方向の吐蕃にやられたとは.....吐蕃は西突厥と同盟,共謀し,背後を突いたと云うことか?
ここも大河故城のように版築でできた城壁が残されている.土の壁であるので壊され,攻め入られる可能性も高いが,その分分厚く作られており,短時間では破れないであろう.広い城址跡は電気カートで廻るようになっている.
北庭都護府は内城,外城と称されるエリアに区分され,それぞれの城壁で守られている.日本の城の本丸,二の丸のようなもので,内側にはより偉い人たちが住んでいたのであろう.
なおこのカート乗り場案内図の左側にはこの後見物する西大寺が示されている.
北庭都護府周辺は緑の畑が広がっている.そしてその先には天山山脈がきれいに見える.中央から若干右寄りの双耳峰がボゴダ峰のようだ.
少し前まで,北庭都護府の遺跡内部には畑がいっぱいあったそうだ.ところが近年中国政府は西寺と併せてユネスコ世界遺産に申請しよう(または申請済み)ということになり,農民の畑を取り上げ,外部の土地を新たに配分したのだそうだ.ということで,遺跡内部は現在草ぼうぼうである.
下は,北庭都護府での写真
カートで西大寺にやって来た.この建物は西大寺遺跡(Ruins of a Buddhist temple of the Khoco Uighur period at the ancient city of Beiting)を丸ごとすっぽり覆い,しかも脇に復元仏像や壁画を展示する博物館も付属させている.西安の兵馬俑坑博物館ほど巨大ではないが,覆う方式は同じだ.
正面の看板文字は壁から浮かせて取り付けてあり,酔っ払っている訳でもないのに文字が二重になり,甚だ読み辛い.目を凝らすと『北庭高昌回鶻佛寺遺址博物館』と書いてあるようだ.北庭高昌回鶻佛寺は西大寺の正式名であるようだ.ここで回鶻はウイグル人(の一部)で,高昌はトルファンの三蔵法師が請われて滞在した高昌国のことのようだ.つまりトルファンの高昌国王の建立した,若しくは縁の仏教寺院ということになるのだろうか?いや待てよ,でもトルファンの高昌国王は漢人だったような.....??よく判らない,バンザイだ.
遺址博物館内部にこのような小山があった.小山全体がお寺で,元代末から明代初めに建立されたそうだ.山の少なくとも正面と右面には幾つかの窟が掘られ,仏像や壁画が据えられている.
他の面にもいろいろ有るらしいことは試掘で判っているのだが,十分に技術と体制が整うまで,本格的発掘は待つということだ.確かに高松塚のように発掘後の保全が難しくなることはよくある.
仏像は敦煌莫高窟とかと同じように,木骨と藁の上に土を被せた塑像で,顔料で彩色されている.首が取れているのが多いが,イスラムの反偶像崇拝や文化大革命によるものであるのは,南疆の仏教遺跡と同じであろう.
これは博物館に展示された複製画で,本物もちゃんとあり,見えるのだが,遠くなので見辛い.複製は間近に見えるメリットがある.
で,この画は高昌回鶻王国皇太子のパレードだったかな?主人公もお付のものも,皆恰幅よいのが印象的だ.
また改めて本物と比較すると,照明の違いはあるものの,さして違わずよく出来ていると思う.
こちらはやはり博物館に展示された複製された文殊菩薩像.ガイドWさんによれば,言い方は違うが『三人寄れば文殊の知恵』に相当する中国の言葉があるそうだ.脚の組み方は文殊菩薩特有のものだそうであるが,その理由は思い出せない....
下は,西大寺での写真
この辺りのトマトは大変美味しいとして知られ,多くはトマトジャムに加工されるそうだ.枯れて摘み取りを待つヒマワリは主にオイルが絞られるという.コーリャンははっきり解らなかったが,発酵させお酒になるのでは....という話を聞いた.ばかに広い畑に同じ作物が這っている光景は雄大だ.