このイーニン編では恵遠故城に来て鐘鼓楼に上り,イリ河の伊犁大橋を歩いて渡り,イーニンの街でイスラム料理やしゃぶしゃぶを味わい,烏孫古墳や昭蘇石人を訪ね,汗血馬の里で馬を眺めたときの写真を載せました.
イーニン(伊寧)はマーカー14の辺りに位置している.
天山山脈を挟んでセリム湖の反対側になるが,やはり天山北路のウイグル側西端近くの大きな街で,間もなくカザフスタンへの入り口となっている.
恵遠故城は清代に,イリ(伊犁)地方に建設された複数の城の中の1つだそうだ.故城で残されたものは少なく,その代表がこの写真の,頑丈そうな土塁の上に築かれた三層鐘鼓楼だそうだ.当初1763年,清の乾隆帝の時代イリ河畔に建てられたが,水害に遭いこの場所に再建されたそうだ.鐘鼓楼に上ると漢様式の屋根や,木製の芯を漆喰で固めた柱など興味深い.
この地はシルクロード時代もカザフスタンやキルギスなどに通じる重要路にあったであろうが,清の時代も中央アジアや帝政ロシアへの重要ルートでまた防衛線上にあったようだ.実際旧城は1871年帝政ロシアの侵略で倒壊し,数年後奪回した経緯があるそうだ.なお鐘は残っていないが,太鼓は内部に保管されていた.
4本あったという故城に続く大通りの一つはこの通りであるようだ.先に見える城門は昔のままでなく再建されたものかも知れないが,詳細は不明.
清代の恵遠故城には新彊の最高軍政長官である伊梨将軍が駐屯したそうで,その重要さを改めて知る.
大して観光客が来る場所ではないが鐘鼓楼の周りは屋台の飲食店が並んでいる.場所柄シシカバブなどだ.観光客ではなく,地元の人が日常のお食事場所として使っているようだ.
恵遠故城の観光が済んだので,ここを出てイリ河に向かった.またまた道端ではトウモロコシが広げられている.ポプラ並木にトウモロコシはいいとり合わせだ.
下は,恵遠故城での写真
鐘鼓楼の近くに資料館(博物館)があった.ガイドWさんに訊くと,『いや~あれは最近できた建物で価値がないですよ』と言われたのだが,そうなんだろうか.....?
イリ河は恵遠故城から遠くはなかった.イリ河畔まで来ると大きな建物もある.ここはイーニン市の範囲になるのだろうか?ところで,よくごちゃごちゃになるのだが,イリは地域の名前,イーニンはその中の市の名前だそうだ.
茶色に濁ったイリ河が流れ,イリ(伊犁)大橋が架かっている.イリ河は天山山脈から流れ出て,ここイーニンを通り,カザフスタンのバルハシ湖に注ぐそうだ.黄河や長江など中国の殆どの河が普通東の太平洋側に注ぐのに対して,西向きに流れるのは珍しいそうだ.
ところでバルハシ湖もイリ河など流れこむが,出る流れはなく東半分は塩湖で西半分は淡水という面白い湖だそうだ.まあ,パリコン湖といい,カナス湖といい,どうやら流れ出ない湖が塩湖になっていくということが判った.
橋は幅8.5m,長さ300mで,イリ地区初めての近代的鉄筋コンクリート橋梁として1975年に開通したそうだ.訪ねたこのときは何故かバス(やトラック)は通行止めだそうだ.そこで三輪バイクや馬車が結構活躍している.まあ300mくらいどうって言うほどでないが,レジャーの一種でもあるのだろう,乗っている人たちを見ると楽しそうだ.
なお,河の手前はイーニン市だが,向こう側は行政上別の自治体ということだ.向こう側には観覧車や乗馬場,ボート乗り場等あって,ちょっとした遊園地になっている.三輪バイクや馬車もその一環であろう.
