このブカレスト編ではブカレストへ行くときの風景,凱旋門,革命広場周辺,国民の館周辺,リングランドホテル周辺の写真を載せました.
ルーマニアのブカレストはこの辺りに位置している.
シナイアからバスはどんどん下り,平野に出る.そしてしばらく走ると火力発電所が見えた.往きで眺めたのと同じプラントかも知れない.多分そうだ.日本の火力発電所は海岸縁りが多いように思うが,ルーマニアでは少なからず内陸にもあるようだ.内陸で原油が採取できるためかも知れない.
コンビニを併設した給油所で一休みした.もうブカレスト国際空港に近い辺りだという.別のページでも書いたが,他はともかく輸入品のアルコール類は日本のスーパーよりかなり高価なように見える.
↑コンビニ | ↑給油所 |
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ガソリンやディーゼル燃料はどうやら200円/lくらいのようで,産油国にしてはかなり高いと思う.ガイドAさんに訊ねてみたところ,オランダの石油会社(ロイヤルダッチシェルか?)との以前からの契約で原油を売渡し,精製したガソリンや軽油を輸入しているため高いという.あと10年経てば契約が切れ,国内で精製し安くなる見通しがあるそうだ.
ブカレスト郊外まで入ってきた.集合住宅はトランシルヴァニア地方の中世的住宅と違って,まあ日本のそれと同様ありきたりな外観だ.まあやむを得ないであろう.
さてブカレストの街に入ってきた.ここは美しい並木の大通り,キセレフ通りと称され諸外国の大使館などが立ち並ぶ高級住宅街ということだ.まだ春の芽が吹く前であるが,あと少しすると緑が萌えてさぞかし美しかろう.そしてこの通りの外れに目指す凱旋門がある.
巨大な凱旋門があった.凱旋門と言えば先ずパリのそれを思い浮かべるが,ブカレストにもあった.そう言えばニューデリーにもインド門と呼ばれるものがあった.第一次世界大戦の勝利を記念して1922年に建てられ,後の1936年に改築され現在の姿になったそうである.パリの凱旋門を模したそうで,かなり似た雰囲気に感じられる.
ここの通り,キセレフ通りもまたパリのシャンゼリゼに倣ったそうであるが,より閑静で見方によってはもっと素晴らしいようにも感じられる.以前は実際,バルカンのパリと称せられるほどブカレストは洒落た街並みを誇っていたそうであるが,共産政権支配時代にクラシックな街並みが徐々に破壊され,無機質な感じの街(普通の現代的機能的な街)に変わっていったということだ.ただこうしたことは市民の生活が掛かっていることだし必ずしも咎めることはできないと思う.
下は,凱旋門周辺での写真
ベージュの大きな建物が旧ルーマニア共産党本部(Fostul Comitet Central al Partidului Comunist Roman)で,ちょっと暗いがその手前が革命広場.広場には革命犠牲者のオベリスク状慰霊塔が建てられている.
1945年の敗戦以降ソ連軍占領下で,ルーマニア共産党独裁,『チャウシェスク王朝』とも言えるルーマニア社会主義共和国が存続してきた.それが1980年代後半になるとポーランドを先頭に東欧諸国の民主化運動が巻き起こった.ルーマニアにおいても1989年,チャウシェスク大統領の独裁に対する反旗が上がり,この広場や付近の通りで抗議デモが繰り広げられたそうだ.そして同年12月21日,チャウシェスク大統領がこの広場で動員数10万人という官製集会を催し,写真中程,建物の窪みにある一階くらいの高さの段上から演説したという.しかし群衆の反発は半端でなく,演説は中断,治安部隊を出動し,戦車まで出て,市民に発砲,犠牲者多数発生の事態となる.
そして翌12月22日,チャウシェスク大統領はまたこの壇上から演説を始めたが,市民の抗議の激しさに恐れをなし,屋上に呼んだヘリコプターでエレナ夫人と共に脱出.しかし着陸先で程なく捉えられ,人民裁判で死刑判決,25日には銃殺刑に処せられた.この時の映像は日本のテレビにも配信され,確か目隠しされ壁を背後に床に腰を下ろした二人が銃殺される場面だった.なおこの頃,日本でもチャウシェスク大統領の横暴ぶりはよく報道されていたし,あまりにも強烈な映像だったので忘れることができない.
ルーマニアで知っている名前と言えばこのチャウシェスク大統領とコマネチが代表格であろうが,幸い後者はその見事な演技で世界を魅了したことが救いであろうか.
なおこの大きな旧ルーマニア共産党本部の建物は,上記革命後,共産党は消滅(社会民主党などはあり)し,現在は政府の役所として使われているそうだ.
