ブラショフBrasov

このブラショフ編では,ブラショフへ行くとき,聖ニコラエ教会,スケイ門,黒の教会,レプブリチ通り,他の写真を載せました.


ブラショフ付近のGoogleマップ

ルーマニアのブラショフはこの辺りに位置している.

ブラショフへgo to Brasov

ブカレスト郊外

ブカレスト郊外

ブカレスト空港からはガイドAさんとドライバCさんが出迎えてくれたバスでブラショフへと向かった.ブカレストの街はあっと言う間に抜けて郊外の農村地帯に入った.

この辺りの農家は簡単な塀に囲まれた前庭を備え,その庭にはブドウが栽培されていることも多い.家は平屋が多く,2階建ても混じる.屋根は瓦に加え,トタン屋根も多い.トタン屋根が錆び付いているが,資金不足と見えて補修できないままのものも目立つ.

畑が広がるが,平地なのに林も目立つ.伐採すれば直ぐに農地に転換できそうだが,林のまま維持しているのは何か理由があるのであろう.自然保護であろうか?


キリスト教会が所々に

キリスト教会が所々に

ルーマニアはルーマニア正教会を主に,プロテスタントやカトリックを加え,国民の殆どはキリスト教徒ということで所々に教会が見える.


ブラショフへの途中の火力発電所

火力発電所

現在は火力発電がメインのようで,ブカレスト周辺にも幾つか発電所があるようだ.ただ火力はコストが嵩むので,原子力や水力の割合を増やす方向であるそうだ.


熱電併給の温水給送パイプ

熱電併給の給送パイプ

発電所のタービン排熱は近隣の都市に暖房/給湯用に供給されているそうだ.エネルギーの効率的活用に役だっているであろう.

ところで野原にはゴミが散乱している.エジプトとかと同程度に多いのは残念だ.まあ,ルーマニアに限らずゴミが散乱する国は多いのだが.....


ブラショフへ途中の油井

油井

ルーマニアでは原油を産出する.国内消費量の70%を賄い,足りない分はアラブ諸国より輸入しているそうだ.ただ現在とこれから暫く先までは,原油の権利を他国企業(英国だったか)に握られており,他国で精製したガソリン等を輸入しているそうだ.そのため結構製品価格が高いようだ.契約期間が過ぎればルーマニア国内で精製できるようになり,価格も下がる見込みだという.


ブラショフへ途中のリゾート地

リゾート地

大分走り高地に入ってきた.山の斜面は雪で覆われている.この辺りは冬はスキー,夏は避暑やトレッキングで訪れる人が多いそうだ.そしてそのためのホテルや別荘が揃っているようだ.

ところでこの辺りのガソリンスタンドで休憩した際,売店のワインは結構リーズナブルなプライスだが,バーボンやスコッチは日本のスーパーなどと較べて随分高い,下手すると2倍くらいに見えた.ガイドAさんによれば,ルーマニアの人達の所得は低いそうなので生活は大変かな~と思えた.


下は,ブラショフへ行くときの写真

ブラショフへ行くときの写真
ブラショフへ行くときの写真 ブラショフへ行くときの写真 ブラショフへ行くときの写真 ブラショフへ行くときの写真 ブラショフへ行くときの写真 ブラショフへ行くときの写真 ブラショフへ行くときの写真
ブラショフへ行くときの写真 ブラショフへ行くときの写真 ブラショフへ行くときの写真 ブラショフへ行くときの写真 ブラショフへ行くときの写真 ブラショフへ行くときの写真 ブラショフへ行くときの写真

ブラショフ新市街に入る

ブラショフ新市街に入る

やがてブラショフ郊外,そして新市街に入ってきた.新市街は概ね2次大戦後の共産党独裁時代に作られたそうだ.この先訪れる旧市街と比べれば味気ない建物だけで,まあ日本辺りとあまり変わりないであろうか.


ブラショフ旧市街に入る

ブラショフ旧市街に入る

旧市街に入ると途端に中世的雰囲気になる.観光客にとってはやはりこうでないと困る.住んでいる人達には不便なこともあるに違いなかろうとは思うが....



トランシルヴァニア地方の歴史年表

ルーマニアと,ブラショフも含まれるトランシルヴァニア地方の大まかな年表を,日本と対比して示すと下図のようになっているようだ.

トランシルヴァニアを主としたルーマニアの歴史年表

トランシルヴァニアを主としたルーマニアの歴史年表


大まかに言って,ルーマニアには紀元前からダキア人と呼ばれる先住民族の国家があったが,2,3世紀頃になるとローマ帝国に攻め入られ,混血化/ローマ化されていったようだ.Romaniaはその綴りから連想されるように,ずばり『ローマ人の国』の意だそうで,また文字もローマ字(ラテン文字)がその頃から用いられているそうだ.今回観光のルーマニア中部トランシルヴァニア地方は,鎌倉時代の頃から2次大戦の終わりまでザクセン人やオスマントルコに支配されていたようで,ルーマニア人(ローマ人)はかなり虐げられていたようである.

