ブランBran

このブラン編では,ブランの街へ行くときと,ブラン城観光の写真を載せました.


ブラン付近のGoogleマップ

ルーマニアのブランはこの辺りに位置している.

ブランの街へgo to Bran

ブラショフを離れる

ブラショフを離れる

3月17日(日)朝私たちはバスでブラショフを出て,ブランへと向かった.ブラショフ郊外には中世ヨーロッパ的面影が一切ない最近の集合住宅が建てられている.旅行者からすると味気なく感じられるが,まあ生活第一であるから仕方なかろう.また全般的にはこうした建物は決して多くはないような気がする.


ブラショフ郊外の農村

ブラショフ郊外の農村

手前の畑は耕され,既に種が蒔かれたか或いはそれを待つ状態であろう.畑にもゴミが散乱しているのは残念だ.

背後の山はトランシルバニアアルプス(Transylvanian Alps)の一部であろうか,半ば雲に覆われた2000m以上と思しき峰も見える.


ブブランの街に到着した

ブランの街に到着した

ブランはブラショフの南西,高々30kmに位置し,あっと言う間に到着した.お目当てはドラキュラの居城ブラン城で,ルーマニアの代表的観光地の一つだそうだ.街に到着するとお城の前に並んだお土産店は開店準備に勤しんでいる最中だった.


下は,ブランの街に行くときの写真

ブランの街に行くときの写真
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ブラン城Bran Castle

ブラン城の正面

ブラン城の正面

ブラン城は現在入場料支払いゲートのある場所から緩やかな坂を上った先にあった.石とレンガを主な建材として建設されているようだ.砦であるので周囲が崖で,建物外側は比較的開口部が少なく防御し易い構造になっている.

この辺りも他のトランシルヴァニアエリア同様ゲルマン民族が実効支配しており,14世紀当時,オスマン軍の襲来から守るため,時の支配者ワラキア公国ブラド一世(=ドラキュラ伯爵の祖父)の居城として1377年建設されたそうで,相当古い.日本では室町時代であるからやはり戦闘の多かった時代であることは興味深い.


ブラン城内の東屋

ブラン城内の東屋

ブラン城に向かう坂の途中に建てられた東屋があった.お城よりかなり後世20世紀の建設で,ルーマニア王妃マリア(1875~1938,ルーマニア王フェルディナンド一世の王妃)が朝の散歩の後にこの東屋に寄ってお茶をしたそうだ.マリア王妃は熱烈なルーマニア愛国主義者で,実質的に夫に代わりルーマニアを統治し,戦時中は赤十字社で負傷者の看護などにも尽力したそうだ.そして当時ブラン城の所有権を持っていたブラショフ市が,国民の尊敬を集めるマリア王妃にプレゼントし,王妃はここが気に入り,改装したり,調度品を整えて夏の離宮にしたということだ.マリア王妃はお城の整備だけでなく,ブランの街の電力整備などにも尽力したそうだ.

まあ,こうして昔はワラキア公国という小さな国のお城は,幾度となく所有権が移転し,拡張しながらルーマニア一国の王妃の居城(夏の離宮)になったわけである.

またマリア女王の娘イリアナも一時ハプスブルグ家に嫁いでいたが,後に帰国しこのブラン城に居住したという.プリンセスであったが,貧しい人民を助け,第二次世界大戦中はこの近くに病院を建設し,負傷者を救ったそうで,国民から愛されたそうだ.

しかし二次大戦後共産党政権が成立,1948年王家は国外追放となり,この城や調度品は国に没収され,やがて博物館として整備されていったそうである.そして最近2006年になって,イリアナ王女の実子で遺産相続者に返還されたらしい....が,詳しくは不明.


ドラキュラ伯爵の系図

ドラキュラ伯爵の系図

ブラン城は現在博物館となっているわけだが,その一室にドラキュラ伯爵の系図が掲げてあった.室町時代から続く家系にしてはあまり階層が深くないようにもみえるが.....ワラキア公国が然程長く続かず,絶えてしまった,だったか...

