このプロブディフ編ではプロブディフへ行くときの眺め,プロブディフのアレクサンダー通り界隈,プロブディフ旧市街,マリッツァ川界隈などの写真を載せました.
ブルガリアのプロブディフはこの辺りに位置している.
カザンラクからプロブディフへと向かった.100kmほどの距離があるそうだ.幾度か村や街を通過する.写真はそんな村の一つだ.どうやらこの辺りでは平屋で赤い屋根に,白い壁の造りが普通なようである.この平野はトラキア平原と呼ばれるそうだ.
やがてプロブディフ郊外の辺りに近づいた.火力発電所が見える.プロブディフはソフィアに次ぐブルガリア第二の都市で,人口38万人を抱えるそうだ.日本では長野市や豊橋市,岡崎市....といった街の人口がそれくらいだそうである.
プロブディフには新石器時代から6000年の歴史があるそうだが,この辺りは新市街で,特段変わりない普通の景色だ.日本の街と同じように,二次大戦以降,いやもっと最近建てられた建物が多いのではなかろうか.
この日の宿マリッツァホテルに到着した.マリッツァ川の畔に立っており,ホテル名にはそれを冠したようである.ホテルにはカジノが併設されているようだが,どうやらブルガリアはカジノが自由なようで,プロブディフに限らず他の街でもしばしば看板を見掛ける.
マリッツァホテルで部屋のキーを受け取り,入るとあっけにとられた.何時の時代なのだこれは?と思えるごてごてのドギツイデザインである.まあ善かれ悪しかれ一風変わった内装は記憶に残りそうだ.このホテルは元はビジネスホテルだったのだが,2部屋を1部屋にまとめ,内装もこんな風に改装したということだ.確かに部屋の中程に梁がある.
下は,プロブディフへ至るときの写真
夜になって旧市街のレストランに出かけた.旧市街だけあってレストランの内装はクラシックでバイオリンとピアノ奏者が演奏してくれている(写真左)日本の曲も交えてくれたりするから,何でもこなすようだ.
サラダ(中)に続いてカヴァルマ(Kavarma:右)という郷土料理だった.土鍋に入れた鶏肉をトマトソースやワインなどで味付けし,オーブンで焼き上げたものだそうだ.煮込み料理の範疇で,美味しかった.
プロブディフで一泊した翌朝,バスでマリッツァ川を渡り,アレクサンダー通り方面に向かった.川を渡るとすぐ右側に写真のようなトルコ風建物群が見えてくる.オスマントルコ時代に作られたハマムなどの跡のようだ.現在プロブディフのイスラム教徒の数はごく僅かだそうだが,これらの建物が今も利用されているかどうかは判らない.
バスはプロブディフ中央郵便局前に止まった.早速そこには掘り起こされた遺跡があった.ローマ時代の古代フォーラム(フォルム)で,300席の劇場(オデオン)や図書館,造幣局(硬貨鋳造所)なども併設され,紀元1世紀末ウェスパシアヌス帝時代の建設とされるようだ.
大きな大理石の円柱やレンガ造りの建物などは他所のローマ遺跡の形式とよく似ていると思う.
原っぱに孤立した遺跡ではなく,住宅や道路,オフィスの中に何気なく在るというか,溶け込んでいるところがやはりヨーロッパの古代遺跡だ.
プロブディフで一番の繁華街で,歩行者天国になっているのがこのアレクサンダー通りだそうだ.通りの名はアレキサンダー大王(若しくはその父)に因むそうで,まあそんな太古の歴史をふと思い浮かべると驚愕してしまう.ここにはレストランやカフェ,ブティック,ホテル....等々,味わいある建物が並んでいる.
どうやら警察やアウトレットショップのあるこの建物,ドアに禁煙マークが貼られている.女性は仕方なくコーヒーを片手に,ここに出て吸っているようだ.近年どこの国でもこうした光景は普通になってきたが,吸い続けるのも大変な時代になったものだ.
この辺りはアレクサンダー通りの終端で,ジュマヤ広場(緑地公園もある)と呼ばれる辺りだ.写真中央の模型古代ローマ競技場の本物遺跡が在って,その前方に石積みが見えている.道路下には入場ゲートや大理石の観覧席ベンチが残されている.ここに下るエレベータがあるが,歩ける人は試しに乗ってみるのは避けるが吉だ.階段の4倍くらいの時間が掛かる.