周辺には重厚な伝統様式の建物が多く残されている.確かに西欧の街などと同じような香りで,バルカンのパリとされたというのも納得できよう.
道路を挟んで革命広場の反対側に建つのは国立美術館(Muzeul National de Arta)だそうだが,私たちは単に外を眺めただけだ.旧ルーマニア王国王宮で,前ページに載せた離宮ペレシュ城などの主でもあったカロル一世が住まわれたところだそうだ.ただここは平野で,街の中.眺めに関してはカルパチア山脈を望む離宮の方が数段優れているであろう.
革命広場の横,旧王宮の反対側のこれまた重厚な建物はブカレスト大学の図書館だそうだ.これだけ大きければ蔵書数も多いであろう.
図書館前の銅像はカロル一世の騎馬姿だそうだ.共産政権時代には破壊されたが,崩壊後に別の彫刻家により造り直されたということだ.王政は王政で問題があったであろうが,共産党独裁政権よりはましということであろう.なおブカレスト大学図書館はカロル一世の時代に建設されたそうである.
イオニア式円柱を持つ入り口,大きな円錐型ドーム,丸い窓....など特徴的だ.どうして『アテネ』と称するのか?はっきり判らないが,入口部分三角屋根と,支える円柱群はアテネの建物によく似ているとは思う.現在ももち論コンサートに活用されているそうだ.
音楽堂の前には銅像がある.隣国モルドバのエミネスクという詩人で,ルーマニアでもこの人の作品は広く親しまれているのだそうだ.
旧王宮の側で,そこから少し離れて建つグレツレスク教会.18世紀建立で,ブカレストでは一番古いルーマニア正教の教会になるそうだ.2つの尖塔やレンガと漆喰で固められた外観が歴史を感じさせる.尖塔の上の十字架の横線(棒)がよく観ると3本ある.正教では2本のものはよく見かけ,一般的なように思うが.....3本の意味合いは聞き漏らしてしまった.
古色を感じさせる入り口の壁画も建立当時のものであろうか.描かれた殆ど全ての人に付された光背(?)が印象的で,果たして仏像のそれと似た意味合いがあるのであろうか?などと思った.
下は,革命広場周辺での写真
この巨大な建物は国民の館(House of the people)として旧チャウシェスク大統領が建てた(未完だったそうだが)ということだ.名前とは裏腹に実際は宮殿として建設していたようだ.部屋数が3,000を越え,何でもペンタゴンに次ぐ世界で2番目の大きさ(床面積)だそうである.
また大きさもさることながら,建材や調度品は極めてゴージャスで,建設には巨額の税が投入されたそうだ.それ故,それでなくとも楽ではない国民生活をさらに圧迫したそうだ.
現在はルーマニア議会の議事堂や観光施設として使われているそうだが,あまりにも巨大で,使われていない部屋が多いようだ.
国民の館の前(と言っても1kmくらい離れているが)には統一広場(Piata Unirii)が設けられている.統一はやはりルーマニア社会主義共和国の成立ということでしょうか?半円形の広場はかなり広く,現在は半ば駐車場,半ば催し物会場として使われている風だった.
半円形の外周部には立派な建物が建てられ,そこからはちょうどローマ劇場の客席から舞台を望むように,国民の館を望む配置になっている.これらの立派な建物は共産党最高幹部の居住用に建設されたそうである.
統一広場からは立派な通りが始まっている.道には並木が茂り,両側に中層のアパート群が続いている.これらもまた共産党幹部クラスのアパートとして建設されたそうである.エライ人程統一広場に近い住居が充てがわれたのであろう.多分.
この道を暫く下るとこの日宿泊のリングランドホテルに至る.
下は,国民の館付近での写真
一日あちこち観光し,ブカレスト郊外のリングランドホテルに落ち着いた.周囲には工場の煙突が聳え,お世辞にも眺めがいいとは言えない.ただカルフールもすぐ近くで便利だ.驚いたことにこのショッピングモールにあの100円店『DAISO』のショップがあってびっくりした.入りはしなかったが,やはり100円くらいの商品が並んでいるのではなかろうか.
この日の夕食は『ムサカ(musaca)』(写真中央)と呼ばれる料理だった.ジャガイモにラム(マトンか?)の挽肉を撫ぜたものに,チーズとトマトケチャップを載せたものだった.その前後にスープ(左)とデザート(右)があった.
味の程はまあ取り立ててどうこうコメントするほどの代物ではないであろう(好きずきだが...).
下は,リングランドホテルと周辺での写真