このソフィア編ではソフィアへ行くときの風景,ソフィアの街の聖ソフィア像,バニャバシモスク,公共温泉施設,温泉前広場,路面電車,ソフィア地下鉄駅,聖ペトカ教会,旧共産党本部,ツムデパート,大統領府衛兵の交代式,セルディカ遺跡,アートギャラリー,国立考古学博物館,聖ニコライ聖堂(ロシア正教会),アレクサンドルネフスキー大聖堂,聖ソフィア教会,フリーマーケット,聖ネデリャ教会,聖ゲオルギロタンダ聖堂などの外観写真を載せました.
ブルガリアのソフィアはこの辺りに位置している.
プロブディフを見物した後,バスはソフィアへと向かった.150kmくらいの距離があるそうだが高速道路が走っており短時間で着きそうだ.
そしてソフィア近くになり一度休憩する.近くにはヴィトシャ山(Vitosha)と呼ばれ2290mという白い頂きが見えた.スキー場があるそうで,結構遅い季節まで楽しめそうだ.
バスはベストウエスタンホテルエクスポ (Best Western Expo Hotel) に到着した.Expoと変わった名前が付いているのは,地下鉄終点Expo駅の前で,エキスポ会場(整備工事中)の脇にあるからのようだ.
驚いたことに,写真のようにロビーバーのテレビが野球を放送していた.欧州,しかも東欧で!とびっくりだが,ちょうどWBC決勝戦の日程で,実況のようであった.見ている人はあまりいないようだったが.....
なおホテルの道を挟んだ反対側へ地下道で渡ると,巨大なMetroスーパーマーケットがあり便利だった.
ホテルが街外れにあったので,他所に行くために幾度か通過した.都心に比べるとモダンな建物や集合住宅が多い.ガイドDさんのアパートもこの辺りだそうだ.ソフィアのアパート(マンション)の一般的な広さを訊いてみたら,東京辺りより寧ろ狭いくらいで驚く.共産党独裁政権時代に画一的に決められたサイズの住宅が多いからだそうで,最近は幾らか大きくなる傾向だそうだ.
下は,ソフィアへ行くときとソフィア街外れの写真
さて,ソフィアはブルガリアの首都で,人口130万人くらい.川崎市やさいたま市と近い人口のようだ.トラキア人が定住を始めたヨーロッパ最古の都市の一つで,これから見物するセルディカ(Serdica)遺跡などは数千年の歴史があるそうだ.その後ローマ帝国支配と独立,オスマントルコ支配と再独立,共産党独裁政権時代,民主化の現代へと変わってきた.それらの痕跡をほんのチラリとだけ見て回った.
街外れのホテルからバスで来て,聖ソフィア像の立つ,ソフィアの中心部の通りに降り立った.真正面台形状の建物は旧共産党本部,左は国の行政機関のお役所やツムデパートの入っているビル,右は大統領府や銀行の入っているビル,とまあソフィアの中心も中心,と云うことになろう.でもちゃんと写真左端に見えるような庶民的集合住宅も間近に建っているので,まあ,コンパクトな街なのだと思う.
さてその集合住宅は一階が店舗になっており,角のお店はオープンカフェだ.ちょっと夕刻には若干間があるが大勢の客で賑わっている.楽しそ~だな~
ブルガリアの人もビールが好きなようで,幾つかのブランドがあるようだ.私もレストランとか,ガソリンスタンドのショップとかで買った缶ビールを飲んだが,まあ普通に美味しいと思う.若干薄め(軽い感じ)のが多いかな~
エディルネ(トルコ)のあのセリミエモスク(トルコ紀行2012のページから)の設計などで有名なオスマン帝国を代表する建築家ミマールスィナン(Koca Mimar Sinan)の設計によるもので,1566~1567年に建設されたそうである.石とレンガ造りで,これまで幾度か補修改修がなされているそうだ.
現在ブルガリアではイスラム教徒は少数であるが,金曜礼拝には500人程度,祝日には1000人ほど集うということだ.