聖ニコラエ教会Biserica Sfntul Nicolae

聖ニコラエ教会

聖ニコラエ教会前の共和国広場

さてブラショフ旧市街に着くと先ず聖ニコラエ教会を訪ねた.教会前は広場となっており,共和国広場と称されるそうだ.つまり2次大戦後,共産党が支配してから,あのチャウシェスク政権が崩壊した1947年~1989年のルーマニア人民共和国時代に因むのであろう.広場中央にはその建国に関わったであろう銃を携えた兵士の銅像が置かれている.

写真正面,共和国広場に面する赤い屋根,黄色い壁の大きい建物は聖ニコラエ教会関連施設だそうだ.聖職者の住まいとかであろうか?


聖ニコラエ教会(Biserica Sfntul Nicolae)正面

聖ニコラエ教会正面

聖ニコラエ教会(Biserica Sfntul Nicolae)はブラショフ中心部ではなく,外れたところ,スケイ地区に建つルーマニア正教会.1292年建立だそうだが,当時ブラショフは既にザクセン人の支配下で,ルーマニア人は真当な市民権がなく,こうした外れの区域に自分たちの正教会を建てたそうだ.なおルーマニア全体はイスラムのオスマントルコの支配下にあったが,きちんと納税を果たす限り,イスラム以外(正教,他キリスト教)の信仰は禁止しなかったそうである.

当初ゴシック建築様式で建立されたが,その後バロック建築様式で建て替えられ,現在に至るようだ.


聖ニコラエ教会外壁のイコン

聖ニコラエ教会外壁のイコン

教会内部にももち論立派なフレスコ画があるが撮影禁止で,外壁のこれらキリストなどのイコンはOKだそうだ.カトリックと違って立体像はあまりなく,多くは2次元のイコンを多用するのは正教(東方教会系)の特徴の一つだそうだ.

こちら側は気象条件が良いためかなり鮮明に残っているが,反対側の壁はほぼ消えてしまったようだ.


聖ニコラエの墓

聖ニコラエの墓

聖ニコラエはユーマニアで代表的な聖人の一人なのであろう,聖ニコラエ教会の脇にお墓があった.

ところで1989年ルーマニア革命で,反政府軍に処刑されたあのニコラエチャウシェスク(Nicolae Ceausescu)元大統領も同じ名前だ.ルーマニアの聖人なので,よく名付けられるのであろう.


聖ニコラエ教会脇のルーマニア最古の学校

教会脇のルーマニア最古の学校

ルーマニア最古の学校で,1583年の開校だそうだ.

またちょっと不鮮明(脚だけ見えるか)だが,左側木立の中に見える銅像はルーマニアで最初の印刷機を作った人物で,この学校で用いられるルーマニア語の教科書を発行したという.

当時半ば市民権を剥奪されたルーマニア人民にとって,ドイツ語ではなくルーマニア語で教育を受けることができたのは限りなき励ましとなったことであろう.


下は,聖ニコラエ教会での写真

聖ニコラエ教会での写真
ブラショフの聖ニコラエ教会での写真 ブラショフの聖ニコラエ教会での写真 ブラショフの聖ニコラエ教会での写真 ブラショフの聖ニコラエ教会での写真 ブラショフの聖ニコラエ教会での写真 ブラショフの聖ニコラエ教会での写真 ブラショフの聖ニコラエ教会での写真

スケイ門Poarta Schei

スケイ門

スケイ門

これがスケイ門と呼ばれるブラショフの内と外を分ける門.こちらがメインゲートだと思うがシンプルデザインで,寧ろ隣のカテリーナ門が豪華な感じだ.周囲は城壁が連なっている.


カテリーナ門(Ekaterina Gate)

カテリーナ門(Ekaterina Gate)

スケイ門の直ぐ近くにあって,1559年建設という門.尖塔がなかなか見事だ.カテリーナの名前は,当時近くにその名を冠した女子修道院があったことに由来するらしい.

門の上部にはブラショフの紋章が嵌めこまれている.木の根っ子のような自由曲線多用のデザインはコピーが大変そうだ.


スケイ門近くの通り

スケイ門近くの通り

石畳に赤レンガの建物.中世的雰囲気の街は味わい深い.パラボラアンテナは少し邪魔だが,仕方なかろう.