上記ジュマヤ広場の名の由来となるモスクがこのジュマヤモスク.最初は14世紀オスマン帝国ムラト1世の時代,ここに在ったブルガリア正教聖堂を壊し,築かれたそうだ.そしてムラト2世 (1421~1451年) の時代になると,これが大幅に改築され,石とレンガを交互に並べたビザンチン様式と中世ブルガリア様式のミックス様式というユニークな構造だという.オスマン帝国がバルカン半島に建てたモスクでは最も古く,また大きいモスクになるそうだ.なおジュマヤモスクはモズレムにとって最も大切な礼拝日である金曜を冠した金曜モスクの意のようだ.
礼拝堂向こうのミナレットの,赤いレンガと白い石の織りなすストライプや格子模様もユニークで面白いと思う.
下は,アレクサンダー通り界隈での写真
ジュマヤモスク脇から丘に展開される旧市街に入る道を上ると,坂の途中にこの聖マリア教会(The Virgin Mary Church)があった.ピンクの鐘楼が目立つ.教会の名からすると,ブルガリア正教ではなく,カトリックの教会だったかな~?ここで結婚式を挙げる人達が多いともガイドDさんが解説してくれたような.....
2世紀,トラヤヌス帝時代(98~117年)初期に造られたというローマ円形劇場.5000人収容という大理石製すり鉢状客席,イオニア式円柱の舞台...等,あちこちでよく見掛ける典型的ローマ劇場様式だと思う.
丘の上に建っているので,客席からは舞台だけでなく山並みやプロブディフの街も一望でき,特に私たち現代の観光客にはありがたい.写真右上にチラッと見えるは音楽/ダンス学校だそうであるが,保存状態の良いこの円形劇場では夏になると,そこの学生など含めコンサートや演劇が開催されるそうだ.
坂を登り切ると,二階部分が下よりせり出し,そしてまた三階部分はさらに二階部分よりせり出す構造のユニークな家々が見えてくる.一般にブルガリアルネサンス様式と言われるそうだ.そしてこれまたベリコタルノボ旧市街でも見かけたのと同様,サフランボルの住宅(トルコ紀行2012のページから)と同じような形式だ.丘の上の一等地であるので,当時のプロブディフの豪商たちの屋敷として建てられたそうである.豪商ではあるが,土地の固定資産税を安くするため,敷地を狭くして床面積を大きくする工夫だったとか....
この写真右側の建物は1830年,ある豪商が建てたものだが,後に僅か3日間だけだがフランスの著名なアルフォンスデラマルティンと云う詩人が過ごし,『ラマルティンの家』と呼ばれるに至っているそうだ.
なおこの辺り一体は文化遺跡として市の保護対象で,建物の外観は変更してはならないそうだが,内部は生活様式が変化していることに合わせ,変えても構わないそうだ.ただこれら不動産の取得やリニューアルは非常に高額であるので,かなりの資産家に限られるが結構買われているそうだ.投資目的と見られるものも少なからずあるそうだ.またこうした文化遺産保護に熱心な人は海外にもいて,さる日本人女性も一軒分の資金を供与して保護に務めているそうだ.
中庭に井戸のある家を見せてもらった.今はレストランとして使われていたかな?ここは丘の上であるのでちょっとやそっと地面から掘り下げても水が出ないのでは,と思って,訊いてみた.すると,ここはローマ時代からの土木技術が伝承され,水道設備が完備していたのだという.流石ローマ遺跡の街だ.
この教会は337年という極めて古いキリスト教会跡地に,1832年に建て直されたものだという.聖コンスタンティン(St. Constantine)と,その母親でキリスト教を国教とするよう助言したエレナ(Helena)の名を冠したと聞いた.しかし1832年当時はまだオスマントルコの支配下であったし,う~ん,解らない??としばし悩んだ.そしていろいろググった末,ようやくどうやらコンスタンティンとはあの昔のローマ帝国皇帝コンスタンティン(在位306~337年)のことで,キリスト教を公認し政治的社会的基盤を作り,以来正教会系では聖人,と教えてもらい,な~るほど!