なお写真を撮りそこねたが,道路を挟んだ反対側には市場やシナゴーグがあった.
この立派な建物は公共温泉施設だそうだ.前面には広場があり,大勢の市民がここで寛いでいる.ブルガリア先祖のトラキア人は温泉を愛したそうで,この辺りの鉱泉は街造りの重要条件の一つであったようだ.
そして時代は下り,オスマントルコの時代になると,ハマムとして知られるように,こちらもお風呂の好きな民族だ.そして現代ももち論温泉好きは多いし,飲んでも効用があるそうで,ここの人気は高いそうだ.
温泉前広場は老若男女,いろいろな市民が集い,日向ぼっこしている.温泉から出てきた人や,これから入る人もいるかも知れない.
路面電車(トラム)が走っている.まあ,伝統的都市交通機関で,これに地下鉄とトロリーバスがソフィアの公共交通施設であるようだ.路面電車はゆっくり走るので,遠くまで行くには向かなさそうだが,まあちょっとそこまでくらいなら分り易くて良さそうだ.
ソフィア地下鉄の駅(中央駅?)構内.地下鉄工事中に見つかったローマ帝国時代の遺跡が残されている.駅の周囲は現在も大掛かりな発掘調査中で,作業テントや大穴が見えている.ここも後述のセルディカ(Serdica)遺跡に近いので,その一部をなすのではなかろうか.
案内板はキリル文字のブルガリア語表記に,ラテン文字表記ブルガリア語や英語が併記されており,何とか読むことはできそうだ.なお大きな通りの道路表記も併記になっている場合が結構あるが,やはり主に外国人の便宜のためだそうだ.諸国と陸続きだし,EC加盟国だし....それがいいと思う.
詳しくは馬具工の聖ペトカ教会(Church of St. Petka of the Saddlers)という長い名だそうだ.ブルガリアの聖ペトカ(St. Petka)と呼ばれる11世紀の聖人に捧げられた教会で,馬具工たちの守護者だったそうだ.
16世紀の建立だが,ポイントはその頃はオスマン帝国の支配下にあり,それでもキリスト教会建設が認められたのだそうだ.ただ条件があり,コンパクトで,あまり目立ってはならぬ,と云うことだったそうで,そのためこうした慎ましやかな教会になったという.
添乗Kさんが『聖ペトカ教会とバニャバシモスクを一緒に写すのが肝腎』とアドバイスしてくれた.つまりイスラム教徒支配者のバニャバシモスク(写真先方)は堂々と地上に立ち,小さな聖ペトカ教会は半分地下に沈むように建てられているのがよく判る.それにしてもオスマン帝国はよくキリスト教会の建築許可を出したものですね.
なお教会とモスクの間の掘り起こし工事は,上記地下鉄工事中に見つかった一連のローマ遺跡の発掘調査現場である.大掛かりだ.
1989年の政権崩壊まで天下をとっていた共産党本部があった建物だそうだ.東欧各地で民主化運動が起こると,当時政権中枢にいたジフコフ共産党書記長が辞職し,共産党内部から改革が起こり,90年に共産党一党独裁体制を放棄.以降民主化移行し,2001年から連立内閣となったようである.ガイドDさんに政権崩壊以降の共産党について訊いてみたが,現在共産党そのものは悪夢で,存在しないが,実質的に同じブルガリア社会党に名を変えて存続し,しかも国会で結構多数を占める大政党の一つであるそうだ.
正面の塔の上に『赤い星』と称される30kg(大きい!)のルビーが載せてあったのだが,1991年ロシアのヘリコプターが持ち去り,いまは行方不明とか....の,どさくさ紛れの火事場泥棒の噂があるらしいが....どうなんでしょう?ところで,現在この建物は政府機関が使用中のようだ.