イリ大橋イーニン側袂で,行楽地なのでお巡りさんが事故に備え待機していた.前に置かれたのが中華式とも言うべきセグウェイそっくりな乗り物.多分ダメでしょうと言われながら,ガイドWさんを突っ突いて,『乗って見せてくれ』と皆でせがんだら,何と若い婦警がはにかみながら乗るのを披露してくれた.セグウエイに座るシートが加えられ,ある意味進んでいる.
下は,伊犁大橋での写真
長い一日を終え,イーニンの街に入ってきた.並木に囲まれたいい道だが結構混み合っている.
イーニンの人口は50万人強だそうだが,漢族,イスラムのウイグル族,回族,カザフ族に,仏教徒のモンゴル族が比較的多く,それに少数派のシボ族,ウズベク族,オロス族(ロシア族)など多彩なようだ.
漢代はシルクロード北端に位置し,一時烏孫国の領土になったり,西突厥に属すも,数日前訪れたジムサルの唐の北庭護符の配下に下ったり,南宋時は西遼,元代にはチャガタイハン国,といろいろ変遷があったようだ.細かく見れば上述の帝政ロシアに下った一時期もあったであろうし,広い中国の前線に位置するだけあって,戦いの歴史であったであろう.
イーニンでは伊犁大酒店に落ち着いた.9/22~23の連泊で,部屋も広いしゆったりできる.部屋にはPCが備えられていたが,他のホテル同様今どきWindowsXPだ.別に何でも構わないのだが,日本語のフォントがかなと漢字でサイズが異なりあまり美しくないのが欠点だ.
イーニンで到着した晩は本格イスラム料理店『Hozur』での夕食だった.店頭で調理場面を公開する自信のある,地元でも評判というお店だそうだ.定番のシシカバブからラグメン,飲むヨーグルト,蒸しギョウザ....といろいろ楽しめた.ヨーグルトは日本のものと似ており,久しぶりな味が美味しかった.
ただ,本格イスラム料理店なので酒類がない!これは私達にとって残念なことだ.帰り道,ホテルの道向かいのコンビニにビールがありますよ,と教えてもらったのだが,信号のない道路を一人で渡る根性はなく諦めた.中国では人がいても容赦なく車が突っ込んでくるので,私の場合とても一人では渡れない.
9/23伊犁大酒店の部屋の窓から眺めるとこんな風景だった.遠くに天山山脈が霞みながら見えている.比較的雑然とした街並みだが,樹木は多いようだ.
郊外の烏孫古墳に出掛けるため,バスで伊犁大酒店を出発した.少し行くと車が渋滞し,前方を馬上の羊飼いに連れられた羊の群れが歩いている.もち論草原の道ではよく遭遇するシーンであるが,都会でも見えるのがとても面白い.いずれ消えゆく光景であろうが,こうした伝統的生活様式が守られているのはいいことだと思う.
イーニン二日目の晩はその名も『名豊肥牛』でしゃぶしゃぶ,私にとっては久しぶりだ.個室が並ぶ高級レストランだ.運ばれた個人別の鍋はテーブルクロスの上に置かれた.さて,さて山小屋で使うような固形燃料でも持ってくるのかな~と思っていたら,鍋は沸騰してきた.テーブル各席にはIH(電磁誘導)ヒーターが組み込まれているのだ.テーブルクロスよく平気なもんですね.ポリイミドとかシリコーンとか...なのでしょうか?ただ,強弱ボタンがクロスの下なので手で探るのに探しにくい.クロスが捲り易いテーブル端面にあるといいと思うが.
何れにしてもしゃぶしゃぶは美味しかった.ふんだんに用意して貰ったので,この時とばかりに,食べてしまった.お里が知れるがまたも食べ過ぎだ.
下は,イーニンの街での写真
9/23朝烏孫古墳見物に出発した.途中,殆ど終わっている中で,まだ花が残っているヒマワリ畑があった.バスを降りて間近で眺めると,花は全て陽の方向を向いている.漢字で『向日葵と書くが,あまりにその文字の通りの姿勢で感心してしまった.まあきれいなもんだ.