いずれにしてもオスマントルコの支配下にあってもキリスト教が完全には禁止されていた訳ではなさそうだ.
背後の鐘楼と壁の壁画を前に説明の黒い装束,長いあごひげのお坊さん(右の人物)はいかにも正教会風の出で立ちに見える.
下は,プロブディフ旧市街,聖コンスタンティンエレナ教会辺りまでの写真
この建物は元々裕福な個人の住宅だったそうだが,途中からプロブディフ地域民族誌学博物館として使用されるようになったという.外観は変わったもので何でもバロック様式と民族復興様式ミックス様式だとか.
私たちは単に外側をチラッと見たに過ぎないが,内部には民族復興期の特徴的な伝統工芸の衣服装飾毛糸,銅細工,鉄細工,金細工...等々,および絵画,イコン,像,パネル,木彫刻,金属彫刻...等々色々展示されているようだ.
文化財の家々が建ち並ぶいい街なのだが,こんな風に落書きする輩がいる.日本でも,他国でも見られるが残念なことだ.
丘の上に到着した.ネベット丘というようだ.ここにもローマ時代の遺跡が残り,プロブディフの街を一望できる.向こうはバルカン山脈のようである.
ヒサルカピヤ(Hisar Kapiya:要塞門)と呼ばれるこの門は,一番最初は紀元前4世紀マケドニア王国の時代に造られたそうだ.そりゃまた滅茶苦茶古い.以降幾度となく破壊と修復が繰り返されてきたそうだ.確かに周囲も城壁のようであるし,攻防の要所であったのであろう.
ヒサール門をくぐった先に建っているこの赤い家はディミタルゲオルギアディ邸.解説してもらったのだが思い出せない.ただいろいろ見せてもらったが,デザインが画一的ではなく,バラバラ,皆個性的だとは思う.その方がもち論見る方も楽しくていい.
旧市街の坂道を下りきり,バスが通る道端にもローマ遺跡の欠片があった.大きな大きな大理石の原材料はどこから運んだのでしょうね?
下は,プロブディフ旧市街での写真
プロブディフの市街にはマリッツァ川が流れている.これはその畔のマリッツァホテルから,対岸の丘の旧市街方面を眺めた様子.マリッツァ川はブルガリアの西から東へ,プロブディフを通過して流れ,トルコとの国境を越えエーゲ海に注ぐそうだ.
話は変わるが,シルヴィバルタン(Sylvie Vartan)は1944年ブルガリア生まれで,8歳のときの1952年一家でパリに移住したそうだ.で『La Maritza 想い出のマリッツァ』という歌を唄っているそうである.しかも日本語のもあるようだ.ネットにあったので聴いてみるとなかなかいい曲だ.
商店もオフィスも集合住宅もあるごく普通の街であろう.平日なのでスーツ姿で仕事中という感じの人も多く見える.窓にはパラボラアンテナが多く,まだディジタル化が進んでいないのかも知れない.タクシーは規則なのかイエローのようだ.
1枚上の写真の橋から少しだけ上流に架かる橋は屋根付きだ.ただフィレンツェのベッキオ橋(イタリアの旅2003のページから)のように橋の両側にショップが並ぶが,全く古ぼけてはおらず,真新しい.店舗も実用向けでちゃんとしており,観光向けではないので少しがっかり(こっちの勝手なのだが).
15世紀オスマン帝国総督の息子シハベティンパシャにより建立されたそうだ.当時周辺はトルコ人居住区でハマムや隊商宿があったそうだ.訪れたときは礼拝中でなかったので,礼拝堂内部を覗かせてもらった.正面の一段高い所にミフラーブのある,比較的質素な造りに思えた.
なお別ページでも記したが,プロブディフのイスラム教徒は少人数で,モスクはここを含めて2,3だけだという.
道路を挟んでホテルの真向かいに国際見本市会場の建物があった.プロブディフはブルガリア第2の都市なので,産業は盛んで見本市が頻繁に開催されるそうだ.
マリッツァ川界隈を歩き回り,マリッツァホテルのレストランに戻り昼食を頂いた.歩き回ったのでビールも一層美味しかった.
これでプロブディフの観光は終わったので次の観光地ソフィアに向かう.
下は,マリッツァ川界隈,夕と朝の写真