とても大きく立派なこの建物には政府行政機関とツムデパートが入居しているそうだ.多分共産政権時代に国有ビルとして建設されたものでしょうか.ツムデパートはブルガリアの三越といったところだそうだが,どうやら旧ソ連文化圏によくある(国営だったのか?)デパートで,キルギスのビシケクツムデパート(中央アジアの旅2007のページから)はいかにも田舎町デパートの趣で,ここソフィアとは著しく違う感じだった.それとここのSONYセンターで大きな4Kテレビが展示されていて,日本でも見たことがなかった私はその大きさと緻密さに感心した.
大統領官邸前には二人の衛兵が立ち,11時に(他時刻にもあり)交代式が行われる.ということで見物したのがこのシーン.バッキンガムとかと違って二人だけ,ごくささやかで,見物人も物好きな私たち3,4人くらいだ.驚いたのは11時ではなく,その6,7分前には交代式が完了してしまったことだ.中には11時目掛けて馳せ参じた観光客も幾らか居たようだが見逃しの三振,まあ変わった流儀だ.
大統領府と向かいの政府行政機関を結ぶ地下道にある遺跡.地下鉄工事の際に見つかったそうで,トラキア人が紀元前から6世紀の頃に渡って築いた要塞都市『セルディカ』が元になっており,途中征服した古代ローマ帝国の都市跡だそうだ.城塞や門,神殿,道路,石碑,壺....などが見つかり,展示されている.合わせてお土産店なども併設されている.
大統領府前から,国立考古学博物館とアートギャラリーに挟まれた辺りに広場がある.近くで働く人が休憩したりするにいい場所だ.広場の脇には駐車スペースも設けてあり,2,3人の係員が忙しそうに車を誘導し,料金を集めていた.
屋外に大理石彫刻などを無造作に置いてあるのでこの種の博物館と気付く.ただそれも見ただけで,青銅器時代,トラキア文明期,ローマ時代...の豊富な展示品を何も見なかったのはバカみたいかも,悲しい.
建物はオスマン帝国時代の1474年建設,最大にして最古のモスクを転用しているのだそうだ.1905年転用設置後も展示品の増加で,増設してきているそうだ.
中に入ったときは既に閉館時間に達しており,展示品を見ることができなかった.小さなお土産売店で展示品の絵葉書などがあった.それらによればイコンなどが目立ったが,実際にはヨーロッパのドラクロアやピカソといった巨匠の作品から,日本の浮世絵や,インド美術,アフリカ美術...まで広く展示されているようだ.
建物は元々宮殿として,1880年に建設されたもののようで,とても立派だ,
いかにもロシア風な比較的小さな建物だ.3/22(金)朝覗き見したら,狭い礼拝室でお祈りの最中だった.1882年露土戦争後,オスマン帝国からのブルガリア解放を記念して,ロシア帝国によって建立されたそうだ.オスマン帝国時代にはモスクが在った場所だそうで,いかにも主権を取り戻したときにふさわしい.当地在住ロシア人のため,ロシア大使館公式の教会で,大使館の近隣になるそうだ.聖堂名前は,慣習でロシア帝国皇帝,後に列聖されたニコライ二世の名を冠したものだそうだ.
ブルガリア正教会の大聖堂.名のように聖アレクサンドルネフスキー(St. Alexander Nevsky)を記念する聖堂だそうだ.ウラジーミル大公国の大公(在位1252~1263年)で,中世ロシアの英雄として讃えられている人物だそうだ.緒戦を戦い抜き,勝利したが,43歳で没した.そして死後早くから聖人視され始め,1547年にロシア正教会から列聖され聖人となり,同系統のブルガリア正教でもそれに倣ったのであろう.
大聖堂はドームが交差するバシリカ建築と呼ばれるそうで,金メッキの中央ドーム直径は45mとでかく,鐘楼は50mの高さがあるそうだ.大きい!
建設が始まったのはオスマン帝国から解放後の1882年からだそうで,ネオビザンティン建築様式で1912年に完成したそうだ,比較的新しい聖堂であろう.