下は,スケイ門辺りでの写真

スケイ門辺りでの写真
ブラショフのスケイ門辺りでの写真 ブラショフのスケイ門辺りでの写真 ブラショフのスケイ門辺りでの写真 ブラショフのスケイ門辺りでの写真

黒の教会Biserica Neagr

黒の教会外観

黒の教会外観

同じ場所にあったそれまでの教会に代わり,1477年に作られたそうだ.1689年オスマン帝国とハプスブルク帝国軍の戦いで大火が起こり,それで焼け焦げて黒くなり,黒の教会と呼ばれるようになったそうだ.後期ゴシック様式で,高さ65mということだ.

正教ではなくプロテスタント教会(ルター派)だそうで,本来の正式名は聖マリア教会ということだ.

大きな礼拝堂にはルーマニアでは最大級というパイプオルガンが据えられ,またオスマン帝国のスルタンから寄贈されたというアナトリア産カーペットなども飾られている.オスマン帝国がキリスト教徒に対しても一定の理解と尊厳を示したことの表れであろうか.

教会の周辺には当時設立された学校の施設なども残っている.教会は教育機関でもあったそうだ.


黒の教会聖マリアの彫刻も掲げられている

聖マリアの彫刻も掲げられている

壁の柱ごとに彫刻が掲げられている.その中の一つは聖マリア像(写真少し左寄り)で,プロテスタント教会では珍しいことのようだ.黒い石に混じり修復された白い石も目に付くが,新しく嵌めこむのはなかなか大変そうだな~と思える.


下は,黒の教会での写真

黒の教会での写真
ブラショフの黒の教会での写真 ブラショフの黒の教会での写真 ブラショフの黒の教会での写真 ブラショフの黒の教会での写真

レプブリチ通りStrada Republicii

スファトゥルイ広場

スファトゥルイ広場

ブラショフ旧市街の中心に位置したスファトゥルイ広場(Piata Sfatului)はレプブリチ通り(Strada Republicii)の起点で,晴れた昼間であれば市民憩いの場であろう.左側は1420年建築という旧ブラショフ市庁舎で,現在は歴史博物館となっているそうだ.

1420年建築ということは,ルーマニアが既にオスマン帝国の支配下にあった筈だが,ザクセン人の特権は維持されたようで,こうした立派な市庁舎も建設されたのであろう.高い塔は見張り台と市民への緊急通報のために活用されたようだ.

また右側横ストライプの塔はキリスト教会だそうだが,少しトルコ風の趣きが感じられる.


レプブリチ通り(Strada Republicii)

レプブリチ通り(Strada Republicii)

ブラショフの目抜き通りがこのレプブリチ通り(Strada Republicii).歩行者天国となっている広い通りの両側にカフェやレストラン,アパレルのお店が並んでいる.なかなかシックな店構えが多い.


下は,夕暮れ時のレプブリチ通りでの写真

夕暮れ時のレプブリチ通りでの写真
ブラショフ夕暮れ時のレプブリチ通りでの写真 ブラショフ夕暮れ時のレプブリチ通りでの写真 ブラショフ夕暮れ時のレプブリチ通りでの写真 ブラショフ夕暮れ時のレプブリチ通りでの写真 ブラショフ夕暮れ時のレプブリチ通りでの写真 ブラショフ夕暮れ時のレプブリチ通りでの写真 ブラショフ夕暮れ時のレプブリチ通りでの写真

下は,翌日朝のレプブリチ通りでの写真.前の晩に薄っすら雪が積もった.

朝のレプブリチ通りでの写真
ブラショフ夕朝のレプブリチ通りでの写真 ブラショフ夕朝のレプブリチ通りでの写真 ブラショフ夕朝のレプブリチ通りでの写真 ブラショフ夕朝のレプブリチ通りでの写真 ブラショフ夕朝のレプブリチ通りでの写真 ブラショフ夕朝のレプブリチ通りでの写真 ブラショフ夕朝のレプブリチ通りでの写真

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ブラショフ市庁舎

ブラショフ市庁舎

宿泊したキャピトルホテルの前にあったブラショフ市庁舎.20世紀初頭の建築だそうである.


ブラショフ県庁舎

ブラショフ県庁舎

こちらはキャピトルホテル横に位置するブラショフ県庁舎.やはり20世紀初頭に建てられたそうだ.


宿泊ホテルの窓の眺め

宿泊ホテルの窓の眺め

部屋の窓は屋根ばかりであまり眺めは芳しくなかったが,それでも中世的な趣きがある.ヨーロッパの街では一般的なことなのかも知れないが,隣同士くっつけて建物を建てる様子も見て取れる.


下は,ブラショフ他での写真

ブラショフ他での写真
ブラショフ他での写真 ブラショフ他での写真 ブラショフ他での写真 ブラショフ他での写真 ブラショフ他での写真 ブラショフ他での写真 ブラショフ他での写真


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