イーニンから相当長く,2時間ほど走って烏孫古墳に到着した.なだらかな丘陵に幾つかの盛り土のようなものが見えて,ここで説明を聞く.2000年以上前,紀元前2世紀ころの烏孫人の墓と見られるのだそうだ.ここはトルファンなどタクラマカン砂漠地方と比べると水分が多く,ミイラにはならず白骨として残ったものが出土したそうだ.ただここの古墳から具体的にどのようなものが出土したのかWさんの説明ではよく判らなかった.また古墳より少し時代が下るようだが烽火台跡も近くにあるらしい.ただ,どれがそうなのかよく判らなかった.
烏孫人は奇数を好んだようで,古墳も必ず奇数の小山が一列に築かれているそうだ.この写真中程で小山の列が2列程見えているが,山の数は必ず奇数個だそうである.他の場所でも必ず奇数個なので烏孫人は奇数が好み,と結論付けられているそうだ.で,小山の数は埋葬された人の数?,家族の数?....まだ殆ど解っていないそうである.
簡単な試掘はされ,少し解ったのだが,まだ本格的発掘調査には至ってないそうで,これからの楽しみのようである.一方,盗掘もされていないそうで,こんな分り易い場所にいかにも墓所然とした形態の塚なのに盗掘が皆無とは信じられないが....そうらしい.もち論それが喜ばしいが.
烏孫古墳を見て,次の場所に移動すべくバスは走った.この辺り一帯には写真のような白い連続円弧状の漢風デザインの家が多い.きっと漢族の村ではなかろうか.ここからちょっと遡るが典型的漢族の墓(現代の)も見えたので,きっとそうだと思う.
羊飼いが馬上からムチを振っている.横断歩道中だ.ここはゆっくり待ちましょう.幾度となく出合う場面だが,これは好きだ.
暫く行くと八卦の街があった.そして街の中程には公園があった.八卦とはあの占いとして聞いたことのあるあの言葉だ.元々少し別のところにあった街だが,近年新しい都市計画で街ごとここに移ってきたそうだ.八卦占い師養成の街とか,著名な八卦師の出身地とか....ではないそうだ.何だかよく判らない.ただ八卦は道教とは深く関連しているのだそうだ.
街の道路は八卦の占い図の模様のように,縦横に巡らされており,信号機は一つもないという.向こうから来る車が見えたら,さっと脇に逸れ,別路を辿り目的地に行けるという.でも普通の人がここに入って運転すると,もう右往左往,出ることもできなくなるそうだ.そんなややこしい街の生活が好きな人々が暮らしているのでしょうか.
下は,烏孫古墳とその辺りでの写真
私達は新疆の代表的料理の一つ,ピラフの昼食後昭蘇平原にやって来た.随分広々した平原で,牧草地が多いように見える.道路脇はポプラや,小さな葉の広葉樹が植えられている.
これから向かう冬を前に,農家の庭には干し草でいっぱいに満たされている.家畜はこれで一冬お腹を満たして春を待つ筈だ.大きな農家は数百頭もの家畜を飼っているそうだから,飼料も膨大になるのは判る.
さて昭蘇石人の場所にやってきた.写真は中の子供を挟み,左に父親,右に母親だそうである.いまから1400~1200年前のAD6~8世紀ころ,イスラム化される前,シャーマニズム信仰の烏孫人などの遊牧民族が,死者の霊魂が石人に転移して,生き続けるという思想の元に作ったのではないかと見られているそうだ.
こうして眺めると,ヒゲの男性の威厳ある顔など具象的で,素朴な親しみが感じられる.
こちらは小洪納海(コナカイ)石人と称せられるそうだ.この石人は他と違って地中深く,地上部分の2倍もの長さの基礎部分が埋め込まれているという.それに加えて右手にワイングラス,左手に剣を携え,ロングヘアの辮髪といったことから,部族の将軍や王子といった有力者と見られるそうだ.
また左腰下に文字状のものが刻まれているが,風化で不鮮明だ.私にはちょっと現代のモンゴル文字風にも見えたが,ソグド文字ではないかと考えられているそうだ.完全には解読できてはいないながら,イラン系民族ソグド人が東まで来て,後に突厥にソグド文字を伝えたことから,これは突厥の石人ではなかろうかとの説もあるようだ.