中に入ってみるとその広さにびっくりしてしまう.主祭壇にはキリストや聖マリア,聖人....などの大きなイコンが嵌め込まれている.柱や他の壁にもびっしりと壁画で満たされている.しかしベンチ等は一切無いので,お祈りや説教は立って行うようだ.またアカペラと称するのだそうだが,パイプオルガンなど一切用いないで聖歌を歌うのが正教の決まりだそうで,実際ここでは何人かの方が右側で歌っているのを聴くことができた.
6世紀,古代ローマ劇場の上に,ビザンチン様式で建てられたというから非常に古い.上述のアレクサンドルネフスキー大聖堂の左手前に位置し,その建設よりはるか遡る第二次ブルガリア帝国の時代は本聖ソフィア教会がソフィアの主大聖堂だったそうだ.
ブルガリア正教の教会礼拝堂にしては珍しくベンチが並べてあった.しかしイコンが並ぶ主祭壇はシンプルで,パイプオルガンや立体像(3次元像)などがないのは他の正教教会と共通だと思う.何人かの人が礼拝中だった.
入り口の前室には売店があり,イコンなどが販売されているが,これはアレクサンドルネフスキー大聖堂でも同じようだったと思う.日本のお寺で御札を販売しているのと同じことであろう.
アレクサンドルネフスキー大聖堂と聖ソフィア教会前の広場ではフリーマーケット(青空市場)が開かれている.毎日開設される常設市場のようである.マリアさまやマリアとキリストの絵,聖人などの絵が特に多く,一般の絵(風景画など)やガラクタのショップなども出店している.
ブルガリア正教会ソフィア主教職の聖堂で,石やレンガの他に木材も使われた構造だそうだ.10世紀の建立で,途中改修や増築が何度もなされたそうだ.側面の円柱上の連続アーチなどはモスクなどのイスラム建築様式そっくりに見える.でも縦格子状ドームなどはとてもユニークで,遠くからも目立つデザインだ.
1925年,ブルガリア共産党が,事件の2日前に暗殺された将軍コンスタンティンゲオルギエフの葬儀に出席中の国王ボリス3世暗殺を狙った爆破テロ事件を起こしたことがよく知られているそうだ.国王は無事だったものの,市民150人以上の犠牲者が出たそうだ.そして事件後1927年~1933年に再建されて現在の姿になったということだ.
訪れた3/22(金)の朝であるが,平日に拘わらず大勢の信徒の方が礼拝に訪れていた.決まった時間ではなく三々五々来て,去るようである.
金色に縁取られたイコンパネルや椅子のない礼拝堂の様子はブルガリア正教の標準的形式であろう.
大統領官邸の裏側(中庭)にあった.ローマ帝国支配下の4世紀,皇帝コンスタンティヌス一世(在位306~377年)の頃の創建だそうで,周囲には発掘中のように見える浴場跡などの古代ローマ遺跡とまとめて整備されたもののようだ.4世紀初頭はまだローマ帝国内でキリスト教は未公認で聖堂ではなかったが,暫くし,公認されると洗礼堂に転用され,多くの信者の洗礼に活用されたということだ.
よくあることだが,オスマントルコの支配下時代は,一時(と言っても結構長いが)イスラム教モスクに変えられ,キリスト教の壁画には白壁が塗られ,アラベスク装飾が塗られたそうだ.イスタンブールのアヤソフィアと同じ運命だった訳だ.ところでトルコ語のアヤソフィア(AyasofyaまたはHagia Sophia)はSt. Sophia(聖ソフィア)のことで,上に載せたソフィア市の聖ソフィア聖堂とは同根で,ラテン語で叡智sophiaを元とし,『神の聖なる叡智の神殿』を表すそうだ.
なおオスマン帝国解放から暫くしてキリスト教会としての修復が開始され,完成したそうだ.手前の崩れたローマ遺跡からの連想と異なり,実際覗いてみてちょっとびっくりしたのだが,礼拝中で,しかもこれは毎日のことなのだそうだ.