ドラキュラ伯爵(ブラド3世)自身は戦争のためとかでブラン城を訪れたことはあったが,居住したことはなかったそうだ.ここがドラキュラ公の居城となっているのはあくまで例の小説の上でのことだそうだ.

ところでドラキュラ公はしばしば極悪非道の見本のように描かれている.実際オスマントルコ兵を串刺ししたり,場合によっては領内の反対勢力貴族にも残酷な刑に処したこともあるそうだ.ただワラキア公国は兵力数万人というオスマン軍に比すれば微弱で,オスマン兵の串刺しを晒して牽制するなどして何とか自国民を守る以外手がなく,また彼自身勇敢に戦い,捕虜になったこともあったそうで,少なくともルーマニアでは国の主権を守った英雄とされているそうだ.

なお城内には礼拝堂や音楽堂など含めて多数の部屋があるが,ヨーロッパのバカでかい宮殿と違って何れも天井は高くはなく,また広くもないという印象を受けた.


ブラン城の中庭

ブラン城の中庭

黒い木組みに白い壁,赤い屋根,なかなか趣き深い.外側と違って開放的な回廊が廻らせてあり,窓も多い.中庭は然程広い訳ではなく,井戸が設けてある.この井戸一つででキッチンやお手洗いや....城内全ての水を賄っていたのであろうか?それともこれはお茶用で,他の生活用水井戸は他にあったのか....?


当時の武器

当時の武器

このような鋼球はかなり原始的で,技より力の勝負であったであろうと想像させられる.なたのような刀もしかりである.スポーツでなく戦争であるから『技あり』とかでは話にならず,先に一本取らない限り話にならないから.....

尤もこれらの武器に対抗する鎧も頑丈そうだ.身に着けるだけで動きが封じられそうな重量に見える.武器が先か,鎧が先か?何れにしてもヨーロッパの騎士は並外れたパワーがないと務まらなかったであろう(日本でもそうだったかな?)


ブラン城脇の税関跡

ブラン城脇の税関跡

ブラン城の上階から北を望むとこんな風な景色が見える.写真で三叉路の辺りがトランシルバニア地方とワラキア地方の国境で,両国の税関が設けてあったそうだ.道の両側が山で,国境を越えるにはこの道を通ることになるので税関を設けるにいい場所だった訳だ.ただこの時代もやはり山を通って不法入国を図ろうとする輩も多く,両側の山の木は全部切り倒し,見え易くした上,このブラン城屋上から不法越境者を監視していたということだ.つまりブラン城は関所でもあった訳だ.


下は,ブラン城での写真

ブラン城での写真
ブラン城での写真 ブラン城での写真 ブラン城での写真 ブラン城での写真 ブラン城での写真 ブラン城での写真 ブラン城での写真
ブラン城での写真 ブラン城での写真 ブラン城での写真 ブラン城での写真 ブラン城での写真 ブラン城での写真 ブラン城での写真
ブラン城の観光客

ブラン城の観光客

ヨーロッパのあちこちには吸血鬼伝説があるのだそうだ.なのでブラン城は,小説が元ネタではあるのだがその舞台としてなかなかの人気があるのだそうだ.この日は日曜日ということもあってか結構な数の観光客が城に向かう坂を上ってきた.


ブラン城前のお土産店街

ブラン城前のお土産店街

かなりの数のお土産店が並んでいて驚いた.日本の大きな寺社の門前町と似た趣だ.観光客が多いことを裏付けていよう.


ブラン城の典型的お土産ドラキュラ関連

ブラン城の典型的お土産ドラキュラ関連

ストレートにドラキュラやブラン城を主題とした典型的お土産品.どこの国でもあります.買っていってもしょーがないと言ってしまうと....身も蓋も無い.....営業妨害か....


ブラン城のチーズとソーセージショップ

チーズとソーセージショップ

こちらはぐっと変わってチーズとソーセージショップ.チーズは一般的な牛乳製ではなく,羊乳製らしい.お饅頭やおせんべい,羊羹....といった食品系お土産より,さらに踏み込んだ日常食品ということになろう.日本で言えば小田原の蒲鉾,伊豆の一夜干しの魚....といったところか.



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