それと,以前アルタイ近くで見たチェムルチェク烏孫石人と同じように,石人の周りには点々と石が配置してあった.やはり生前,戦争で倒した敵の数と考えられているそうだ.
昭蘇石人の草原にはラクダが飼われていた.ラクダは痒い顔を石柱で掻いている.脇にいるのは子供のようだ.ところでこの四角い石柱は,石人を作った部族が,当時自分たちのテリトリーを,他部族に知らしむために立てた印だそうだ.これを越えて侵入してきたら敵と見なし,殺し,そして石人となってからはその周りに石として並べたのであろう.
下は,昭蘇石人での写真
この周囲は菜種(菜の花の実)を路上に並べて乾燥だ.トウモロコシと較べて遥かに小粒だが,それでも道路に並べて乾燥だ.砂より細かいくらいで,当然砂と混じるし,流動性が高いので車の通る場所にはみ出てタイヤに踏み付けられもしている.それでも乾燥は重要なようで,路面に大量に敷かれている.
なお菜種は菜種油やキャノーラオイルに加工されるのであろう.絞る際に砂が咬まないか気掛かりだが....
なおこの辺りは菜種栽培だけということはもち論なく,例えば養蜂の巣箱など,道端の所々に置かれている.花は殆ど見えないのに不思議な気もするが,巣箱の周りではちゃんとブンブン蜂が飛び回っている.巣箱に蓄えた蜜を餌にしているのでしょうか?
私たちは汗血馬の里を訪れるために昭蘇平原を進んだ.菜種干しの光景も続き,この辺りの主要作物なのであろうと思わせる.春先に来れば一帯が黄色で埋め尽くされる光景が望めるであろう.
『天馬科技旅游示範園』および『伊犁馬術学校』の看板が架かる厩舎を訪れた.『天馬』とは道教における最高神天帝の乗る馬で,まあ最高の馬の代名詞であるそうだ.またここの馬はしばしば『汗血馬』とも称され,こちらも名馬中の名馬の代名詞であろう.今日はこの馬の見物だ.
さてこの馬の歩く姿はやはり特別のものなのか?私にはよく判らないのだが,前漢の武帝は当初大苑(フェルガナ)の汗血馬を手に入れようと外交団を送ったが交渉はまとまらず,結局軍隊を送り,武力で入手,武帝は狂喜した,ということだからそれは凄い筈だ.
後の名将関羽将軍の『赤兎馬』もこれがモデルで,河西回廊出土の『馬踏飛燕』もまた汗血馬ではと言われているそうだ.汗血馬は,皮膚下の寄生虫で実際血の汗を流すことがあるそうだが,運動能力を低下させることはないそうだ.
そんな汗血馬であるが,実は以前トルクメニスタンで,『うちのアハルテケ馬(Akhal Teke Horse)こそが汗血馬のことですよ』と見せて貰ったことがある.まあ,汗血馬は名馬だけに西のトルクメニスタン辺りから,東へこの辺りを経て,成都や長安まで移っていったのではなかろうか.
廊下を挟み両側に個室の連なる厩舎には10頭ほどの種馬がいた.驚いたのはここ原産の馬より,米国産,日本産,英国産...といった外国種が寧ろ多いことだ.ここでは原種の保存より,外国種との交配で,それ以上の新しい馬を生み出すことを主眼に育てているのだそうだ.びっくりし,少し落胆した.
28歳,人で言えば120歳とかの高齢馬も一頭いた.現役か否か定かでないが,大したもんだ.
日干しレンガの塀が印象的だ.雨は多くないが,菜種生育にはちょうどいいのであろう.
下は,汗血馬厩舎辺りでの写真
私達は昭蘇で汗血馬を眺めてから,北のイーニンまで引き上げることになった.陽が低くなりかけていたので途中丘陵地帯の陰影がきれいになってきた.
人も家畜も家路へと辿る様子も見える.一日の仕事を終え,疲れたが安堵できる一時であろうと感じられた.
下は,昭蘇からイーニンに引き上げるときの写真